第一章 臓器(承前)
警視庁本部から地下鉄丸ノ内線、半蔵門線を乗り継ぎ、曳舟駅に降り立った。スカイツリーに見下ろされながら通りを歩き路地に入るとベージュ色の外壁の五右衛門ビルが見えてきた。誓はその隣にある玉虫色のタイル張りがされた立山ビルに入った。かつて一階はつぶれた豆腐屋でシャッターが閉まりっぱなしだったが、去年、こじゃれたカフェがオープンした。平日のいまも客がぱらぱらと並んでいる。
薄汚いエレベーターに乗り込んで最上階で降り、階段で屋上に出た。曳舟は細い路地に戸建てが密集する下町だ。大規模マンションや高層ビルの数は多くなく、このビルも周囲を遮るものはない。スカイツリーだけが見下ろしてくる。
誓はあのタワーがあまり好きではない。十八歳、大学受験に猛進していたころに開業した。合格したら一緒に行こうね、と育ての母と約束した。母が交通事故で急死したのはその翌日だった。育ての父はその四年前、誓が中学校二年生の反抗期真っ只中のころ、脳出血で死んだ。桜庭功、大阪府警では伝説と言われるマル暴刑事だった。
さて誓の実の父親は――。
誓は屋上の北側一角に置かれたプレハブハウスのカギを開けて、中に入った。
誓と共に監視拠点を守っている女マル暴刑事が、畳敷きの一角に腹ばいになっていた。壁をくりぬいてレンズがはめ込まれた望遠鏡に見入っている。一九九六年警視庁剣道大会の記念Tシャツにジェラートピケのハーフパンツという頓珍漢な恰好をしていた。
藪哲子警部補、五十六歳。警視庁初の女マル暴刑事として珍しがられていたのは今や昔、もう定年まで五年を切った古株だ。
傍らのちゃぶ台にはオロナミンC、リポビタンDなどの空き瓶が転がっている。汁を飲み干したカップラーメンのゴミ、黄ばんだ割りばし、スルメ、眠気覚ましのガムのゴミなども散乱していた。昨日の朝から藪がひとりで見張りに入っていた。「おつかれー」と首だけ回して誓を上から下まで見て「また手ぶらかよ気が利かねー」と罵る。
「来ました? 向島春刀」
誓はちゃぶ台の脇にあぐらをかいて、テーブルの上のゴミの中に食べ残しのお菓子がないか探した。柿ピーがひと袋残っていたので、つまむ。
「まだ丸ちゃんから連絡来てない」
丸田という丸太のように太い同僚のマル暴刑事がいま、東名高速道路を走る向島春刀組長ご一行の行動確認をしている。大阪から上京し首都高に入っているころだろう。渋滞に巻き込まれなければ、あと三十分かからない。
藪を肩で押し出して強引に望遠鏡をのぞく。向かいの五右衛門ビル六階の角部屋の玄関扉がよく見えた。向島一家の事務所だ。扉は開いた状態で固定され、日本最大ヤクザの親分を出迎えるため、若い衆が落ち着かない様子で出たり入ったりしていた。
「で、どうだった。刑事部のお偉いさん方を集めたプレゼンは」
「検討を加速します、ですって」
藪はなにも応えず、財布から二千円を出して誓に投げた。
「下のカフェでクラブハウスサンド買ってきて。朝からなにも食べていない」
誓は千円札を握り、プレハブ小屋を出て一階へ降りた。藪はこの店の甘ったるいカフェモカが好きだ。バニラビーンズと生クリームをカスタマイズしてもらっている真っ最中に、スマホが鳴った。
「早く戻れ、向島を乗せたセンチュリー、もう言問通りだぞ」
誓は急いで金を払い、監視拠点に戻ろうとしたが、足を止めた。五右衛門ビルに向かう。出入口脇の壁にもたれて、到着を待った。暴力団側も常にマル暴に監視されていると知っているから、姿を見られても構わない。いや、むしろ誓は、向島に自分の姿をさらしたい。見て欲しい。
やがて現れたセンチュリーがウィンカーを出し、駐車場に入っていく。後から覆面パトカーが二台、ついてきてた。丸田が乗った品川ナンバーの警視庁の追尾車両と、大阪府警のなにわナンバーの車両だった。
誓は外壁に背中をつけ、建物の脇にある駐車場を覗き込んだ。センチュリーからガードが二人降りてきて、恭しく後部座席を開ける。向島春刀の姿はガードに隠れてよく見えない。
先に到着していたらしいアルファードからは、本多義之総本部長が出てきた。七十を過ぎても若々しく豊かな黒髪をツーブロックにしている。獰猛そうな目を光らせ、ガードに囲まれた向島を先導するように、こちらに歩いてくる。本多が誓に気が付いたが、鼻で笑って通り過ぎていった。ガードは誰も誓に目を留めない。
誓は改めて向島に目をやる。目が合った。彼はセンチュリーを降りたときからずっと誓を見つめてくれていた。今日も髪をオールバックに光らせ、青い色付き眼鏡をかけている。鼠色の光沢あるスーツに身を包んでいた。珍しくネクタイをしていない。彼は殆ど表情を変えなかったが、ちょっとまぶしそうに目を細めた。頬がこけて目が落ちくぼんでいるが、こんなところで堂々と待ち構えるなよ、とでも言いたそうな目は優し気だ。
誓のすぐ目の前を通り過ぎるとき、スーツの左袖が風でひらりと翻った。
誓はその左袖を掴みたい衝動に駆られる。そのまま引っ張って向島をこちらに引き寄せて、分厚い胸板に顔をうずめて甘えたい。そして抱きしめて欲しい。
お帰りなさい、お父さん。
向島は向島一家の事務所に数時間滞在したあと、十八時には同じ曳舟にある近くのマンションに移動した。誓も朝からいろんな汗をかいたので、一旦帰宅して着替えることにした。歌舞伎町の自宅マンションは築三十年近い。フロアの一部を風俗店が借り上げているうえ、ヤクザの事務所も入っているので、喘ぎ声や喧嘩の声がしょっちゅう聞こえてくる。今日もエレベーターの中に使用済みコンドームが落ちていた。
四階の自宅は十九時を過ぎても三十度を切っていなかった。エアコンをつけシャワーを浴びた。ジャーに残っていたご飯をどんぶりに盛り、二十四時間営業のスーパーで買ってきた刺身をのっけて醤油とワサビをぶっかけた。箸を掴み、どんぶりを持って、六畳リビングの脇にある四畳半の仕事部屋の扉を蹴り開けた。
明かりをつけ、真ん中に置かれたデスクで夕飯をかきこみながら、壁を埋め尽くす資料を眺める。
この部屋は向島春刀で満たされている。
彼の謎に満ちた生い立ちから、任侠界で彗星の如く現れ日本最大ヤクザのトップに上り詰めるまでの歴史展示のようになっているが、抜け落ちたピースがいくつもある。
仕事部屋にはエアコンがついていない。リビングの扉を開け放していても冷気はなかなか入ってこず、顔から垂れた汗がデコルテに集積して胸の谷間に流れ落ちていく。
ワサビの利いた鯛の刺身と白米をほおばりながら、今日の会議では出さなかった向島春刀の写真の数々に目をやる。
推定十八歳、偽造パスポートに貼られていた丸坊主の写真に目を留める。誓はこの頃に生まれた。
その横には、誓が唯一持っている、実母の写真が貼ってある。免許証写真だ。バブル期を彷彿とさせるトサカヘアーに、肩パッドの入ったスーツを着ている。桃川菊美、大阪府内の名門私立高校の現代文教師だった。向島とどのように出会って恋に落ち、どんな思いで自分を産んだのか、資料にはなにも書かれていない。わかっているのは、育ての父である桜庭功が菊美の出産を支援したことだけだ。
菊美は誓が生後四か月のときに強姦され殺害されている。犯人は検挙されていない。
向島春刀、二十九歳の写真は、大阪府警で撮影されたマグショットだ。逃亡先のカンボジアにて犯人隠匿罪で逮捕されたときのもの。この時、向島が逃亡支援していたのが、現在の六代目吉竹組のナンバー2、水本哲夫若頭だ。逮捕を執行したのは桜庭功。二人の父親はたびたび暴力団捜査の過程で顔を合わせていたようだが、なにを語らったのだろう。
五年前の分裂抗争時、誓が銃刀法違反で向島春刀を逮捕したときのマグショットに、誓は目をやる。
向島は不起訴処分で釈放後に行方をくらませてしまった。一年経ってようやく表に出て来たと思ったら、それが六代目の襲名披露と統一宣言となった。
「ちょっと性急すぎたのよ、お父さん」
誓は今日、二か月と八日ぶりに見た向島春刀の姿を思い出す。
「また痩せたよね。ちゃんと眠れてる? どんな心配事があるの。お父さん……」
五十歳にして日本最大の指定暴力団のトップにまで上り詰めた。高齢化が進む暴力団の中では極めて若い。子分も舎弟も老獪なヤクザばかりだ。彼はその重圧に、耐えかねているのだろうか。
だが彼は四十歳で他の重鎮を差し置いて若頭補佐に抜擢されている。その時からすでに全国の暴力団組織の親分より上の立場になったのだ。
彼をいま悩ませているのは、〝オキナワ〟ではないのか。
二十三時、誓は再び黒のパンツスーツに着替え、歌舞伎町のマンションを出た。廊下でパンツ一丁の男が女の部屋から追い出されている。玄関では酔った女がゲロを吐いていた。
流しのタクシーを拾い、曳舟駅へと告げる。西口の前で降り、沿線に立つマンションの901号室に入った。向島が東京の拠点にしているマンションとは線路を挟んで向かい合っている。この監視拠点はいまや大阪府警のものとなった。やはり先客がいた。
「おう。やっと来た。待っとったんやで」
今仲秀太。大阪府警の暴力団対策室のエースだ。長らく吉竹組を担当しており、抗争が都内で激化したときは警視庁に出向し、誓と共に捜査をした。セフレでもある。
「向島が一家のビルに入るとき府警の車両におったんやで。全然こっちを見てくれん」
誓は適当に流し、向島の動向を訊く。
「テラスでバーベキュー中。総本部長の本多と若頭補佐で三代目向島一家総長の倉敷、向島のガード三名と若い衆が二人。あと犬一匹」
向島の愛犬のドーベルマンだろう。名前は『マム』という。『お母さん』ではなく、菊という意味だろう。
単身向け1Kの監視拠点は窓辺に遮光カーテンが引かれ、その隙間に望遠レンズが差し込まれている。接続されたパソコンから、秘匿映像が見られるようになっていた。カーテンは隙間が開かないように、十個のクリップで留められている。
誓はパソコンが置かれた二人掛けのダイニングテーブルに座った。今仲はキッチンに回る。
「コーヒー? 栄養ドリンク? 強炭酸?」
「強炭酸で」
強炭酸コーラが目の前に置かれた。誓はプルタブを上げ一口飲み、赤マルを咥えて火をつけた。モニターにはマンションの掃き出し窓と広々としたテラスが映し出されていた。向島が二代目総長だったころから住んでいるこのマンションは六十平米の室内と三十平米のテラスがついていて、人工芝が敷かれていた。マムが走り回っている。蓋つきのバーベキューコンロで串刺しにした肉をせっせと焼いている人物がいた。
「あの料理人は誰や」
「向島がよく呼ぶイタリアンのシェフよ。曳舟に店を持っていて、ケータリングサービスもしている」
本多は縄文人のように串刺しの肉を食らい、たまに若い衆をからかっているのかいじめているのか、尻に蹴りを入れたり、頭をぽかっと殴ったりしている。
総長の倉敷は向島より年上だが、向島のグラスに飲み物を注ぎ、皿に串焼きを載せて差し出している。向島はソファに長い足を投げ出して座り、たまにグラスに口をつける程度だ。料理に殆ど手を付けていない。犬をなだめたり、たまに倉敷に頷いたりしている。たびたび目を閉じ、こめかみに指を添え、眉間を指で押さえた。
「不眠だけでなくて、頭痛にも悩まされているのかしら」
「日本最大ヤクザのトップとなりゃ休日はないで。ひっきりなしに来客はあるし、外交で全国を飛び回らなあかんしな」
沖縄以外の都道府県に盃を交わした子分か兄弟分がいる。縄張りを争う独立系組織は全国各地におり、抗争にならないように、お互いに義理事に招待して交流を深めている。
吉竹組総本部の移転もあって多忙を極めていただろう。大阪市天王寺の一等地に総本部を構えていたが、豪華な庭園や鐘付堂の維持費だけで毎年数千万円がかかっており、下部組織は総本部を支えるための上納金に苦しめられていた。
向島は運営のスリム化を図り、総本部の土地を売り払って曽根崎に移転した。曽根崎の土地はもともと黒憂会の所有だった。つまり向島は育った家に戻ったことになる。
現在、向島は愛犬マムとその総本部の離れでひっそりと暮らしている。茶室も備えたその離れは天井が異様に低く、周囲は「任侠界のトップに立つ男がなんでこんなところに」と首を傾げたようだが、その茶室にマムが陣取り、向島は六畳の和室に引っ込んでいることが多いらしかった。腕一本で自炊し、掃除も自分でする。
全国の下部組織から警備のためにやってくる若い衆の人数も極力制限し、警備費用は総本部持ちで慰労してやるそうだ。上納金は下がったうえに警備費用の負担もなくなり、若い衆を大勢取られることもない。下部組織は向島を拝んでいるに違いなかった。
力ずくで組織を統一しそのトップの座にのし上がった風ではあるが、警察組織だけでなく暴力団側からも、向島体制に異論が出ないのは、彼のこの普段の質素な暮らしと人を分け隔てなく丁寧に扱う姿勢からきている――と誓は思っている。
今仲の見方は違った。
「何人殺してその座に上り詰めた? 力で制したもんは力による報復を恐れる。それで不眠症になっとるんちゃうんか」
映像の中でひたすらこめかみを押さえてなにかに耐えているふうの向島に、きつい言葉を今仲は投げつける。
「右腕しかない男が一人で三人の組長を殺して二千人の組員を数日で統一なんてできっこない。やっぱり決死十四人衆が共謀しているのよ。リストは見つけた?」
今仲は引きつった笑いのまま、すっと目を反らした。
決死十四人衆は、九十年代、四代目吉竹組の東日本進出のために秘密裡に結成された暗殺拷問集団と言われている。暴対法施行の一九九二年ごろの話で、誓が生まれる二年前のことだ。向島はまだ十代後半だったが、この十四人衆の一員となり、汚れ仕事を引き受けていたと思われる。人の命を手にかける一方で、女性教師と恋に落ち孕ませた荒々しさに、向島の深い苦悩を感じる。
そしていまや、人を殺すことでしか物事を解決できない男になり果てているように見える。
大阪府警は長らく決死十四人衆の存在と犯罪を暴くため捜査を続けていた。その中心にいたのが桜庭功だ。リストは完成したと言われている。だが証拠がそろわなかった。大阪府警は「実際は存在しているのに犯罪の証拠をなにも掴めなかった」とすることを府警の恥とした。「実際は存在しなかった」と結論づけることで、府警のメンツを保ったと言われている。桜庭功がマル暴人生の殆どをかけて作り上げたリストは闇に葬り去られてしまい、彼は憤死した、と言っている人もいた。
誓が育ての父を思い出す時、いつも頭に浮かぶのは、吉竹組の関係書類が壁じゅうを埋め尽くした二階和室の仕事部屋だった。父はちゃぶ台に突っ伏し、口から血を吐いて、死んでいた。
そしていま、モニターのリアルタイム映像で頭痛に苦しんでいるふうの実父を見て、心がざわつくのだ。
「早くリストを出してよ。大阪府警の機密ファイルの中にあるはずなのよ、育ての父が命がけで残した資料が」
誰が決死十四人衆のメンバーなのか。十四人の氏名が書かれたリストと、現在の六代目吉竹組体制を照らし合わせたかった。決死十四人衆のメンバーが幹部を占めていたら、三人の組長を手にかけあっという間に分裂していた巨大組織を統一したのは十四人衆の共謀だという可能性が高くなる。決して向島ひとりが罪をかぶらずに済むのだ。
今仲はへらへらしていた。
「まー、あのリストはないことになっとるからなぁ」
「死ね、大阪府警」
「そこまで言う」
「所詮あんたも組織のメンツに逆らえないつまんない男ね」
今仲は心外そうに目を吊り上げた。
「それは聞き捨てならんで」
「だったらリストを出してよ、早く」
今仲は「夜食でも作ろか」とキッチンへ引っ込もうとする。誓は柔道黒帯の引き締まった尻を足で蹴り上げた。今仲は嬉しそうな悲鳴をあげる。
モニターの中で向島が立ち上がった。マムを連れて部屋の中に入り、出てこない。本多総本部長、倉敷総長が続いて部屋の中に入っていった。レースのカーテン越しに室内が一部見えるが、以降、向島の姿が現れることはなかった。テラスでは若い衆とシェフが片づけをしていた。
今仲が、たばこを咥え、誓に声をかける。
「そろそろ我々も帰りますか」
「今仲さんはどこのホテル取ってるの?」
今仲はニヤニヤするばかりだ。
「ヤる気満々やな、きっしょー」
「そういうこと言わんの。さ、はよ帰ろう」
「まだ帰らない。私、このシェフに目をつけてるの」
「ほう? なにかあんのかこのシェフ」
「素性は真っ白。他の組織の人間とも関わりはなし。向島が彼のレストランの常連なだけ。どこかのタイミングで暴対法違反でしょっ引こうかと思って」
暴力団員と営利的な付き合いがある一般人は、この罪で逮捕・起訴することができる。
「なんのために?」
「エスにしようと思って」
「だから、なんのために。シェフからなんの情報を取る」
「向島の情報に決まっているでしょ」
「誓ちゃん、いまは抗争が終わって平和やないか。しかも向島の拠点は曽根崎。誓ちゃんの担当は向島一家やろ。誓ちゃんがこだわるべきは倉敷総長の内偵やないか」
「クルマ好きのオッサンに興味ないし」
倉敷の趣味はカーレースで、自宅にはスポンサーシールの貼られたカスタム仕様のGRヤリスがいつも駐まっている。
「個人の興味で捜査しとんのか、こら警視庁」
「まだなにも終わってないのよ、わかってないのは大阪府警やで」
「沖縄の件か」
「そう。すでに次の抗争の火種が出てきている」
結局なにも作らず、今仲は椅子に戻った。
「沖縄は遠い。機会がないだけやろ。事実、吉竹組系の九州ブロックの親子盃が行われたのは今年の初春のころや。沖縄はこれから。それだけの話やないんか」
六代目発足直後、向島は全国を八ブロックに分けて、親子盃の儀を執り行ってきた。関西北ブロックを手始めに一、二か月おきに盃事があり、今年の二月に九州ブロックの盃を終えている。
「沖縄が遠いからなんて理由にならない。そもそも沖縄は吉竹組が区分けする九州ブロックにこれまで入っていた。その九州ブロックの義理事に二代目琉世会が来なかったのはなぜ? きっとなにかあるのよ」
今仲はやや呆れた様子ながら、話には付き合う。
「二代目琉世会は吉竹組の抗争の時、本家と関東どっちについとったんやっけ」
「どっちにもついていない。つく理由もないでしょ、兄弟盃でしかない関係よ。本土の抗争に首を突っ込んでくるほどの強い義理も、利益もない」
そういうことや、と今仲はあくびをする。
「改めて盃交わさんでもえーやろって話ちゃうんか」
誓は口を尖らせて椅子にもたれた。
「向島が沖縄ヤクザとの兄弟盃にこだわるとも思えん。あちらさんが拒否しとるなら、ハイそーですか、で終わりやろ。こっちは本土最大のヤクザ組織。あっちはちっこい島を制覇しただけの、構成員三百人の組織やで」
確かに、ここで沖縄との縁が切れたところで、吉竹組にも大きな損害があるようにも思えなかった。
「それじゃ、六代目吉竹組は全国統一を成し遂げたとは言えないわね」
「別にそれでえーんちゃうか。向島は全国制覇にこだわるタイプやない。とにかく抗争にならへんように末端にまで気を配って自分は質素に暮らす。そんな男が、全国制覇というメンツのためだけに沖縄ともめごとを起こすとは思えん」
今仲は椅子に寄りかかって両腕を頭の後ろに置いていたが、前のめりになる。
「それとも、沖縄ヤクザ側になにか動きがあったか? 六代目体制に反旗を翻すような」
そんな話は聞いていない。沖縄県警のマル暴とは泉の失踪事件で顔を合わせ、定期的にやり取りはしている。
「本土に攻め入ってくるようなアホはおらんやろ。せいぜい沖縄ヤクザなんか、観光客や米兵相手の商売を女にさせてその上前はねてるくらいのイメージしかないで」
「甘い」
誓は身を乗り出し、今仲の額に手鉄砲を突き付けた。今仲は中途半端な体勢で硬直した。
「イッターカラサチニクルサヤ」
「なんや。沖縄方言か」
「お前から先に殺してやる」
はあ、と今仲は気の抜けた返事をする。
「カチコミ先を警備していた沖縄県警の警察官を射殺した、沖縄ヤクザの決め台詞」
これまで暴力団の抗争に巻き込まれて死亡した警察官は全国に数多いるが、そのほとんどが流れ弾に当たったとか、間違えて殺された者ばかりだ。相手が警備の警察官とわかっていて真正面から銃口を向けるヤクザなんか、本土にはいない。
「しかもそのイッターカラサチニクルサヤ野郎」
「長いあだ名やな」
「未だ逃亡中」
誓はスマホを取り出し、その指名手配写真を見せた。今仲は手を叩いた。
「こいつか。宮良正儀。警察庁の指名手配ポスターでおなじみやな」
「そ。極左テロリストの桐島聡が死んで、宮良が日本最古参の指名手配犯になった。これが沖縄ヤクザの代表格。絶対に甘く見ない方がいい」
歌舞伎町で今仲と飲み歩き、午前二時半ごろ二人で自宅マンションに帰ってきた。
パンプスを脱いだ途端に後ろからぎゅうっと抱きしめられる。今仲の心のこもった抱擁は、嫌ではない。
「先、シャワー浴びさして。汗だくやから」
「汗くさい誓ちゃんも好きやで」
「私は汗くさい今仲さん、いやや」
冷蔵庫を開けて水のペットボトルを注ぎ飲もうとしたら、くるっと向き直らせられた。今仲がねっとりした視線で顔を覗き込み、ブラウスのボタンを外していく。
今仲の舌が誓の唇の隙間にめり込んできた。体がお互いに吸い付く。今仲もこの熱帯夜で汗ばんでいて、男らしい匂いがした。柔道で鍛えた体は分厚くて迫力があり、カリフラワー耳には抗争時にかすめた銃弾の跡が痛々しく残っている。誓がその傷をなめまわしていると、今仲がうめきながら、誓のキャミソールを引っぺがして、乳首に吸い付いて揉みしだく。誓もまた抗争に巻き込まれて殺されかけたことがある。その時右乳房につけられた横一直線の傷跡を、今仲は乳首以上にしつこくなめまわしていた。今仲は挿入するや三分持たなかった。
「どーなってんの。中学生?」
「三か月ぶりやで。浮気してへん証拠。僕は誓ちゃん一筋なんや」
今仲が重たそうなコンドームを抜いて、ちまちまと口を縛っている。
誓は赤マルを口にくわえて煙を吸い、一息ついた。
「そういえば、大阪からの道中はどうやったの。サービスエリアとか寄ったやろ」
「なにが。向島?」
「そう。すっかりやつれとる。精力が有り余っとる今仲さんとは大違い」
「若い衆がちょいちょい、処方箋薬局に行っとるよ。三日前はリスミー処方されとる」
「一過性の睡眠障害を超しとるやん」
今仲もメビウスに火をつけて口にくわえた。誓を抱き寄せる。
「男の腕の中で他の男の心配をするな」
「父親の心配をしてるだけよ。なに嫉妬してんの」
今仲は誓と向島の親子関係を知っている。警視庁では藪哲子しか知らない。必死に隠していたのだが、藪は誓のたばこの吸い殻からDNA鑑定までして暴いた。誓は辞表を出した。それも藪は破り捨てた。血を利用しろという。親子関係を利用して情報を取れと言うことだ。あの女は怪物だ。
「ねえ僕ら、結婚せえへん?」
「なに、急に」
「離れ離れはつらいで、僕の金玉がもたん」
「指輪は? ロマンチックなディナーは? 煙草吸いながらさらっと言うな」
今仲は煙草を灰皿にすりつぶすや、ベッドの上で土下座した。
「誓ちゃん。結婚しよ」
「本気なの。全裸で?」
「ほならスーツ着ます」
今仲は慌てた様子で脱ぎ棄てた洋服から下着を捜している。
「私、ヤクザの娘ですけど」
「戸籍上は大阪府警伝説のマル暴刑事の娘や。僕ね、実は警部の昇任試験に受かってしまったの」
「へえ。すごいやん」
ノンキャリ警察官はたいていが警部補どまりで退職だ。警部から上は幹部扱いなので、その壁が最も高く厚い。そこから先は順番に昇任していく。
「大阪に戻ったら、僕はもう異動せなあかんの。次は阿倍野警察署」
「ふーん、あべのハルカスの方やな?」
「そうや。そこの刑事課長。しばらく吉竹組とも、向島ともおさらばなんや」
「つまり捜査で上京することもないってことね」
「誓ちゃんといちゃいちゃできる機会がなくなるんや。ね? 結婚しよ。大阪に戻って来るんや、誓ちゃん。もとは八尾育ちのちゃきちゃきの関西娘やろ」
「私に警視庁マル暴辞めろってか」
「そう。もう抗争は終わったことやし」
「死ね」
「またそういうこと言う。僕ね、こう見えても府警の女警からはモテモテなんやで」
「そうやろね。仕事できる出世頭。趣味もないから貯金もありそう。公務員やからローンも組みやすいしな」
「せやろ。どうよ、僕と結婚したくなるやろ」
「いや全く」
「僕が府警の女と結婚してもええの?」
「それはいや。もししたら式場に押し掛けて新婦とか親族とか大阪府警の前で性癖を曝す」
赤マルの二本目を口にくわえ火をつけながら、今仲をからかう。全裸で右往左往する今仲を眺めるのは本当に愉快だ。
ベッドサイドに置いた誓のスマホがバイブしていた。午前三時過ぎ、こんな時間に鳴る電話はろくでもない。
「もしもし」
誓は煙草を消して通話に出た。相手は藪だと画面表示でわかったが、向こうが騒がしく、なかなか会話が始まらない。
「もしもし、藪さん?」
「誓、すぐ出てこれるか。池袋。おえー」
誓は思わずスマホを耳から離す。
「吐くほどの現場ですか」
マル暴をやっていると凄絶なリンチの現場などをよく見るが、藪が吐くのは珍しい。
「誓ちゃん、ビニール袋百枚くらい持ってきた方がいい。池袋西一番街の沖縄料理店、ゆいまーる」
誓はスマホと警察手帳だけを持って、タクシーで池袋に向かった。結局、今仲もついてくる。
JR池袋駅西口、西一番街中央通りは居酒屋やラーメン屋などに人が集まって騒いでいる。ラブホテルにはひっそりと男女が出入りし、路上で寝ている大学生、腕から流血している中年男が煙草をふかしながら通り過ぎ、その横で排水溝に嘔吐している若者がいた。
一階に海鮮居酒屋の看板を出しているビルが見えてきた。パトカーや鑑識のバンなど警察車両が七台、消防車が三台、救急車が一台駆けつけている。規制線が張られ、野次馬が集まってきていた。
「あのビルの二階が現場らしいけど」
二階の窓は中から目張りがされている。ビルの壁に『沖縄料理店ゆいまーる』と看板が出ていた。
「誰か最近、沖縄の話をしとったな」
「私。さすがの観察眼でしょ」
誓は警察手帳を示して規制線をくぐった。パトカーの中に待機していた池袋署の刑事からシューカバーと手袋、ヘアキャップをもらい、ビルに入る。非常階段はゲソ痕や遺留品採取作業中だったが、エレベーターは済んだようで、池袋署の刑事が案内してくれた。
「中の鑑識作業は終わってますが、見ない方がいいですよ。一か月くらい、肉を食べられなくなりそうです」
「よほどの現場?」
「腹を切り裂かれていて、目ん玉がくりぬかれてます。ハンドミキサーで……」
所轄署の刑事は胸をさすり、それ以上の説明ができなかった。今仲はすでにハンカチを口と鼻に当てて備えている。
エレベーターが二階で止まり、扉が開いた途端、強烈な腐臭が鼻をついた。誓は慌ててマスクをしたが、殆ど効果はなかった。口で呼吸をしようとするも、腐臭が喉を刺激し、胸やけがする。
『沖縄料理店ゆいまーる』とガラスの扉に描かれ、店名をイルカやヤシの木の絵が囲んでいる。営業時間も書かれていた。
『開店 目が覚めたとき
閉店 疲れちゃったら
定休日 なんくるないさー』
こんな営業形態で飲食店激戦地の池袋を生き残れるのだろうか。地図アプリにある店舗情報には二十四時間営業と書いてあった。店の中に入ってすぐ目の前にレジ、その脇にカウンター席が五つ。壁際から窓際にテーブル席が四つという小ぢんまりとした店だった。乗鞍が手前のテーブル席で池袋署の腕章をつけた刑事と打ち合わせしていた。二人ともマスクの上からハンカチを当てて、鼻声で話している。
「藪さんは」
「ゲロ袋が溢れそうになったから捨てにいった」
「ガイシャは。ひどいにおいですけど」
「厨房だ」
「検視は」
「進んでいない。検視官がすぐ吐きに行く。死亡推定時刻は二十時から二十一時頃だそうだ」
今仲が乗鞍に挨拶しているのを横目に、誓はひと足先に厨房に入った。レジの後ろのスイングドアは開いたまま固定されている。遺体の周辺はすでに鑑識作業が終わっているからか、誰もいなかった。広々としたキッチン台のすぐ手前の蛇口から水がぽたぽたと落ちている。シンクは血だまりができていた。水滴で徐々に鮮血が薄まっている。シンク脇の作業台側面は血の筋が幾重も流れ、下にも血だまりができていた。排水溝には小さな肉片が集積し、ハエがたかっている。赤くてらてらと鑑識の照明に光っていた。
作業台には大男があおむけに倒れていた。裸足にサンダルを履いたままだが、ハーフパンツとデザントのボクサーパンツが膝まで下ろされていた。股間は抉られ赤い肉と白い脂肪の層が見える。陰嚢が破れ、中にひとつだけ睾丸が残っていた。
みぞおちから腹にかけての肉が切り取られていて、その中からミンチにされた肉がタプタプとあふれ出ていた。胃、肝臓、腎臓はどこにも見当たらないが、腸がはみ出して床の上でぶらぶらしていた。
男は水色のかりゆしウェアを着用したままで、はだけた胸元から刺青が上半身に広がっている。投げだされた左手の先にハンドミキサーがあり、ミンチにされた肉のカスが残っていて、あたりに血肉が飛び散っていた。
顔を見る。両目とも繰り抜かれて空洞だ。視神経や血管が紐のように垂れさがっていた。口から陰茎と睾丸が溢れている。
なにがなんだかさっぱりわからない死体だった。ここまで残虐に死体をもてあそんだ意味が見出せない。生きたまま目玉を刳り抜いたり、陰茎を切断したりの拷問をしてなんらかの情報を吐かせたのかもしれないが、それならば腹を切り裂いて内臓をミキサーにかける意味がない。
ぽっかりあいた腹の中を覗く。目玉が二つ、料理の装飾のようにミンチ肉に添えられていた。ますます、わけがわからない。
今仲が厨房に入ってきた気配があったが、三秒で消えた。以降、誰も入ってこない。
誓は厨房を出た。藪が現場に戻ってきたところだった。吐きすぎたか、目が真っ赤になっている。
「あんた、なにその冷めた顔」
「いや、わけがわからないから」
「どんだけ冷血なんだよ。人間が料理されている現場だぞ」
「沖縄料理店だけに、臓器チャンプルー状態でしたからね」
藪だけでなく、ホールにいた乗鞍や通りすがりの鑑識課員が、軽蔑の眼差しで誓を一瞥した。冗談にしては質が悪かったか。
「ガイシャが店主か経営者ですかね」
「さあ、調べはこれからだ」
藪は「第一発見者」と顎を振って誓を非常階段へ促した。
非常階段の二階と三階の踊り場に、所轄の腕章をつけた刑事たちがひとりの男を取り囲んでいた。黒いスーツ姿で、白いワイシャツからは肌が透けている。スーツも吊るしでネクタイも安っぽい。でっぷりと顎の下に肉を蓄え、太い眉毛にまん丸の大きな瞳というエキゾチックな顔立ちだ。
「比嘉謙信! おいコラ」
誓は叫んでいた。この猟奇殺人現場に藪や誓が呼ばれたのは、第一発見者が向島一家の構成員だったからだ。
(つづく)