第二章 アカムヤーのユタ(承前)
*
翌日の昼、西池袋の吉竹組系二次団体、清池會の事務所へ向かった。
現場ビルの前にはマスコミが一組いた。カメラマンとスタッフ、若い女性リポーターが打ち合わせをしている。
藪がふいにこちらを振り返り、頬をつまむようにして触ってきた。
「お前、また今仲が泊まっていったか?」
「いいえ。昨晩は来てませんよ」
「そういや、山東飯店にも来なかったね」
「捜査で浦安にいるって言ってましたけど」
吉竹組の組長との会合となれば、管轄する大阪府警に話を通しておかなくてはならない。誓はあらかじめ今仲に伝えたのだが、彼はそれどころではない様子だった。
「お前は向島といちゃつくと絶対に翌日、お肌がもちもちになるんだ。女性ホルモン大量放出」
藪は天を仰いで「ああ気持ち悪い」と言い放った。
「だってずっと離れ離れだったんだもん」
自分で言っていて気持ち悪いが、ぶりっこして尻を振ってみる。
「お前にとって向島春刀はなんなんだ」
誓は立ち止まってしまった。いきなりそんなことを問われると思ってもみなかった。
「――捜査対象ですけど」
「お前の担当は向島一家であって、六代目吉竹組じゃない。私的にはどうなんだ。父親として甘えたい存在? 憧れ、推し、大切な存在?」
誓は答えなかった。全て当てはまる。
「そんなんでお前、ヤクザを取り締まれるのか」
「この関係を利用しろって言ったのは藪さんじゃないですか。じゃあ向島と距離を取れというんですか」
「利用できないならな」
誓は口を真一文字にした。
「昨夜もなんの情報も取れなかった」
「あちらもなにも知らないんですよ、たぶん」
「たぶん?」
すみません、と誓は謝った。藪はヒールの音を鳴らして歩き出す。お前をマル暴に慰留したのは間違いだったかもしれない、と聞こえた気がした。
「いまなんて言いました?」
誓は慌てて追いかけた。藪は二度言うことはなかった。
清池會の事務所はラブホテルとソープランドに挟まれた雑居ビルにあった。暴力団は自社ビルでないと代紋や看板を掲げることができないため、総長である『池田清』の表札が一階の鉄の扉の脇に張り付けてあった。
若い衆に案内され、パーテーションで区切られた応接スペースの革ばりのソファに座った。胡蝶蘭が三鉢、並んでいる。
十分待たされ、池田清総長が現れた。八十歳で義足だが、滑らかに歩いている。座ったとき、スラックスの裾から人工関節を覆う靴下が見えた。豊島区育ちの池田は母親の背中におぶわれていたとき城北大空襲に遭い、右足首から先を失ったそうだ。両手の五本の指はそろっている。ヤクザとしては順風満帆だったと思われる。
「喜屋武孝明ね。あいつは地面師ではないかと私は疑っていますよ」
座る間もなく、池田は切り出した。藪が身を乗り出す。
「地面師――土地売買を舞台にした詐欺師ってことですか」
「有名な事件が五反田でありましたね」
地面師グループが土地の持ち主や架空の不動産業者などを装い、大手不動産会社から五十五億円をせしめた。大手不動産会社は売買契約を急ぐあまり、いくつかの調査を怠ってしまい、騙された。
「沖縄はここんところリゾートバブルに沸いているでしょう。西海岸はどこも土地が高騰しています。那覇の中心地なんか、東京二十三区のはずれと値段は変わりませんから」
「沖縄の土地を舞台にした地面師ってことですか」
成りすますための複数の『役者』が必要になってくる。比嘉のあの似合わないリクルートスーツ姿はなんらかの役を担っていたからか。向島一家の三下が縄張りでもないところでそんなことをしていたとしたら、倉敷が慌てて消えたのも理解できる。親分に知らせずにやっていたのだろう。
「まあ、私はどうやって金をせしめているのかのからくりは知りませんが」
若い衆が茶を出した。池田は、相撲取りが報奨金を受け取るときのような仕草を見せて、煎茶をすすった。
「沖縄は独特なんですよ。そもそも東京から遠すぎるし、歴史も文化も、言語も違う。ウチナーグチなんか、もはや方言じゃない。外国語でしょう」
「池田総長も沖縄にはよく行かれるんですか」
「行かないですよ。用はないですし、リゾートに興味もありません。本土の人間が青い海や白い砂浜に癒されに行くのにも、ちょっと私は抵抗がありますよ」
池田はソファにもたれ、昔話を始めた。
「私が学生のころはまだ沖縄は本土復帰前だったんですが、沖縄からやってきた国留組というのがいました」
米軍統治時代の米民政府の政策で、沖縄人の中から優秀な若者を選抜して資金援助し、米国や本土の大学に留学させる制度があったそうだ。
「真っ黒の豊かな髪によく日に焼けたエキゾチックな女の子が、その国留制度を利用して大学の同じクラスにいました。明るく人気者でしたけどね、決して本土人に心を開いてはいなかった。私にだけ本心を打ち明けてくれたのは、私の足がなかったからでしょう。戦争の傷を持つ者同士、シンパシーがあったのかな」
喜屋武の話とどう繋がるのかわからないが、誓は黙って聞いた。
「一九六〇年代、高度経済成長期真っ只中で、本土はどんどん豊かになっていく。でも当時、沖縄はまだ戦争中なのだと、彼女は言いました。彼女の出身の集落にはね、ガスボンベが電柱にぶら下がっていたそうですよ。強姦、強盗目当ての米兵が集落に入ってきたら、吊るしたガスボンベを叩いて村人に知らせる」
ある時は、昨日まで元気だった男性教師が米兵に暴行され傷だらけで教壇に立つ。ある時は、クラスメイトの女の子が米兵に強姦され学校に来なくなる。学校の帰り道では近所のおばさんが米兵のジープに轢かれて死ぬのを見る。
「そんな日常を過ごしていた彼女の目に、国土の防衛を沖縄の米軍任せにして豊かさを享受する本土の様子はどう映ったか。しかも誰ひとり、沖縄を気にする人はいませんでしたしね。それはいまも昔も変わりません」
池田は若い衆が出したおしぼりで口や手を丁寧に拭った。
「私は保守ですがね、沖縄民の、本土や米軍への怒りを極左だ共産党だと切り捨てる最近の風潮はよろしくないと考えています。本土の人間は、知らなさすぎるんです」
池田が上目遣いにこちらを見た。
「つまり本土の人間が安易にオキナワの土地に手を出すべきじゃない、ということです」
オキナワ、というとき、外国人のするように指でダブルクォーテーションマークを作った。
「先ほど、喜屋武は地面師と言いましたね。喜屋武が沖縄の土地所有者を装って東京の人間を詐欺にかけているということですか」
池田が頷いたが、誓は沖縄の土地売買に絡む詐欺被害を、警視庁管内で聞いたことがなかった。無意識に首を傾げていたようで、池田が付け足す。
「被害者は被害に遭ったと思っていないんですよ。被害届が出ていなければ警察は認知しない。警察が認知していないからといってなにも起こってないと考えるのは警察の驕りですよ」
「地面師事件は被害の発覚が早いものですが、被害者は泣き寝入りしているということですか」
「ええ。沖縄を知らないから。沖縄はこうだから仕方ない、とあきらめるらしいですよ」
具体的な手口を藪が教示願ったが、池田は知りません、と繰り返す。
「こちらだってどれだけ手口を知りたかったか。この池袋でいま最も稼いでる反社は喜屋武ですよ。池袋を縄張りにする我々からしたら目につきます。昔の流儀を通すならば、人の庭で商売をする以上、筋を通すべきだ」
つまり上納金を寄越すか、恩恵にあずかれるように仲間に入れろということか。
「しかし、いまは六代目から厳しく抗争の火種になるようなことはしないように言われてますからね」
かつて側近を動かし、喜屋武と接触したことがあるらしい。池袋で人を騙して儲けているなら、シノギの内容を教えるか上納金を払うか、迫った。喜屋武は土地を買わせる詐欺であることを匂わせたが、そのからくりは言わなかったし、上納金も拒否したそうだ。
「昔なら喜屋武をリンチしてでも吐かせましたよ。すると琉世会が報復にやってきて即座に抗争です。私は六代目から絶縁処分でしょう。解散を迫られ、シマを取り上げられる」
清池會には、喜屋武を拷問にかける動機がある。だが内臓をミキサーしたり眼球をくりぬいて飾ったりする必要はない。
現場に犯人と被害者以外の第三者がいた痕跡もないので、見せしめとして遺体を弄んだ可能性も低い。
臓器を明らかに料理していた――あれはヤクザの報復の一部というより、猟奇趣味のある殺人犯によるものにも見える。
誓はソファに座り直した。
「ところで六代目吉竹組が琉世会と兄弟盃を交わしていない件、ご存じですか」
池田の表情が一瞬だけ固まった。
「私は外交のことは知りません。琉世会とも付き合いはありませんし」
「吉竹組は三代目以降、沖縄のヤクザとは良好な関係を築いていたのに、どうして二年経っても盃を交わさないのか、知りませんか」
「沖縄はそもそも本土が嫌いですから」
池田が断言したがすぐに表情を緩めた。
「沖縄ヤクザも何度も抗争して痛い目を見てるでしょうしね。吉竹組の分裂騒動を見て、琉世会も嫌気がさしたんでしょう。吉竹組からしたって、いまさら琉世会との兄弟盃にこだわったところで、なんになります?」
池田が若い衆に茶器を片付けさせた。
「あちらさんがいらんという盃を、強引に交わしたところで、兄弟関係では上納金もありません。シノギが増えるわけでもないでしょう、あんな基地だらけの小さな島で」
誓はコインパーキングに停めた捜査車両に戻りすぐにエンジンをかけエアコンを最強にした。車内は五十度近くになっていそうだ。沖縄県警の桃原夏美に電話をかけた。
藪は助手席には座らず、顔だけこちらにのぞかせている。
「途中から話が逸れていたぞ。琉世会の兄弟盃問題と、ゾーキチャンプルー事件。繋がるのか?」
先に夏美と電話が繋がった。
「ヤッホー桃原さん」
「初めて私の本名をまともに呼びましたね。ようやく覚えてくれて感謝感激雨あられです」
「ところで昨日はウィキペディアなみの薄い情報をどうもありがとう」
「お役に立てて光栄です」
「あんな資料、クソの役にも立たんかったわ、舐めとんのか」
「出たー、人に圧力かけるときだけ関西弁。そうは言われても、A4二枚にまとめろと言われたからああするしかなかったさー」
「やめろ、沖縄方言。だんだんなに言っているかわからなくなるから」
「やまちだー、てえげえしんしっさ」
「ワレ、いてこますぞ」
「喜屋武の親にあたる古謝理事長からは聴取しましたよ。一家での葬儀の準備に追われ、涙を浮かべていました」
「で?」
「で、というと」
「子分がゾーキチャンプルーだぞ。犯人に対する報復に動くに決まっている」
「わかっていますよ。内偵の人員を増やします」
喜屋武は地面師だったという証言が出たと伝えた。夏美は困惑していた。やはり沖縄県警も把握していない。
「具体的にどのような手口ですか」
「それはわからないが、被害者は、沖縄を知らない、沖縄ならではの理由を前にあきらめる、とかなんとか」
「そんな雲を掴むような話じゃ全く手口が見えませんね。そもそも地面師事件は土地売買が成立した時点で詐欺師はドロン。被害はすぐに露呈します。被害の申告をあきらめる理由はなんですか」
誓の脳裏に、ホテルの部屋に残されたメモが浮かぶ。琉球、パーム、カスチャ。夏美に投げかけてみる。
「カスチャじゃなくてカヌチャのことじゃないですか? 琉球、パームヒルズ、カヌチャベイ、全て沖縄県内のゴルフ場の名前です」
むかつきつつも感嘆してしまう。この沖縄県警の女マル暴はやはり優秀だ。
「喜屋武はゴルフ場会員権の売買もやっていたかもしれない。地面師の件のヒントがそのあたりにあるかも。調べてくれる?」
池袋の捜査本部ではなく、桜田門の警視庁本部に戻った。捜査二課のフロアに顔を出す。顔見知りがいないので、デスクでひたすら電卓を叩いていた銀縁眼鏡の男に声をかけた。
「マル暴の桜庭です。お話いいですか」
男は立ち上がったが最後まで電卓に指が残っていた。
「警視庁管内で地面師事件って最近、発生していますか」
「五反田の事件以来、ないですね。小さな事案なら、所轄署レベルで対応しているかもしれませんけど、基本地面師グループが仕掛けるのは億単位の土地建物売買詐欺ですからね」
「相談レベルで構わないので、土地売買に関する詐欺被害リストなんか出たりしませんかね」
「わかりました。作っておきます」
誓は拝み、振り向きざまにお尻を振ってサービスしたつもりが、電卓刑事は見向きもしなかった。
暴力団対策課にある自身のデスクに戻り、『沖縄 土地売買 詐欺』というキーワードで事件検索をしてみた。
過去十年で沖縄リゾート開発投資を巡る詐欺事件が三件ヒットした。どれも五年以上前の事件で、同一人物によるもの。これは手付金の数百万円を搾取してドロンするパターンで、組織化された詐欺ではなかった。犯人は現在、服役中だ。暴力団員でもない。
地面師による事件は沖縄をキーワードにすると一件も出てこない。地面師に限らず詐欺事件に絞り込んでみると百件近く出てきたが、殆どが特殊詐欺だった。
目がしょぼしょぼしてきた。立ち上がり、肩を回しながら掛け時計を見上げる。もう二十一時になっていた。
誓は比嘉の取り調べの進捗状況を聞くため、池袋署の乗鞍に電話した。やはり弁護士が口出ししてくるので進んでいないらしい。
「倉敷を道交法違反で手配しませんか。親を絞れば子も吐くでしょう」
肩を叩かれ電話を切る。藪がコーヒーと紙袋片手に立っていた。
「お前ここにいたの。池袋署でいろいろと情報出てたぞ」
「藪さん、曳舟に行ってたんですか」
紙袋のロゴを見て誓は尋ねた。
「本部に戻るついでにちょろっと監視拠点に寄った。若い衆がトランク広げて着替えを詰めてたよ」
向島はそろそろ曾根崎に帰るのかもしれない。
「池袋署での情報っていうのは?」
防犯カメラ映像を切り取った大判の写真が誓のデスクに滑り込んできた。事件現場である西池袋一番街の通りを捉えている。酔客に紛れて、腰の曲がった老婆が写っていた。
「地取り班が、事件当夜に現場のビルに入った二百人の人着を割り出した」
主に雀荘と海鮮居酒屋の客だそうだ。二代目琉世会や吉竹組系の人間は映っていなかった。
「この老婆だけ、エレベーターの何階で降りたか判明していない」
誓は現場の雑居ビルを思い出す。
「防犯カメラがないフロアって、二階のゆいまーるだけですよね」
「その通り」
「このおばあさんが犯人? 腰が九十度曲がっちゃっていますよ」
地面を舐めるように歩いているから、防犯カメラにも後頭部しか映っていない。この老婆がエレベーターに消えた時刻は二十時三十四分だった。
「変装したか、非常階段から出たのか。階段の防犯カメラは壊れていた」
誓は解剖所見を捜し、引っ張り出した。
「喜屋武は身長百八〇センチ、体重百三キロの大男ですよ。腰の曲がったおばあさんが殺せますか?」
ビルの清掃人とか、一階の海鮮居酒屋のパート従業員などではないのか。
「その可能性も含めて、捜査中だ」
藪が勢いよく隣のデスクに座り、USBメモリを取り出しながらノートパソコンを起動した。件の防犯カメラ映像を再生する。
腰の曲がった老婆が杖もつかず、当該ビルのエレベーターへまっしぐらにやってきた。ボタンを押したところで、誓はパソコンの動画を一時停止した。
「事件の日は熱帯夜でしたよね。長袖着てます、このおばあさん」
「袖にフィンガーループがついてるな」
袖の先の紐を中指に引っかけて、袖がまくれないようにしているのだ。暑苦しい。
藪が静止した画像を拡大、鮮明化した。老人特有のシミや大きな黒子が指に見えたが、よく見ると幾何学的な直線やパターンになっている。
「これ、なんですかね。黒丸と黒い二等辺三角形に十字のマークが入ってる」
「落書きか? 刺青とも思えないし」
今仲から電話がかかってきた。大至急、帰れという。歌舞伎町のマンションに来ているらしい。そういえば昨晩も何度もスマホを鳴らしていた。
歌舞伎町のマンションに帰ってきた。今仲はエレベーター脇の集合ポストのそばで待っていた。宝飾品店のロゴが入った小さな紙袋を指先に引っかけて、手を後ろで組んでいる。いかにも女を待っているふうなのに、ヤクザふうの男が通り過ぎるとガンを飛ばしていた。
「きっしょ。まじで買ってきたの」
今仲は途端に表情を緩め、一緒にエレベーターに乗る。
「その程度のことで何度もスマホ鳴らさないでくれる」
「それはまた別件や。さ、はよ入ろ」
エレベーターを降りて部屋に入った。今仲は手洗いうがいを済ますや改まった調子でダイニングテーブルに座った。誓も向かいに腰掛ける。
「あのさ。指輪くれるんだろうけど、なんで自宅? 素敵なレストランとかホテルのスイートルームとかやないんかい」
「仕事の話もあるんや」
今仲が小さな紙袋からビロードのケースを出した。その隣に、A4の封筒を置く。『浦安ベイマリーナ』というロゴが入っていた。
「なにその書類」
「どっちか選んで」
今仲が指輪ケースを開けた。小粒のダイヤモンドをあしらったプラチナの指輪だった。
「この資料はなに」
「本多が今日一日、動いていた詳細や」
誓は迷いなく書類を取り、中身を取り出した。今仲はわかっていただろうに「そっちかいな」とうなだれて、指輪を仕舞おうとした。誓はすかさずそちらも奪い取った。
「欲張りでごめんね。こっちは契約書?」
「そう。レクサスLY650のレンタル契約書」
「レンタカーを契約したからなんなの」
「レンタカーやない。LY650はクルーザーや」
本多が船。彼の性格や趣味と結び付かない。
「浦安ベイマリーナに陸揚げされたレクサスLY650に乗り込んで、あれやこれやと細かく確認しとった」
六代目吉竹組は質素倹約に努めている。高級クルーザーでどこかへ豪遊するとは思えない。誓は契約書を捲った。レンタル期間は十日間。行先は沖縄、泡瀬ハーバーマリーナ。
肌が粟立って止まらない。
「本多は、右腕一本で乗降できるように手すりがどうとか、話しておったで」
「向島が乗船することを想定しているってことね」
今仲はまた大きく頷いた。
「出港は明日の十一時。高知と鹿児島に補給寄港し、三日後には沖縄に到着する。二日滞在し、東京に帰る予定らしい」
「府警はどうするの。出港を阻止する?」
今仲はくせ毛の頭をかいた。判断しかねているのだろう。
「琉世会との兄弟盃のために沖縄へ行くだけかもしれんが、ただのバカンスとも考えられる」
四代目吉竹組時代、向島はたびたびクルーザーに乗ってマカオでカジノへ行く親分に付き添っていた。
「向島はギャンブルをしない。そもそも今回の行き先はマカオじゃなくて沖縄でしょ」
「この契約書が嘘っぱちでなければな」
「昨晩、向島に散々琉世会のことを聞いたのよ。でも向島はこれっぽっちも沖縄に行く話をしなかった」
「隠したい理由がなにかある」
「つまり、兄弟盃に行くわけではないのよ」
しばし二人でうなってしまう。
「阻止するか。泳がすか。誓ちゃんならどうする」
「沖縄のヤクザが東京で惨殺されたばかりなのよ。しかも向島一家の若い衆が第一発見者」
「向島一家はみなアリバイはあると聞いたで」
池袋署で鑑取り捜査が進んでいるようだ。
「だいたい、こんな大きな話を警視庁じゃなくてなんで私個人にするの」
「向島一家のメンツは誰一人船には乗らん。乗鞍さんには報告したけどな」
「こっちに情報が下りてきてない」
「藪と桜庭には言うなと釘を刺された」
「なんでよ」
「六代目吉竹組の担当ではないからやろ。しかも人員も予算も減っている中で、上部団体の内偵までできへんのは当然や」
「そうだけど、向島は向島一家の顧問だよ。私が捜査する権限はあるし、倉敷総長は吉竹組の若頭補佐。やっぱり警視庁にも捜査権はある」
今仲に抗議しても仕方のないことだった。
「とにかく。向島らが上京してきたのは船に乗るためだったのよね。大阪にもマリーナがあるのに、どうしてわざわざ?」
「大阪は吉竹組のおひざ元や。全てのマリーナが警戒して暴力団を締め出しとる」
浦安にあるマリーナは吉竹組への警戒が殆どなく、レンタルできたということか。
「そもそもなぜ船なのかしら」
今仲は顎をさすりながら、視線だけ誓に投げかけた。
「沖縄まで三日かかるのよね」
「補給が必要やろうからな。レクサスであっても燃料は持たん」
「飛行機なら関空から二時間なのに。飛行機ではできてプライベートクルーザーならできることってある?」
考えたが、釣りなどのレジャーしか浮かばない。
「もしくは、飛行機では持ち込めないなにかを沖縄に持っていくつもりかしら」
今仲も同じことを考えていたようだ。
「銃器か」
まさかと誓はかぶりを振った。
「抗争しに行く? あれだけ抗争を嫌っている向島が、ありえない」
二人揃って腕を組み、考え込む。誓はあるひとつの仮説を思いついた。笑われるかもしれないのでややかしこまって切り出す。
「なんの証拠も挙がっていないけれど、向島が吉竹組統一のさなかで人を殺してきたのは間違いないと思う」
矢島の双子に総本部に招かれたときの話をした。
「あの時、矢島の双子と向島が相対するのを見ている。向島は特に、矢島勇を恐れているように見えた。武闘派ですぐ手が出る進じゃなくて、策略家の矢島勇の方ね」
勇の遺体は大腿骨の一部が発見されたのみだ。
「もしや勇は足を失っただけでまだ生きていて、沖縄の兄弟分のところに匿まわれているとか?」
「そんな荒唐無稽な話、あるかいな」
今仲が一笑に付した。
「でもそうだとしたら、二代目琉世会の島袋は兄貴分を殺されたわけだから、兄弟盃を交わさないでしょう。向島が不眠症になるほど追い詰められている理由にもなる」
だって、と勢い込んでつい咳き込む。
「向島は決死十四人衆のひとりよ。殺人に慣れているはずの彼がここにきてあんなに病んでいるのは、きっとそこに理由があるんだと思う」
今仲はこの点については賛同した。
「向島のあの不眠症の原因は確かに矢島勇かもしれん。特別な存在、恩人やったはずやからな。恩人を手にかけたら、そりゃ病む」
恩人という言葉に誓は目元が引きつった。
「どこが恩人? 無理難題を押し付けてくる困った老人にしか見えなかったけど」
今仲がしれっと誓を見た。深刻なそぶりを隠そうとするとき、いつも今仲はこの目になる。
「誓ちゃん。覚悟して聞いてや」
誓は背筋を伸ばして、膝に手を置いた。
「育てのお父さん――桜庭功元警視が上げた調書、決死十四人衆のリストの、府警が黒塗りにした部分の話や」
誓は目を見開いた。
「やはり今仲さんはあの黒塗り部分を読める立場なのよね? あなたは決死十四人衆が誰なのか知っている」
その話はまた後で、と流される。
「証拠はなにも見つけられへんかったが、桜庭元警視が、向島の腕を亡くした顛末を書き残しとる」
誓は口を引き結び、今仲を凝視した。知っていたのか――。
「向島は内縁の妻を、親分の息子に強姦され、殺された可能性が高い」
初めて聞く話だった。誓は唾を飲み込む。
「激怒した向島が犯人を惨殺した。親分の実子や、向島が死んで詫びろという運びになるのはわかるやろ。赤ん坊だった誓ちゃんを人質に取られていた、なんて話もあったらしい。誓ちゃんの命を助けてもらうために、向島は腕を落とした」
今仲はしばらくたってから「らしい」と付け足した。ぎし、と口の中から嫌な音がする。誓は無意識に歯を食いしばっていた。
「普通、腕を落としたら死ぬで。腕を落とせというのは、そういうことや。でも向島が死なずに済んだのは、矢島勇のおかげやった。彼の采配ですぐさま闇医者の治療を受けられた。殺されかけた赤ん坊も桜庭元警視が発見できる場所に置いてきた。親の実子を殺したヤクザとその赤ん坊が生き延びる道筋をつけたのは、矢島勇やった。向島の頭が上がらんのは当然の話。誓ちゃんが無事もらわれてすくすく成長していると小耳に挟むたびに、矢島勇に感謝と義理の念が湧いたはずや」
その矢島勇を、向島は決死十四人衆を使って殺したのか。
「矢島勇だけは人任せにしないでしょうね、向島のあの性格なら」
「矢島勇に直接手を下したのは、僕も向島やないかと思う。だからいま、あんなに苦しんどるんやないか」
眠れず、やつれ、常に歯を食いしばっているふうの彼の面持ちを思い出す。
「恩人を手にかけてまで組織を統一した男や。誓ちゃんの言う通り、僕は向島が銃器を船に詰め込んで沖縄に乗り込みに行くとは、思わへん」
今仲はやや強引に現在の話に繋げた。なぜいま、この話をしたのか。いつか聞かせるつもりだったのだろうが、誓はダイヤの指輪に目を落とす。
それでも実父を捜査対象として取り締まれるのかという覚悟を求めているのか。いつか今仲の妻となったとき、彼の足を引っ張りかねないからこそ、早いうちに言わねばならないと考えたのかもしれない。
誓は目をぎゅっと閉じた。瞼の裏に浮かんだのは育ての父、桜庭功が仕事の資料に囲まれた和室でぽつりと死んでいた姿だった。
誓は目を開けた。口が勝手にしゃべる。
「出港を阻止する。今仲さん、なんでもいいからカード出して」
よっしゃ、と今仲は強く頷きかけ、腕まくりした。こういう時のため、府警は向島に対し、一般人相手では逮捕できないような微罪を積み上げているはずだ。
(つづく)