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第二章(承前)

 

 誓は藪を巻き込み、今仲ら大阪府警の調書づくりを徹夜で手伝った。明け方五時に府警にファックスし、大阪地裁の判断を待っている。

 だが朝の八時になっても音沙汰がない。大阪地裁の裁判官は判断に迷っているようだ。

 ならば警視庁で捜索差押令状を出せないか。乗鞍が令状請求書類の判を押すはずがなかった。

 捜索差押令状が出ないまま、浦安ベイマリーナに先乗りした。東京都と千葉県の県境になっている旧江戸川沿いにある。たっぷりと水をたたえた旧江戸川沿いの風情を、近隣の工場が出す騒音と土煙が台無しにしていた。

 九時、陸上げされていたレクサスLY650が桟橋に下ろされ、川面に浮いた。流線形で全体的に平べったい形をしている。全長二十メートル超えでシャンパンゴールドの船体には高級感が漂う。船内には客室が三つもあるそうだ。十五人定員で誓の歌舞伎町の部屋の倍の広さがある。

 ベイマリーナ内にあるレストランで待機させてもらったが、営業は十二時からだそうだ。近くにコンビニもないので、空腹を我慢したまま、向島一行が来るのが先か、令状が出るのが先か、じれる気持ちを持て余す。

 九時半、曳舟の監視拠点で待機している藪から一報が入った。

「向島、センチュリーに乗り込んだ。同行しているのはガード三名と本多のみ」

 今仲は府警本部に電話を入れ、まだ令状が出ないか催促している。最寄りのひがし葛西かさい交番にファックスするよう、念押ししていた。府警のマル暴が交番で待機している。

 今仲が通話を切った。

「大阪地裁はまだ判断に迷っとるようや」

「罪が罪だものね」

 向島は地味に暮らしている。プライベートでも殆ど出歩かないので、暴力団員を別件であげるときの常とう手段である、他人名義のETCカードを使用した電子詐欺などの罪もない。暴力団お断りのステッカーが出た店や、外食チェーン店に入ることも絶対にない。万が一のときに警察に足をすくわれないように相当に気を使っている。

 センチュリーを追尾している藪から一報が入った。

「浦安に入った。あと十分で到着する」

 府警から電話がかかってきた。今仲は返事をせず、通話を切った。

「ダメや。この罪状で令状は無理やと」

 珍しく今仲が椅子を蹴飛ばした。

「大丈夫、次の作戦がある」

 今仲がネクタイを直し、ぎろりと二階レストランからレクサスクルーザーを見下ろした。岸壁にセンチュリーの紺色の屋根が滑り込んでくる。

「来た」

「行くで」

 今仲を先頭に、誓、そして府警のマル暴刑事六人が階段を駆け下りる。マリーナの事務所の脇を行き過ぎる。職員が何度も瞬きし、こちらを見送っていた。

 岸壁に出る。流線形のクルーザーは穏やかな川面に浮かんでいる。

 センチュリーの扉が開けられ、向島が岸壁に降り立った。すぐこちらに気が付き、足を止めた。紺色のフレッドペリーのポロシャツに茶色のスラックスという恰好だった。黒縁の眼鏡をかけている。ポロシャツの袖から伸びる腕に誓は瞠目した。

 ないはずの左腕が見えた気がしたのだ。目を凝らしたが、助手席から巨体の本多が出てきて、向島の姿を隠してしまった。

 誓は代わりに自分の左手を見た。握ってまた開いてみる。これがなくなるという重大さがいまになって胸に迫る。

「これはこれは。府警と警視庁の新婚さん。結婚の報告ですか」

 本多が誓と今仲をからかうように見下ろす。

「親分に相手にされなかった見せしめに、夫を連れてきて幸せアピールですか?」

「向島組長に用があるんですわ。ちょっと、どいてもらえます?」

 今仲が言うなり、本多は大きく息を吸った。胸板が膨らみ、強い圧を放つ。

「まずは俺を通してからだよ、気安くしゃべれると思うな。向島組長は日本最大の暴力団トップなんだぞ、え」

 誓は本多の巨体の脇から顔をのぞかせて、必死にいつもの調子を取り戻そうとした。指をひらひらとさせてみる。

「ヤッホー。パパ」

 向島と誓の親子関係を知らない本多は眉を吊り上げた。

「おい。向島組長をパトロンみたいに呼ぶな。フラれてマッポに乗り換えた分際で」

 向島が前に出てきた。誓はその左腕を見ないようにした。

「どうされましたか」

 向島が今仲と誓を順番に見た。

「向島さん、あなた暴力団員にもかかわらず、三か月前の六月十日、大阪市内のドッグラン施設わんわんワールドを利用しましたね」

 本多がぶっと噴き出した。ガードも笑っている。

「情けねぇな、大阪府警。そんな微罪しか見当たらなかったのか」

「立派な詐欺行為です。船、見せてもらえませんかね」

 本多が前に出てくる。

「ドッグランと船、なんの関係があるんだ、え」

「まあまあ、そこはお互いに、ね」

 今仲は苦し紛れに任意での船内捜索を押し通そうとしている。向島が生真面目に返した。

「あのドッグランに暴力団お断りのステッカーや貼り紙を見ていません」

「犬のションベン引っかけられて剥がれたんでしょうな。ほな、見させてもらいます」

 今仲はガードの間をすり抜けて強行突破し、クルーザーに向かう。本多は止めず、向島も無言で見送るのみだ。その脇で、若い衆がセンチュリーのトランクを開けてスーツケースを次々と下ろしていた。

「終わったら呼んでくれ」

 向島は本多に告げ、センチュリーに戻ろうとした。立ち尽くしたままになっていた誓に目を留める。他の刑事たちは脇をすり抜けてクルーザーに乗り込んでいた。

「桜庭さんは行かないんですか」

 誓はポロシャツの先からのぞく左腕の一部を見ないようにしているのに、視界の端に、彼の左腕がたくましく伸びて、左手も長い指もあるように見える。

 何度、まばたきしても、その幻影が消えない。こらえきれずに左腕をしっかり見た。その中途半端に途絶えた断面に激しく動揺する。

 向島はセンチュリーの後部座席を若い衆に開けさせて中に乗り込んだ。奥の方へ詰めている。若い衆も扉を閉めない。乗れという意味だろう。誓が隣に乗り込むや、若い衆が扉を閉めた。

「沖縄に行くこと、どうして隠してたの」

 誓は助手席のヘッドレストから目を離さず、すぐに本題に入った。

「隠していない。沖縄に行くの、なんて聞かれてない」

「詭弁でしょそれは」

 向島が胸ポケットから煙草を出し、片手で器用に一本出して口にくわえた。ライターで火をつける。煙を吸うときにしぼんだ頬のへこみ具合が病的だった。

「昨晩は、よく眠れた?」

 向島は無言で煙を吐いた。誓も吸いたくなったが、父親の前で喫煙するのは憚られた。父親の前ではいい娘でいたいのだ。命を懸けて守ってもらっていたのなら、なおさら。

「誰に会いに行くの」

 向島の喉仏が上下している。

「琉世会の島袋?」

 彼は目を逸らしたまま、ああそうだよ、と明日の天気の話でもするように言った。

「なにをしに行くの。兄弟盃?」

 答えが聞こえてこない。

「喜屋武の件と関係がある?」

「ない。だから心配するな」

「抗争しに行くわけやないんやね」

「当たり前や」

 向島もつられてか関西弁になり、鼻で笑った。なにを笑い飛ばしたつもりなのだろう。

「お前は、来たらあかん」

 誓はヘッドレストから目を離さず、唇をかんだ。

「お父さんが腕を切断したとき」

 向島の視線を右頬に感じる。

「私、その場にいた?」

 向島は答えない。

「お母さんを殺した犯人を、やっつけたんでしょ」

 誓はヘッドレストから視線を外して、自分とよく似た向島の切れ長の目と、断絶した左腕を見る。

「矢島勇を、殺したの?」

「沖縄には一日か二日しかおらん。すぐ帰る。なんの心配もいらん」

 向島にしては中途半端な態度のまま、センチュリーを降りてしまった。逃げている姿を初めて見た気がする。本多と並び、クルーザーの捜索の様子を岸壁から眺めていた。

 誓もセンチュリーを降りた。向島と本多の脇を行き過ぎ、岸壁を蹴って、クルーザーに乗り込む。

 床を引き剥がしてでも違法なブツを見つけて、出港を阻止してやる。

 

 操舵室のほぼ真下にある客室に入った途端、ここが向島の使う個室だと直感した。

 クローゼットを開けると、向島が好んで着用するねずみ色の光沢のあるスーツと、黒いスーツが一着かかっていた。前日のうちに荷物を運び入れていたのだろうか。

 誓は冷蔵庫を開けてみる。ミネラルウォーターが五本入っていた。

 ダブルベッドのシーツを引きはがし、マットレスを持ち上げたが、違法なものは出てこない。テレビモニターの下にある棚の引き出しを全て開けた。ホテルのようにリネン類がそろっていた。二段目の引き出しには処方薬が入っている。マイスリーの他、胃薬と疼痛をやわらげる薬もあった。袋には向島の名前が記されていた。

「なにか出たか」

 本多が腕を組み、巨体を入口のドア枠にもたせかけていた。意味ありげな足取りで、ゆっくりと誓に近づいてきた。

「なあ、警視庁の女マル暴さんよ」

「桜庭誓です」

「おう、警視庁の尻軽お嬢さん」

 壁際に追い詰められたが、怖くはなかった。

「うちの親分に粘着質につきまとうの、やめてくれないか」

「つきまとっていません。捜査の一環でお話を伺っているだけです」

 華奢な花瓶にガーベラが一輪、添えられていた。本多はそれを手に取り、がさつな手つきで花びらをむしっていく。

「わかってるよ、うちの親分もきっとあんたと同じ気持ちなんだろうよ、あの態度を見てりゃさ」

 本多には内縁の妻が埼玉にいるらしいが、恋愛経験は豊富ではなさそうだ。

「大人しく府警と結婚したらどうだ、え。警視庁の女マル暴が日本でトップのヤクザと結婚なんかできるわけないだろ」

「私はそんなこと望んでません。沖縄にはなにをしに行くんですか」

 本多は花びらをむしられたガーベラを適当に振りながら、裏声で切なげなバラードを歌い出した。

「なんですかそれ」

「知らないの。SPEEDだよ。『White Love』って曲だったけか」

 がさつに笑い飛ばす。

「琉世会の会長は確かに島袋ですけど、幹部に新垣とか今井とか上原とかいましたっけ」

 藪の声がした。ヒールの音を鳴らしながら入ってきて、誓を守るように本多の前に立つ。

 本多は面白くなさそうに肩を揺らし、誓をちらっと見た。

「そちらのお嬢さんは世代的にSPEEDのメンバーを知らないんじゃないの」

「まどろっこしい会話はやめましょう。琉世会との会合が目的。会長の島袋や、理事長の古謝と懇談するってことですね?」

 誓は本多の首筋に噛み付くように迫った。

「ま、沖縄ヤクザがSPEEDを歌うのを見たっておもろくもなんともないわな」

「質問のかわし方がヘタクソですこと」

 藪の煽りを本多はまともに受けたか、太い眉毛が吊り上がった。

「兄弟盃に行く。間違いないですか?」

「あちらさんに聞くことだ」

「どういう意味です」

「我々に決定権はない」

 その言葉の真意を掴みかねる。藪も目の色を変えていた。

「あなたがたは本土最大のヤクザ。あちらは沖縄のみが縄張りの独立系田舎ヤクザですよ。立場が違いすぎる。一体どんな弱みを握られたらそんな言葉が出るんです」

 本多はSPEEDの名曲をごまかすように口ずさんでいるが、血走った目で方々を見ている。口が滑ったに違いなかった。

 誓は本多と藪の間をすり抜けて、甲板に出た。床の振動に気が付く。もうエンジンがかかっている。ルーフトップにある操舵席にはサングラスをかけた船長らしき人が操舵悍に足を乗せてくつろいでいた。アロハシャツに短パン姿で、葉巻を口にくわえている。刺青が足首まで入っている。誓は念のため、下からスマホを向けて彼の顔を画像におさめた。

「おい姉ちゃん、同意なく撮るんかい」

 男はカメラ目線でVサインをしてみせた。

「ならばサングラスを取ってくださらない? 矢島総業の加藤かとう組長」

 加藤たかしは肩を揺らし、サングラスを取った。

 矢島の双子が吉竹組の組長になった際、和歌山の矢島総業の跡目を継いだ男だ。彼の協力なしに、矢島の双子を死に至らしめることも、また矢島総業の報復を抑えることもできなかったはずだ。向島と信頼関係がある、つまり決死十四人衆のひとりだと誓は考えている。彼は六代目体制では幹事長になっていた。

「初めまして。警視庁の桜庭です」

「初めましてやないで」

「いいえ。お初にお目にかかりました」

 矢島の双子とは対面しているが、彼が側近としてついてきたことはないし、双子の溺水事案で誓が和歌山の矢島総業に出向いたとき彼は不在だった。

「加藤さんが操船するの?」

 加藤は胸ポケットからなにか出しかけた。

「小型船舶免許を持ってるんですね。いずれ海保が臨検に来るでしょうから、その時に。ところで矢島親分の件、ご愁傷さまでした」

「おおきに。いつか和歌山にいらしてくださいよ。仏壇にお線香の一本でも上げてくれたら、天国の二人は喜びます」

「あなたがたが沖縄行きを取りやめてくれたら、いますぐ和歌山に飛んでいけるんですけど」

 加藤は答えない。

「キッチンはどこにありますか?」

 調理道具があるはずだ。包丁を押収して、銃刀法違反容疑をこじつけようか。カトラリーにナイフ類を見つけたら、強引に凶器準備集合罪にして出港を阻止するつもりでいた。

 加藤は誓の後ろにあるハッチを指さした。この先にキッチンがあるらしい。ハッチの扉を開こうとして、加藤の言葉が降ってきた。

「矢島の親分らはあんたに一目置いとったからね。そりゃそうや。赤ん坊の頃から知っとんのやから」

 誓は手を止め、じろりと、加藤を見上げた。加藤は表情をほころばせた。

「その目。赤ん坊のころと変わらへんな、あんた」

「どういう意味」

「せやから言うたやろ。初めましてやないんやで、君と僕」

 加藤は指を交互に向けた。

「あの日もあんた、コオロギが押すベビーカーの中で、どんな赤ん坊やとのぞきこむヤクザたちに目をカッと見開いて、睨み返しとったで。こりゃえらい気の強い娘やと、矢島の親分らも大笑い。僕の顔、覚えてへんか?」

 誓と向島の血縁関係を加藤は知っているのか。

「そんな怖い顔せんといて。脅しとるわけやないんやで。僕らは見守っとるの。マル暴とヤクザ、相対する組織に生き別れた父と娘が、平穏に共存できるように、とね」

 誓はキッチンには入らず、操舵席へ続く垂直梯子に手をかけた。操舵席にはシートが二つあった。加藤の隣に座る。

 あと誰が親子関係を知っているのか。探ろうとしたが、それを口にしたら親子関係を認めることになる。ルーフトップからは、岸壁に停車するセンチュリーがよく見えた。

「たまに僕、考えてしまうんや。あんたと向島組長を見ていると」

 よく日に焼けた加藤がニッと歯を剥いた。白すぎて胡散臭い。セラミックかインプラントか。

「あんなことがなけりゃ、組長は左腕を落とすこともなかった。あんたが里子に出されることも。あんたは組長の娘となりどんな人生を歩んでいたんやろな。僕ですら考える。組長だって考えへん日はないやろ。あんたはどうや。え?」

「考えたこともないね」

 自分でも予想以上に低い声が出た。

「私は桜庭功の娘なんで」

 誓は固定梯子を下りた。ご立派、という声とテキトーな拍手が頭上から降ってきた。

 キッチンから今仲が出てくる。冴えない顔をしていた。

「調理道具を調べたが、ペティナイフの一本もあらへん」

「フォークやナイフは」

「割りばしだけ。警察のガサが入ることを警戒していたんやろな」

 今仲は厳しい視線を方々に向けているが、万策尽きた様子だ。

 加藤が下りてきた。

「どうです。薬物、銃器、なんか出てきましたか。床、引っ剥がしていいですよ。このクルーザー六億くらいしますけど」

 今仲はキッチンの方へ首を向けて、捜索中の部下たちに撤収を呼び掛けた。まだ歌を口ずさんでいる本多を背に、藪も甲板に出てきた。誓は先んじてクルーザーを降りた。

 センチュリーから向島が出てくる。ガードに前後左右を守られた彼は目を合わせようともせず、クルーザーに乗り込もうとした。

 誓はその背中に投げかけた。

「ご安航を」

 向島は立ち止まったが、振り返らない。

「でもきっと、船で行くことを後悔することになる」

 ようやく向島が振り返った。自分は桜庭功の娘である、と誓は言い聞かせる。

「船は三日かかるんだっけ? 飛行機は三時間」

 向島の眉間に深い皺が寄った。

「先乗りして待ってます。三日後に沖縄で会いましょう」

 

 

(つづく)