授業は一日七時間。朝登校してから一時間目開始までは、通称『〇時間目』と呼ばれる自習時間で、私語は一切禁止。もちろん土曜も半日授業。理事長はやたらと生徒に干渉したがり、校長は風紀の乱れを嫌って理不尽な校則を増やしたがる。そんな高校だと事前に知っていたら、彼らも入学をためらっていたことだろう。
 告白カードに関しては、やはりどの学年も同じような反応をしているようだった。
 そのお題は、全学年共通のこともあれば、学年ごとに違う文章が印刷されていることもある。三年生向けに出された最後のお題は、『三年間の高校生活で一番悔しかったことを書け』という比較的簡単なものだった。大学入試直前の時期だったから、さすがの理事長も手加減したのかもしれない。
 一年四組の前を通りかかる。こちらには、教師に関する噂をしている女子集団がいた。
「ねえねえ、野上先生がこめかみあたりに怪我してたの、気づいた?」
「えっ、そうなの? 今日の体育の授業のとき?」
「白いガーゼ貼ってたよね」
「どうせお酒でも飲んで転んだんじゃないの」
「この間、貴重品袋の紛失騒ぎ起こしてたのも、飲みすぎのせい?」
 クスクスと声を潜めて笑っている。野上厚は、高圧的な言動で普段から生徒の不評を買っている体育教師だった。
「先生たち、災難続きだね。緒方先生も、ここの駐車場に停めてた車が凹まされてたってめちゃくちゃ怒ってたし」
「先生の愚痴のせいで、一時間目の最初の十五分がつぶれたもんね」
 さっきまで家庭科の特別補習を受けていた家庭科教師の緒方牧子も噂の対象になっているようだ。
 さらに歩いていき、一年七組の教室に差し掛かった。
「おい、聞いたか? 五時間目の英語、現代文に振り替えだってよ」
「なんで?」
「里紗子ちゃんが無断遅刻だってさ」
「はあ? 里紗子ちゃん、いくらなんでもやらかしすぎだろ。遅刻ったって、もう昼じゃん」
 一年生男子たちの大声が教室の中から聞こえる。非難しているというよりは、どこか面白がっている、好意的な声だ。
 水口里紗子は、学校一の人気を誇る、二十七歳の英語教師だった。明るい茶髪を腰近くまで垂らし、冬でも毎日ミニスカートをはいて形のいい脚を強調している。私立高校の教師というよりは雑誌モデルのような外見だ。
 教科書の英文から派生して現実の生徒同士の恋愛事情にまでズバズバと切り込んでいくあけすけな授業スタイルや、友達のような軽い口調で話しかけてもノリよく応えてくれるボーイッシュな性格、校長の生活指導方針そっちのけで生徒の茶髪や巻き髪を褒めたりする校則への無頓着さが、男女問わず好かれる所以となっていた。とはいっても、どちらかといえば、やはり男子からの人気が根強い。英語の授業では、黒板や教科書の文字に集中せずに、水口の身体のラインばかり眺めている男子生徒が多かった。
 水口里紗子や伊藤倫太郎のように、生徒の立場を理解している教師はまれだった。
 基本的に、黒川は教師を信用していない。学校という上下関係のはっきりした場所に長くいるせいで、自らの実力を見誤り、生徒に対して中身のない権威を振りかざす人間が多いからだ。例えば体育教師の野上は生徒が思いどおりに動かないと怒りを爆発させるし、家庭科教師の緒方は個人的な不満や苛立ちを授業時間中に語ることで解消する。
 中学の頃から、違和感を覚えるようになった。学校という空間には、どこか背中がむず痒くなるような気持ち悪さがある。大人が身勝手なルールを決め、無力な生徒はそれに従わざるをえない。要求される“色”に染まろうとせず、そこから外れようとすると、教師や真面目な生徒から冷ややかな目を向けられる。何が正しくて、何が間違っているのかという議論は一切行われない。与えられた環境に自分の身を適応させられなかった者は、見捨てられ、脱落していくしかない。
 高校を休み、不良グループに出入りし始めたのは、単純に期待したからだった。
 そこには本当の仲間がいるのではないか、と思った。学校に行かないという勇気ある選択をした青少年だけが集う場所には、自律と自由が待っているのではないかと想像した。
 だが現実は違った。不良グループは学校以上に狭い世界で、学校以上に無意味なルールで縛られていた。
 結局、両者の仕組みは同じだった。
 閉鎖的で、理不尽。
 学校にも、不良グループにも、黒川が求めていたものはなかった。ルールを押しつけてくる教師も、ルールの中で当たり前のように学校生活を送っている他の生徒も、その環境を自らの意思で抜け出しておきながら強者と弱者を区別するルールを作ろうとする不良仲間も、全部嫌いだった。
 居場所がない――という感覚が、今も拭えない。
 水口里紗子のファンらしき男子生徒の集団をやり過ごし、さらに歩を進めた。一年八組の教室を過ぎれば、すぐそこは昇降口だ。まだ冷たい外の空気が流れ込んできて、黒川は襟に顎をうずめた。
 ――卒業式の予行演習まで、どこで時間をつぶそう。
 そんなことを考えながら下駄箱に足を向けたとき、後ろの廊下が急に騒がしくなった。
「ねえ、見てこれ! 里紗子ちゃんが!」
 振り返ると、教室から飛び出した女子生徒が、横向きにしたスマートフォンを掲げていた。青ざめた顔をしている彼女の周りに、クラスメートがわらわらと集まる。
「え、これ里紗子ちゃん?」
「うん、名前が書いてある」
「嘘、これやばいじゃん」
「とりあえずクラスのみんなに回すね」
「先生たち知ってるのかな?」
 他のクラスでも同じタイミングで情報が広まったのか、廊下で喋っていた生徒たちが血相を変えてスマートフォンを覗きだした。「やだ、何これ!」と甲高い声で叫んで顔を覆う女子生徒や、画面を見つめたまま口を開けて立ち尽くしている男子生徒の姿が目に入る。何かの動画でも見ているのか、一年生たちが手にしているスマートフォンからはアナウンスのような低い音声が流れていた。
 廊下の手前から奥のほうへと、ざわめきは急激に広がっていった。スマートフォン使用禁止の校則のことは、誰もが忘れているようだった。教師に没収されたら親が学校に取りに来ないと返してもらえないため、こそこそと隠れて使用するのが鉄則なのに、ほぼ全員がスマートフォンを手にしたまま叫びあっている。それどころか、近くに立っていた一団が「先生たちに知らせよう」と職員室の方向へと走り去っていった。
 何を考えているのだろう。スマートフォンで得た情報を教師に喋るなんて、自殺行為だ。
「お前ら、何見てんの?」
 近くにいた一年生男子に声をかけた。咎められたように聞こえたのか、小柄な男子が怯えた顔をして振り返る。黒川の胸元についた校章が一年生を示す緑ではなく三年生の赤色であることに気づくと、彼はいっそう顔をこわばらせた。
「み、水口先生が監禁されてるんです」
「は?」
 思わず声を上げ、一年生男子を凝視した。目つきの鋭さは自覚している。彼はすくみ上がり、スマートフォンを差し出した。
「これです」