二階では、家庭科教師の緒方牧子が野上と同じように歩き回り、ヒステリックな声で指示を飛ばしていた。仕方なく、さらに階段を上って三年生の教室が並ぶ廊下へと出る。
 登校している生徒がほとんどいないからか、三階は比較的静かだった。教師が注意を呼びかけている様子もない。立ち止まってスマートフォンで例の動画をもう一度再生しようとすると、バタバタと廊下を走る音がして、三人の男子生徒が近づいてきた。
「あれ、黒川じゃん。学校来てたんだ」
 三年一組のクラスメートだった。さっきまで教室で卒業式後の打ち上げを企画していた連中だ。
「里紗子ちゃんの動画、見た?」
「ああ」
「やばくね?」
「やばいな」
「さっき教室の窓から外見てたらさ、パトカーが校門から入ってきたんだよ。ネット上で騒ぎになってるから、警察が事情を訊きに来たんだと思う。もしくは先生たちが通報したのかも。黒川も見に行く?」
「いや、俺はいい」
「そっか。じゃあ何かあったらクラスのグループに書き込むから」
 クラスメート三人は、興奮した様子で階段を駆け下りていってしまった。大変なことが起きているという実感よりも、自分たちがちょうど学校に来ているときに大事件が発生したことによる高揚感のほうが強いようだ。
 廊下に取り残された黒川は、壁に寄りかかり、動画の再生を始めた。
 暗い部屋に、二十代の女性教師が一人。
 そして、淡々と撮影を続ける誘拐犯。
 誰もいない廊下でもう一度見ると、背中が薄ら寒くなった。
 水口里紗子は、猿ぐつわをかませられ、結束バンドで手足の動きを封じられて、日光が差し込まない薄暗い部屋に監禁されている。
 おそらく、今も。
 誰かが助け出さない限り、ずっと。
 そして三日後には――。
ぞくりとして、全身の毛が逆立った。高校の教室という平穏な環境でしか関わったことのない教師が何者かに誘拐されたという事実は、簡単には受け入れられないものだった。
 スマートフォンをポケットに戻し、顔を上げる。目の前の教室が三年八組であることに気づき、ちらりと中を覗いてみた。生徒は誰もいなかった。一人も登校していないということはないだろうから、担任教師の一大事に騒然として、職員室にでも報告に行ったのかもしれない。
 三年八組の連中は、水口里紗子と親友のように仲が良かった。学校行事後にクラスで行う打ち上げには毎回水口も同席し、「他の先生方には秘密ね」などと生徒に口止めしながら二次会のカラオケまで一緒に行っていたという話だから、その親密度は相当なものだ。今ごろ他のどのクラスよりも衝撃を受けているだろう。
 廊下に立ち尽くしたまま動画を何度も再生しているうちに、長い時間が経っていたようだった。
 校内放送が、スピーカーから流れた。
『全校生徒の皆さんに連絡します。事情により、本日午後の授業は中止にします。卒業式の予行演習も行いません。学校には残らず、全員速やかに下校してください。なお、校門の前に報道関係者が集まっていますが、質問には答えないようにお願いします。繰り返します――』
 もうマスコミが来ているのか、と驚く。ただ、よく考えると、監禁動画自体は午前十時からひっそりと公開されていたのだから、むしろ学校関係者が情報を把握するのが遅かったのかもしれない。ということは、外部の人間の手によりネット上で一気に情報が拡散したのが、さっき一年生が騒ぎ始めたタイミングだったのだろう。
 鞄を肩にかけ直し、階段を下りて昇降口へと向かった。
 二階や一階では、下級生たちが口々に水口里紗子の監禁動画について噂しながら廊下へと出てきていた。昇降口が混む前に帰ろうと、黒川は急ぎ足で下駄箱へと向かった。
 校舎を出たところには、三名の教師が並んで立っていた。緊急下校する生徒たちを誘導する役割を与えられているのだろうが、まだ昇降口から出てくる生徒が少ないためか、教師同士で固まってひそひそと話し合っている。
 彼らのそばを通り過ぎたとき、会話の内容がかすかに聞き取れた。
「水口先生も、大変なことに巻き込まれましたね」
「ねえ」
「担任しているクラスがあと三日で卒業だというのに」
「こんな形で欅台高校の名が全国に知れ渡るなんて、理事長がどんな顔をすることやら」
「本当ですよ」
 違和感を覚え、思わず振り向いた。一年生か二年生の担任だろうか、黒川とは面識のない教師たちだった。それぞれが眉を寄せ、愚痴を言いながら校門の外の報道関係者を眺めている。
 三名とも、水口里紗子を心配している様子は微塵もなかった。
 ――同僚が誘拐されたというのに、どうしてそんな態度を取れるんだ?
 首をひねりながら、スニーカーをつっかけて外へと出た。昇降口のすぐ横にある駐輪場から自転車を引き出し、地面を蹴って勢いをつけてからサドルにまたがる。
 校門を通るとき、待ち構えていた幾人かの記者に声をかけられた。寄ってくる大人たちを無視して、ペダルをこいだ。
 頭の中には、三名の教師たちの迷惑そうな表情がこびりついていた。