第二章(承前)
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捜査車両のエンジンを切ってもまだ轟音が鳴りやまない。上空を米軍の戦闘機が横切り、着陸したかのように見えたが、またすぐ飛び立った。
「おお、やってるね。F35Aステルス戦闘機のタッチアンドゴー」
助手席の松本が嬉々として捜査車両を飛び出した。彼は長野県出身だ。ミリタリーマニアで、戦闘機好きが高じて沖縄県内の大学に進学。そのまま沖縄で警察官になった。
松本は、目の前の胡屋十字路に目を細める。
「ここが例の胡屋十字路か」
一九七〇年のコザ暴動のことを言っているのだろう。米兵の交通事故をきっかけに暴徒と化した沖縄民が集まり、MPや米軍関係者の車両七十台以上をひっくり返したり、火をつけたり、嘉手納基地の第二ゲートに殺到して侵入しようとした。死者は出ていない。
夏美はガジュマルの木陰に入って首周りの汗をぬぐいながら、嘉手納基地の第二ゲートがある西の方向を見渡す。ここから約五百メートルにわたり米兵向けの飲食店が軒を連ねている。バーやショーパブ、シーシャや、タトゥショップの他に、ファイトクラブまである。決闘罪でたびたび摘発が入っているところだ。
ここで働く日本人も刺青を入れている人が多く、路上喫煙、飲酒も非常に多い。那覇の国際通りに次ぐ、取り扱い事案の多さだ。最近は観光客も寄り付かず、より雰囲気が悪くなっているように見えるが、一歩路地を入ったら住宅が密集している。バス待ちの高齢者が段差に座り、朝夕は水筒を持った小学生が走る。夕方になると部活帰りの中学生が塾に行く姿も見かける。国際通りよりも住宅街が近いので、夏美はいつもこの通りを危うく感じる。
「それにしても閑散としているね。昼間だからかな」
「いまは観光客もコザには来ませんから」
「そうだ。桃原さんは嘉手納町出身だったね」
この辺りは沖縄市だが、基地を挟んだ西側は嘉手納町だ。
「旧海軍駐機場がすぐ目の前でした」
夏美の声がでかいのはそのせいだ。
「うるさすぎて旧海軍駐機場は移転したんだよね」
「いまでも駐機場を使っていますよ。エンジンをかけっぱなしで給油しますし、タッチアンドゴーだって平気でします」
協定で使用しないと日米で取り決めたが、米軍が約束を守らないのはいつものことだ。抗議したところで、本土は常に米側の肩を持って沖縄の声を受け流す。
松本が「ここだね」と胡屋十字路のミュージックタウンの脇にある四階建ての雑居ビルを見上げた。三階に目当ての『コザクラブ』はある。ゴルフ場会員券を取り扱う事業者だ。
まだアポの時間まで三十分以上あった。
「少し通りを歩いてみますか。この界隈は古謝理事長のシマですし」
コザゲート通りを西へ向けて歩く。
「嘉手納町で育ったのなら、この界隈にもよく遊びに来てた?」
「来ませんね。基地を突っ切ることはできませんから、何キロも歩かないと嘉手納町からこの通りには出られません」
「確かに。嘉手納基地は国内最大の米軍基地だもんね。滑走路は三・七キロだっけ」
「しかもこの界隈は旧特飲街でAサインバーが並んでいるようなところですよ」
特別飲食店街というのは簡単に言えば赤線だ。戦後、米兵による婦女暴行事件が頻発し、幼女からおばあさんまでもが米兵に拉致され、強姦された。米兵の暴挙から『良女』を守るために米軍基地近くに作り上げられたのが特別飲食店街だ。夫を戦争で亡くした女性や、農地を取り上げられて仕事がなくなった人の妻や娘が売春公認の店で働かざるを得なくなった。
「Aサインだ。これは珍しい。写真撮っちゃお」
松本は観光気分か、閉店中のバーの窓に掲げられた米軍の営業許可証にスマホを向けた。アルファベットのAの文字をあしらった許可証はとっくに無効になっているが、歴史的価値があるので、未だ掲げている店もある。
「桃原さんの実家はまだ基地の反対側にあるの?」
「いいえ、両親は名護に引っ越しましたし、私も浦添に家を買いましたから」
「それがいいよ。なにも好き好んでこんなところに住み続ける必要はないしね」
戦闘機の爆音や燃料のにおいは夏美の幼いころの記憶と結びついている。自宅の前を出た先の路地を右へ行けば、もう嘉手納基地のフェンスが目の前だった。
いまの松本のように「引っ越せばいいのに」と夏美も小さいころは思っていた。気持ちのよい風がコンクリートブロックの花型の隙間を通り抜ける季節になっても、騒音と悪臭で窓すら開けられず、空を切り裂く戦闘機の音で食卓の味噌汁は震えた。家族の語らいも喧嘩も談笑も、常に中断する。
引っ越そうよ、と言うたびに、夏美の両親は同居していた祖母を見るのだ。
〝返してもらえると思ってたわけ〟
祖母は戦火に逃げ惑ううちに家族とバラバラになってしまい、両親や姉、弟はハワイの収容所に送られた。未だ消息がつかめず、遺骨のひとつも見つかっていない。ただひとり石川の収容所に送られた祖母は、二年後の収容所の閉鎖に伴い追い出され、故郷に戻ってみたら、家はフェンスの向こうでブルドーザーで壊された後だった。
〝あそこが自宅なんだとフェンスに立つ米兵に訴えたら、いつか返せるかもしれないから、そこら辺の空き地に住んで待てばって言われたわけ。仕方なく近所の人たちとキカクヤーに住んだんやさ〟
戦後復興の目的で建てられた非常に簡素な規格住宅のことだ。台風が来るたびに吹き飛んでしまうほどやわな造りだった。
〝しょうがないからコンクリートブロックの家を建てたの。それがこの家ね。おばあはいまでも待ってるの。アメリカーがあの土地を返してくれるのを〟
片側二車線のコザゲート通りには車両がひっきりなしに通り、空を舞う戦闘機の音は遠雷のようにしか聞こえない。通り沿いに植えられたヤエヤマヤシの下のベンチでは、ランニングを着て肩と腕のタトゥを晒した日米の若者が酒を呷る。
かつては泥酔した米兵が暴力沙汰を起こしてばかりいた。ここで生きる人々が地域の愚連隊に用心棒を頼むのは自然なことだった。ここは那覇と並び、沖縄ヤクザ発祥の地と言える。現在の二代目琉世会の源流だ。ナンバー2の古謝理事長のおひざ元でもある。
東京で殺害された喜屋武はこの通りの路地裏で生まれ育った。一方、第一発見者の比嘉謙信は那覇市牧志の出身だ。国際通りのすぐそばで、経歴を見る限り喜屋武と接点はない。上京した時期も八年ズレている。比嘉は沖縄料理店ゆいまーるの客だったのか。それとも喜屋武と親しい仲だったのか。
夏美は捜査用に支給されているタブレット端末を出し、つい先日、内偵担当が秘匿に撮影した古謝康正の画像を示した。
沖縄映画社の創業者の息子である彼は、このゲート通りの北側、パークアベニューで育った。
松本が夏美のタブレットを覗き込む。
「確か昔はセンター通りと言ったところだよね。照屋特飲街があったところ」
「ええ。嘉手納基地の黒人兵が遊ぶ地域で、白人はゲート通りというふうにすみ分けがされてたようですね」
双方が足を踏み入れようものなら即暴力沙汰になっていたらしい。
「いまはそういう区別もなくなり、パークアベニューはこじゃれたお店が多くなりました。公的機関の入るビルもありますし、沖縄映画社の本社ビルもそこにあります」
本社の脇に沖縄映画社配給の映画館があり、古謝はいまでもよく入り浸っている。かつては俳優として映画出演を果たしたこともある。端正な顔立ちで五十九歳にしては若々しく、よく日に焼けている。高級ブランド・ボルサリーノのパナマハットに老舗テーラーで仕立てた白いスーツ、特注品の白い革靴が彼のトレードマークだ。
「時計はウブロ。セカンドバッグはエルメスを好んで持っています」
松本はコザゲート通りを見渡し、錆の浮いたシャッターや、破れて風に吹かれているオーニング展張、『係争中につき立ち入り禁止』と貼り紙された廃墟などを見る。
「いまどきこの界隈のシノギだけでここまで儲けられるもんかね」
「無理でしょう。暴力団排除条例施行以降は、みかじめ料を払う店も激減しています」
「御曹司だから金はあるか」
「古謝は三十代のころに創業者の父親から絶縁されています」
『アシバーの風が吹く』という三時間超えの大スペクタクル映画を撮ったが全く観客は入らず、制作費二億円をどぶに捨てたことで、創業者である父の逆鱗に触れたのだ。
「彼はその映画でプロデューサー兼脚本兼主演兼監督をやっていました。沖縄映画社は資金繰りが悪化して不渡りを出しかけたのを、初代琉世会の会長から資金援助を受けて、命拾いしたらしいです」
古謝はこの借金返済のために琉世会で下働きを始めて、やがて盃を交わすに至っている。
「父親の遺産も相続できなかった。なんとかせしめようと兄弟や母親を脅して、懲役食らってます」
「クズだなぁ、とことんクズ。でもこの笑顔。憎めないタイプだよ」
映画館でスタッフと談笑している画像を指さし、松本は苦笑いした。
「日中は映画館で暇つぶししていることが多いですね。県内の闘牛、闘鶏、闘山羊に顔を出して、賭博を仕切っています。彼自身の主なシノギはそれくらいですね」
松本は顔をしかめた。
「闘牛も闘鶏も大学のころに見たけどさ、動物を戦わせて血まみれにさせているのを見てドン引きしたよ」
沖縄の伝統文化だが、動物虐待と捉える人はいるだろう。C30J輸送機が連隊で頭上を飛び去っていき、会話が途切れた。
「戻りましょうか。アポの時間です」
胡屋十字路脇の雑居ビルの階段を上がった。『コザクラブ』のガラスの扉は開け放たれていた。はいたい、と顔を出すなり、黒々とした髪を七三に分けた老齢の社長が対応に出てきて、テーブルに案内した。壁際のデスクに中年女性がいた。お茶をいれようとしていたので、断った。
夏美は早速、コザクラブの事業内容を聴取した。ゴルフ会員権の売買がメインだが、他にも金券や航空券、新幹線チケットなどの売買も手掛けているという。
警察の聴取に慣れていないのだろう、社長は何度も手のひらの汗を太腿でぬぐっている。
松本が喜屋武孝明の運転免許証画像を出した。
「この男、ご存じですか。喜屋武孝明」
社長は老眼鏡をかけてまじまじと喜屋武の顔写真を見た。
「いや、知らない男ですね」
漢字を説明するや社長は書き留めて、女性事務員の肩を叩いた。これまで売買した顧客にその名前がないか検索してくれたが、ヒットはなかった。
「彼が滞在していた東京のホテルの部屋に、琉球、パーム、カヌチャというメモが残っていたんです」
「それは確かに県内のゴルフ場ですけど、うちではこの人と取引したことはないですね」
「彼は地面師だったと証言している人もいます。心当たりはどうでしょうか」
「地面師? なんですかそれ」
松本が過去にあった地面師事件の例を出し、手口を説明した。
「へえ。そんな事件が本土であったんですか。さすが東京ですが、沖縄で地面師は無理でしょう」
言われてみれば、と夏美も頷くが、松本はきょとんとしている。
「なぜ沖縄では無理だと思われるんですか」
「東京みたいに人間関係が希薄ではありませんから。偽者の所有者なんて無理。沖縄は親戚づきあいも近所づきあいも濃厚です。しかも小さな島で海に囲まれて逃げ場もない。土地の所有者や業者を装うのは無理です」
松本が食い下がる。
「沖縄の人口は百四十六万人。全部が全部顔見知りなんて、ありえません。桃原さんだって県警内に遠縁がいる? 学生時代の友達はいた?」
「いましたよ。同期に二人、教官は遠縁の人でしたし、うちの課長」
照屋紀一というスキンヘッドの叩き上げ刑事だ。
「課長は母の小学校時代の教師の息子です」
松本は降参と言わんばかりに両手を上げた。社長が苦笑いを浮かべる。
「もしやそちらの刑事さんは本土人ですか」
「ええ、長野県出身です」
「お嬢さんは沖縄人」
「はい。嘉手納町出身です」
「うるさいところで育ったんだね。どおりで声がよく通る」
背中を向けていた事務員も微笑み、場が和んで雑談に花が咲いた。松本が勝手に夏美の祖母の話を始めた。社長の顔色が変わる。客を見る目だった。
「てことは桃原さんは、軍用地主?」
こちらが返事をする前に社長は立ち上がり、『軍用地求む』と書かれたチラシを持ってきた。
「私の弟がね、軍用地売買専門の業者なんですよ。もしよかったら」
「いえ、父は相続していないんです」
「そうでしたか。嘉手納だったらいい値段で売れたでしょうに」
夏美は軍用地の話をあまりしたくなかったが、話題についていけない松本に、社長が親切に説明する。
「弟がね、ゴルフ場の会員権を持ってるような金持ちには軍用地主も多くいるだろうから、このチラシを配ってくれってうるさくて」
夏美は丁重に礼を言い、チラシは受け取らず、コザクラブを後にした。
コインパーキングに停めた捜査車両に戻るなり、松本が騒いだ。
「軍用地か。確かにたまに『軍用地求む』っていうチラシや看板を目にしているけど、実は詳しく知らないんだよね。つまり、米軍基地のことでしょ?」
「自衛隊基地も含まれます。沖縄の土地の十パーセントが軍用地ですが、そのうちの三分の一が私有地だったんです。毎年、借地料が地主に対して発生しています」
「え、沖縄県民って米軍から金もらっているってこと? あ、いや桃原さんのおばあを非難しているわけじゃないんだけど」
夏美はひと呼吸おき、感情を表に出さないように慎重に説明する。
「旧日本軍が沖縄での組織的戦闘を終えた一九四五年六月二十三日以降、米軍が住民を収容所に押し込めて、勝手に土地をブルドーザーでならして基地にしてしまったんです。つまり強制接収です。当時は借地料など一円も支払われることはありませんでした」
一九五三年の日米講和条約以降に米軍は借地料の支払いに応じるようになった。
「本土復帰後は日本政府が毎年、借地料を支払っています」
借地料が年々値上がりしているとか、長者番付が公表されていた頃、県内で必ず名前が出る実業家は実は軍用地主で、毎年二十億円近くを受け取ってる、などの話はしなかった。日本の安全保障のために私有地を貸しているのだから借地料をもらうのは当然の権利だが、沖縄県内では平和運動が盛んで反基地を叫ぶ左派の声が大きい。だから先ほどの松本のように「米軍から金をもらっているのか」と批判的なまなざしを向けられることがある。
一方で、軍用地主だったがために身を滅ぼした例だってある。夏美の父親がそうだった。
就職もせず、様々な商売をやっては数年で潰すというのを繰り返していた。それもこれも軍用地料という原資があったからだ。やがて祖母が亡くなると、軍用地の相続をめぐって仲がよかった三人のきょうだいと揉めて裁判にまで発展した。父がこれまでの商売の失敗で積み重ねて来た負債を祖母が軍用地料で肩代わりしていたこともあり、父は軍用地を相続できなかった。その時すでに還暦近くになっており、新たに商売を始めることも就職もできず、いまでは夫婦で月五万円の年金とアルバイトをして細々と暮らしている。
桃原門中は仲がよかったのに、いまや音信不通で、夏美までも清明祭に呼ばれなくなった。両親は、公務員夫婦となった夏美をしょっちゅう頼って小遣いをせびりに来る。これから子供が生まれてくるのに、両親のせいで貯金もままならない。
「軍用地主か。長野では聞いたことがないから、沖縄ならではの地主と言える。つまり喜屋武が詐欺を仕掛けてた土地かもしれないね」
松本がビジネスバッグから分厚い書類を引っ張りだした。クリップ留めされたものが二つ、電話帳くらいの厚さがあった。
「喜屋武は地面師詐欺をやっていたという情報を得てから、一応、沖縄県警管内での詐欺事件一覧を捜査二課に出してもらってたんだよ。そういえば、軍用地詐欺に遭ったという珍しい被害相談が一件あった」
猛烈な勢いで書類を捲っている。
「さっきコザクラブの社長が言った通り、沖縄では地面師詐欺は無理だと思いますよ」
「それは沖縄人相手には無理ってことであって、本土人相手なら可能じゃないか。沖縄ならではの事情で土地から手を引かざるを得ない――それって軍用地のことかもしれない」
やがて松本は「これだ」と手を止めて、クリップ留めを外した。♯9110という、緊急性の低い被害相談の総合窓口に匿名でかかってきたものだった。松本が読み上げる。
「軍用地売買の取引のために那覇空港に降り立ったところ、現地の不動産屋の車に乗せられ、アカムヤーという場所に連れていかれた」
アカムヤーとはどこだろう。沖縄の正式な地名にはない。
「そこで引き合わされたユタに、土地取引から即座に手を引かないと祟りがあると言われ、開発業者もみな手を引いてしまい、事業計画がとん挫してしまって投資したお金が返ってこないと相談者が語った」
「ユタが地面師詐欺に関わっているというんですか」
ユタは沖縄や奄美にいる民間霊媒師、シャーマンであり、沖縄人の人生に密着している。人生の節目節目でユタの下に相談に行く沖縄人は、現在でも多い。
「桃原さんはユタを信じる?」
「信じるというか、沖縄の大切な伝統、信仰に携わる人です。そのユタを詐欺師扱いするのはちょっと……」
夏美はユタに人生相談をしたことはない。嘉手納のそばにある夏美の育った集落にもユタはいたが、彼女が「あの結婚はよくない」と言った夫婦は添い遂げた。「あの土地はよくない」と言ったところに出店したカレー屋はいまでも流行っている。ただ添い遂げた夫婦には子供がなく、カレー屋は一度ボヤ騒ぎを起こしている。これをもってユタの言葉を信じるか信じないかは、人それぞれだ。
「その件の捜査は進んでいるんですか」
「いや、この電話がそもそも、空港からスマホでかけられたもので、空港警察の刑事課が取り次いだ。電話を受けた刑事は、被害者と直接話して居住地域の警察署で相談するようにアドバイスして終わっているね」
帰路の飛行機を待つ空港から被害相談を受けても、沖縄県警は動きようがない。
「相談者の詳細は?」
「名乗ってない。居住地も聞いていない」
「そもそもアカムヤーってどこですかね」
「知らないの。うるま市の勝連の方にある森だよ」
驚いたように松本が夏美を見た。
「アカムヤーは赤い森っていう意味で、よく沖縄の小説とかルポとか読んでると出てくるんだ。妖しい売春街だったって」
軍用地の事情すら知らなかったのに、松本の知識は偏っている。
「特飲街があったところですか? 勝連の方の米軍施設と言えばホワイトビーチですけど」
「いや、米兵向けの売春街ではないんだよ。あくまで日本人向けで、他の特飲街では売れなくなった年増の売春婦を集めた売春宿ばかりだったと読んだ記憶があるよ」
松本がスマホの地図アプリを開いた。沖縄本島中部にある、東の太平洋に突き出た勝連半島をスマホに表示させて、検索画面に『ユタ』と入れている。
「グーグルマップにユタの居所が登録されているわけがないですよ」
「いや、一件、ヒットあったよ。食堂ちゅらかーちー」
松本はこの食堂の口コミを一件一件、確認し始めた。総合評価は5点満点中3・1と高くはない。松本が早速、夏美に示した。
『評価1。詐欺師。軍用地でぼろもうけ』
夏美は自分のスマホで再確認する。食堂ちゅらかーちーは、琉球王国時代に建てられた世界遺産、勝連城跡の北西側にあった。口コミをざっと読む。
「ここを切り盛りしている女将がユタだとみんな書いてますね。ユタ目当ての観光客が殆どみたいですけど」
評価が高い人と低い人が半々で、三や四をつけている人がいなかった。あたるかあたらないかで評価が真っ二つということか。軍用地で儲けていると告発めいた投稿をしたアカウントは一件だけだ。他の投稿は全て都内の飲食店だった。このアカウントは東京在住の人だろう。
「アカムヤーのユタ。そそられるな」
松本はもうナビに勝連の住所を入力している。
安慶田バイパスで若干渋滞があったが、三十分かからず、勝連に到着した。ナビに従い、県道を逸れて路地に入る。七十年代に建てられたコンクリート造りの家屋が点在している。平屋根の上に水タンクを設置し、ひし形の隙間があいたブロックで囲んでいる家屋も見られた。やがて舗装路が途切れ、走るたびに赤い土煙が舞い上がった。道がどんどん細くなり、リュウキュウマツが車窓に触れる。
岩場に根を張るアコウの枝葉の隙間から中城湾が見渡せる。舗装路ではないせいか、砂煙が舞ってバチバチと捜査車両を叩いた。
「やはりアカムヤーは風が強いんだね。赤い森、言いえて妙だ。辻や真栄原や吉原で売れなくなった年増の売春婦の終着地点」
真栄原や吉原は普天間飛行場に近い特別飲食店街で、二〇一〇年代まで売春街としてにぎわっていた。本土の売春街のように「新地」と呼ばれるほどだったが、県警や女性団体の浄化作戦で消えた。
辻は那覇市内にある、明治時代から遊郭があった場所だ。ここはいまでもキャバクラやソープランドなどがひしめく沖縄屈指の風俗街になっている。
「いやね、いつかユタに見て欲しいと思ってたんだけど、まさか捜査線上に浮上してくるとはな」
「なにを見てもらうんですか」
「この沖縄移住や県警への就職は正しかったのかと思わない日がなくもないというか」
松本は気弱にほほ笑んだ。沖縄は産業が少ないので、公務員は一番人気の職業なのだ。多くはない採用枠を本土の自分が奪ってしまったと松本は一人で気にしていた。
平屋建てのコンクリート造りの廃墟が見えてきた。壁には泡盛の絵が描かれていたようだが、消えかけている。真っ赤なサルビアの上から黄色いゴールデンシャワーの花が降り注ぐように咲いている。門扉に置かれたシーサーも風化し輪郭がぼやけている。改装されてカフェになっている建物が一軒あった。
食堂ちゅらかーちーは、この通りの行き止まりにあった。車両を近くの空き地に止めて、路地を進む。顔をすっぽり覆う大きさのクワズイモの葉に看板が隠れてしまっていて、オーニング展張の軒先の店名が読めない。『開店』の札は下がっている。店の入り口の引き戸は開きっぱなしになっていた。
「はいたい。沖縄県警ヤイビーン」
沖縄語で名乗りながら中に入ってみた。学校の食堂みたいに長テーブルが無機質に六つ並んでいて、ボロボロのパイプ椅子が窮屈そうに押し込まれていた。デイゴやシーサーの絵が描かれたテーブルクロスがかかっている。客は一人もいない。
「めんそーれ。ぬーやが」
厨房から腰の曲がった老婆が包丁片手に出てきた。しゃがれた低い声でいらっしゃいませと言ったそばから、なににするのかと問う。沖縄県警、と聞こえなかったようで、繰り返しても何度も聞き返してくる。耳が相当に遠い。厨房に他の人の気配はない。この腰の曲がった老婆がひとりで切り盛りしているのだろうか。皺が深く刻まれた顔はよく日に焼けていて、シミだらけだった。口元の大きな黒子から毛が一本生えている。顎にも白い髭がちらほらと見えた。歯が一本もないようで、鼻の下から顎までくしゃっと潰れている。
「とりあえず、おかず二つで」
沖縄の食堂の定番を松本が頼んだ。『おかず』と頼むと、だいたいメイン料理と副菜、米と汁ものが出てくる。老婆は包丁を上へ下へ振り回しながらなにか訴えてきた。松本が通訳を期待する目を向けるが、夏美にはわからなかった。
彼女は無言で踵を返し厨房に入った。
「入れ歯をはめてくれないかな、あれじゃ桃原さんでもなにを言っているかわからないよね」
「いや、入れ歯でも無理かも。彼女の言葉、八重山語ですね」
「え、沖縄方言とは違うの?」
「沖縄語は主に首里周辺でしゃべられていた言葉です。八重山語は石垣島とか波照間とか、台湾に近い離島の方の方言で、私は全くわかりません」
「困ったな。英語で話しかけてみるか」
おばあハロー、と松本は厨房に向かって声をかけた。老婆は包丁を持ったまま出てきた。
「あー?」
「あの、アーユーユタ?」
おばあはにたと笑い、イエス、と答えた。自分を指して「カウ」という。
「牛?」
「イエス、イエス。ウシ・イレ」
伊礼ウシという名前かなと夏美は推測した。手帳を出して書くが、おばあは引きつったように笑っただけだ。
彼女はこの蒸し暑い中で長袖を着ていた。節くれだった手は皺とシミだらけだが血管が浮き出て力強そうだ。手の甲から指にかけてハジチが彫られていた。
「おばあ、それハジチね?」
ウシは顔を覆い、シェイムと言った。
「そのマークなんですか?」
松本がウシと夏美を交互に見た。
「ハジチは琉球王国時代からある女性の刺青です。厄払いとか婚姻の願いが込められていたそうですけど、内地に連れていかれないために刺れた女性も多くいたらしいです」
琉球処分の際に、薩摩藩から来た武士に多数の沖縄女性が奴隷労働のために薩摩へ強制連行されている。武士に強姦された女性も多くいたのだ。
夏美は改めて警察手帳を示し、軍用地について尋ねてみた。ウシは「アメリカー」と言って、拝むそぶりをした直後、ぺ、と舌を出した。どういう意味だろう。彼女もまた軍用地主であり、賃料をもらっているが、アメリカは嫌いということか。
松本が遠慮がちながらも、地図アプリに投稿された『詐欺師』の文言を見せた。ウシはよくわからないようで、首を右へ左へ傾げる。
「沖縄語も八重山語もそうですが、表記がないんです」
夏美は松本に耳打ちした。ウシは標準語もよくわからない様子だから、もしかしたら字が読めない可能性がある。離婚率、失業率ナンバーワンの沖縄だが、実は未就学者の割合も高い。戦中に学校に行けずじまいだった高齢者がその数字を押し上げている。
夏美は地面師詐欺については触れず、軍用地の売買について祈祷やアドバイスをしたことがあるか、沖縄語、日本語、英語、図をまじえてウシに伝えた。ウシは白濁した目を夏美や松本にやるだけで、最終的に外国人のように肩をすくめた。
厨房に消えたウシを見て、夏美は苦笑する。
「あれで地面師詐欺ができるはずがないです」
「だな。会話が通じない」
「念のため、喜屋武の写真を見せますか」
「いや、いいだろ」
ウシがステンレスの台車をゴロゴロと押して厨房から出ようとした。ゴーヤチャンプルーになかみ汁、ごはん、ジーマーミ豆腐がお盆に載っている。厨房とホールの段差で台車が突っかかり、汁が盛大にこぼれた。夏美と松本は駆け寄り、それぞれにお盆を持ってテーブルに戻った。特別おいしいわけでもまずいわけでもない、『おかず』だった。豚肉はカスのように細切れでゴーヤは歯ごたえがない。若干味の濃さも気になった。
水のおかわりを注ぎにやってきたウシが、なにかしきりに訴えかけてきた。カモンと腕を振って店の外に出ていく。
松本に続いて夏美も席を立ち、店の外に出た。ウシは腰が曲がっている割にしっかりとした足取りで森の中に分け入る。木々の根が盛り上がる乾いた地面を器用に踏み分けて先へ進む。アコウの木の根に侵食された岩場を見上げ「ラピュタみたいだ」と松本は目を輝かせた。その先にぽっかりと穴が開いている。ガマと呼ばれる洞窟だ。
ウシはガマの中へ入り、姿が見えなくなった。夏美も続き、岩や石ころに足を取られないように気を付けた。松本は入口で躊躇していた。
「ここって、集団自決とか……」
「沖縄には自然のガマがたくさんあります。全てのガマで不幸があったわけではないですよ」
松本は手を合わせた後、ガマの中に入った。湧き水が近くにあるのか、足元はぬかるみ、水の垂れる音がする。中はひんやりとしていた。かろうじて外の光が差し込む場所に、八角形に象られたコンクリートが置かれていた。上部はくぼんでいて、灰の塊が残っている。ユタが祈願をする拝所だ。その目の前には岩と一体化したガジュマルの気根が見えた。血脈のように根を巡らせている。ウシはポケットからウチカビと呼ばれる黄色い紙を取り出した。宵紙、あの世のお金と言われている。ライターで火をつけた。
「ここは御嶽なんですか」
御嶽とは沖縄の自然信仰で聖地と呼ばれる場所で、このようなガマや海辺の崖、無人島などが御嶽と呼ばれて信仰の対象になっている。ウシが祈祷を始めた。
「サリ、アートートー、ウートートー」
こちらはなんの相談もしていないのに、なにを祈祷しているのだろう。普通は冒頭で相談者の氏名や住所、年齢、干支を読み上げるのだが、それすらもこのユタからは尋ねられていない。
夏美はとりあえず両手だけは合わせ目を閉じてみた。目からの情報が消えると自然と体の内側に意識が向く。お腹に息吹を感じた。三日後が定期検診の日だなと思っているうちに、ウシに声をかけられ目を開けた。腰が曲がった彼女は低い位置から松本と夏美を見上げ、しきりになにか訴え始めた。鬼気迫る表情をしている。八重山語なのでさっぱり理解できない。
「マブイ、マブイ」
マブイは『魂』という意味だ。ウシは夏美と松本の目を白濁した瞳で順繰りに凝視する。
「ドロップ、ドロップ。あー。マブイ、ウティヤ。ウティヤビーン」
彼女も知っているだけの言語を使って伝えようとしてくる。ドロップは英語で落ちる。ウティヤも沖縄語で落下を意味する。
「魂が、落ちる?」
いきなりウシに体を押された。「セブン!」とか「オール!」とか叫んでいる。腰の曲がったおばあさんとは思えない腕力だった。松本も手を払われている。帰れ帰れと、追っ払われているのだ。ウシは叱責しているような口調でまくしたて、ひとりガマを出て行った。夏美もついていったら、振り返って拒否するような声をあげた。やがて空をさして指をくるくる回した。
「カジ、カジ、カジ」
松本は心底戸惑ったふうに、夏美を見る。
「カジは沖縄語で風とか、台風とか」
確かに、台風がフィリピン海で発生しているニュースを今朝見た記憶があるが、進路が紀伊半島に向かっていたので気にしていなかった。
「魂が落ちる、というのはなんだろう。まさか死ぬとかそういう意味?」
「いえ、大変なことが起こって呆然とするとか、気が気でなくて日常生活がままならなくなるような状態を意味します。基本的に魂は七つありますから、全て落ちなければ、の話ですが……」
「七つ……あのユタ、セブンとかオールとか叫んでたよね」
七つの魂が全て落ちてしまう、という意味か。夏美の脳裏に『死』が浮かんだが、口にはしなかった。ふいに突風が吹き荒れて、木々がざわめき始めた。人間の力では収拾がつかないものに囲まれているような不安がどっと押し寄せ、背筋が寒くなる。口では強がってみる。
「ユタはああやっていつも曖昧なことしか言わないんですよ。結局、受け手が余白を解釈するしかない」
夏美は笑い飛ばしたが、ウシのだみ声が耳にこびりき、拍動が収まらない。全身に鳥肌が立ったのは、風の冷たさのせいだと自分に言い聞かせた。
魂込めの儀式をしてもらおうか。魂を落としたら、拾う儀式があるのだ。作法は覚えていないが、ユタでなくてもできる。夏美が昔、鉄棒から落ちて頭を打ったとき、母親がやってくれた。だが母親に連絡をしてマブイグミをしてもらったら、また父親がしゃしゃり出てきて、金をむしり取られそうな気がする。
いきなり肩を掴まれ、はっと我に返る。少し悲鳴が漏れた。
「大変だ」
松本がスマホを耳にあて、こちらを見ていた。松本の通話相手は誰だろう。かかってきていたことにも気が付かなかった。松本は視線を逸らして通話相手に返事をしたあと、緊迫した様子で電話を切った。
「一体どうしたんですか」
「照屋課長からだ、大至急、那覇空港に行けと。警視庁のマル暴が十九時半の便で到着するそうだ」
夏美の頭に深紅の口紅を塗った凛とした藪哲子と、くわえ煙草でいつもニヤついている桜庭誓の顔が浮かんだ。
「まさか女マル暴二人組?」
「ああ。そうだ」
「喜屋武の件でしょうか」
「いや、六代目吉竹組の件だと言っているらしい」
日本最大の暴力団組織が、どうしたというのか。
「三日後、沖縄に来るそうだ」
魂が落ちる――。
ユタの預言が脳裏をかすめる。
(つづく)