第一章 臓器(承前)
比嘉の取り調べも遅々として進まない。午前中は池袋署が絞っていたが成果はなく、夕方に乗鞍が入ったようだが、肩書のある刑事を前にしても比嘉はのらりくらりとかわす。十七時を過ぎると向島一家の顧問弁護士がやってきて、不当な拘束であると抗議し、比嘉を連れ帰ってしまった。
タクシーに乗って去る様子を、池袋署の表玄関でにらみつけるしかない。そんな藪の腕に、誓は自分の腕を絡めた。
「藪さん、夕飯行きましょ」
「今日は帰るよ、眠たくて仕方ない。今朝、二時半に叩き起こされて料理された人間を見たんだから」
「夕飯の前に、喜屋武のヤサに行きましょ。防カメのリレー解析で、喜屋武がホテルから沖縄料理店に直行しているのが判明したんです」
南池袋のメトロポリタンホテルだった。
「あそこの中華料理店の油淋鶏、うまいんだ。行くか」
エレベーターで地下駐車場に直行し、捜査車両に乗り込んだ。シートベルトを締めるや、藪が尋ねる。
「ところで彼氏は」
「今仲さんのこと? 彼氏じゃなくてセフレです。彼は向島の内偵でしょう」
「彼氏、ぼやいてたよ。遠距離恋愛の誓ちゃんが、会うたびに凶暴になっているって」
誓はハンドルを握りながら缶コーヒーを口にしていたが、噴きかけた。
「口調もどんどんヤクザっぽくなって、すぐ尻に蹴りを入れられるって」
「嬉しそうに話してたんじゃないですか」
「確かに。あんなドM見たことない」
女二人、げらげら笑う。
「藪さんは丸くなりましたね、って言われちゃった」
藪はペットボトルの麦茶を飲んだ。
「バランス取ってるだけなのにさ。相棒がどんどん凶暴化していくから、私は丸くなるほかないじゃないか」
「定年間近で守りに入っているのかと思ってました」
「お前さ」
笑い話として流してくれず、藪は深刻そうに誓の横顔を覗き込んでくる。一般道に出てしまったので、彼女を見ることができない。
「私が定年したあと、マル暴刑事として生きていけるのか」
「いけるに決まってるじゃないですか。藪さんの後ろ盾がないと女マル暴として自立できないとでも言いたいんですか」
「そうじゃない」
藪はフロントガラスに向き直り、横目に見てもわかるほどに肩が上がり、盛大なため息をついた。
「お前の暴走を止める者がいなくなるってこと。あんたは男の言うことは聞かないからね」
「確かに」
「私と向島の言うことしかきかない」
誓はハンドルを握ったまま、肩をすくめた。藪の視線が再び、誓の頬のあたりに突き刺さる。
「お前、自爆すんなよ。沖縄県警の声の大きい女、見習え」
「桃原夏美?」
「声はでかいけど冷静沈着。公務員としての立場をわきまえているだろ。自分の人生も大切にしている」
「うわー。嫌いなタイプの女」
「だろうね。あっちもあんたのような暴走ヤサグレ女マル暴は大嫌いだろうよ」
メトロポリタンホテルの地下駐車場に捜査車両を駐めた。エレベーターに乗り、誓は二十四階のボタンを押した。
「エグゼクティブクイーンの部屋を喜屋武は取ってました。先週から連泊中で、三日前に更に一週間の延泊を申請してます」
一泊七万円からする。最上級スイートよりは安いが、連泊を考えたら相当リッチでないと金が続かないだろう。
二十四階に到着した。エレベーターの扉の前で立哨している警察官に身分証を見せて、規制線をくぐる。エグゼクティブクイーンの部屋は扉が開いた状態で固定され、池袋署の刑事たちが段ボール箱を組み立てていた。鑑識作業員が一眼レフカメラのデータを確認しながら出てくる。
誓のスマホに夏美からメッセージが届いた。ようやく喜屋武や琉世会の情報をまとめてパソコンにデータを送ったらしい。すぐさま電話をかけた。
「いま出先なの。スマホに送ってくれる?」
喜屋武が滞在していたホテルの部屋にいるのだと伝えた。
「昨夜の事件当日は二十時ごろにホテルを出て、ロビーラウンジでステーキとビール二杯、ワインを飲んで、二十二時ごろ現場に向かってた」
防犯カメラ映像の解析チームから出た情報を夏美にも伝える。連れはおらずひとりだった。
「スマホはどうですか。個人情報の宝庫ですよ」
「本人名義のものはなし。事件当夜は雑居ビル入口のエレベーターホールで、スマホを耳に当てて誰かと通話している姿が映っていた。流しのスマホだろう」
「で、そのスマホは」
「見つかっていない。犯人が持ち去った可能性が高い」
藪が誓を呼んでいるので、一旦通話を切った。彼女はクイーンベッドの向かいにあるキャビネットの備え付け金庫の前にいた。すでにスペアキーを使い金庫の中身を押収したようで、空っぽだった。
「金庫から帯封付き現ナマが五本と貸金庫のものと思われる鍵が三本、出てきたってさ」
「現金五百万円ですか。貸金庫の中身は?」
隣にいた池袋署の刑事が答える。
「民間の貸金庫が二件、残りの一本はトランクルームの鍵でした」
喜屋武は暴力団員認定されているから、銀行の貸金庫を利用することができない。
「貸金庫からは現金一億円と、純金バー一億円相当が発見されています。トランクルームの方は高級時計や貴金属類だそうです」
誓はシーツが乱れたベッドを見下ろした。五連泊中だったらしいがルームサービスを頼んでいない。室内に人を入れたくなかったか。
ベッドサイドの電話機の横に、投げ出されたペンが見えた。メモ帳に目が行く。
「琉球、パーム、カスチャ……?」
クローゼットの中を覗いていた藪が振り返る。
「カス茶。出がらしのことか」
沖縄方言だろうか。誓は夏美に電話しようとして、彼女からデータが届いていることに気が付いた。藪に肩を掴まれる。
「誓。データ確認は車の中でやる。あんたはまず向島に電話を入れて」
誓は藪を二度見した。
「物証から筋読みできないときはエスをつつくのが基本だろ。お前のエス。早く電話しろ」
誓は向島のスマホの番号を表示させたが、唇が尖ってしまう。
「あちらは日本最大ヤクザの首領ですよ。私のエスだなんて、チンピラ扱いしないでほしいです」
藪は肩を揺らして笑い、誓を廊下に連れ出した。誓の耳元に囁く。
「あんたのエスは確かに任侠界のトップに立つ男だ。当然、日本一情報が集まる地位にいる。しかも娘にちゃんちゃら甘い」
誓はスマホを耳に当て、呼び出し音を聞いた。四度目でようやく、向島が応答した。
「警視庁マル暴の桜庭です」
「はい」
「お聞きしたいことがあるんです。これから曳舟に伺ってもよろしい?」
受話口の音が割れた。笑ったのだろうか。ため息をついたのだろうか。
「これから出かけるところなんです。要件は」
「池袋の沖縄料理店で殺人死体損壊事件があったんですが」
沈黙。返答がない。
「もしもし?」
「ええ。そうですか」
なにか知っている。比嘉が第一発見者であることは報道されていないが、倉敷が知っていたら顧問の向島に報告しているはずだ。
「ちなみにこれからどちらへ行かれるんですか」
「ただの夕食です」
「で、どちらへ」
「赤坂の山東飯店です」
「ちょうどよかった。私と藪さんも油淋鶏を食べたいなあって話していたところだったんです。ご一緒させてください」
断られる前に電話を切った。
赤坂の山東飯店は路地裏に面したビル一棟全てがレストランになっていた。中国資本で暴力団お断りステッカーも貼っていない。
近くのコインパーキングに捜査車両を停めて、桃原夏美が送ってきた喜屋武と琉世会の資料を見る。誓のリクエスト通りA4用紙二枚で作ってくれたが、最後、捨て台詞のように「以上は表層的な情報であり、喜屋武や琉世会を理解するには沖縄ヤクザの歴史からレクチャーを受ける必要があります」と結ばれていた。
「こんな薄っぺらい情報。ウィキペディアじゃないか、あのクソ女」
「そりゃA4用紙二枚にまとめろと言ったら、そのレベルになるだろ。琉世会の現トップは誰だっけ?」
「会長は島袋和良、六十九歳。吉竹組と兄弟盃を交わしていた人物です」
「矢島と泉、どっち?」
「本家の矢島兄弟ですね。六代目向島春刀との関係は不明」
藪は組織図のツートップのように島袋の横に並ぶ名前を指さした。
「古謝康正、五十九歳。琉世会理事長で二次団体・古謝一家の会長ですね」
「会長と理事長、どっちが偉いんだか」
本土ではあまり見ない組織体系だ。
「組織の顔は島袋ですから、会長の方が偉いんでしょう。古謝はコザとかうるま市とか、沖縄中部の繁華街を仕切っている、二代目琉世会内最大派閥のトップです」
「喜屋武はその古謝の子分か。出身地は沖縄市上池」
地図アプリで確認してみる。嘉手納基地へと続くコザゲート通りのすぐ裏手にある住宅街だった。
「島袋会長ってえのはどんな人物なんだ」
「豊見城市内で琉球空手道場を開催しています」
「ほう。琉球空手」
誓はどういうものか全くわからないが、剣道四段の藪は武道に詳しい。
「空手の古流だ。空手の発祥は沖縄、琉球だからな」
かつての琉球王国時代、薩摩藩から圧力をかけられ禁武政策で武器の所持を禁止されてしまった琉球王国の人々が、素手で戦えるようにと中国武術と融合させて編み出したのが空手の起源らしい。
「古謝の方は沖縄映画社のボンボンだそうです」
「そんな映画会社があるのか」
「戦後、沖縄は米軍に占領されて、産業はめちゃくちゃ。農地も没収されて、男は軍属になる以外、仕事がなかったそうですよ」
古謝の祖父は米軍を介して米本土から買い付けた洋画フィルムを米軍基地で上映して回って小銭を稼いだ。それが沖縄映画社の前身だ。
「沖縄映画社はやがて製作や配給も行うようになって、沖縄を舞台にした映画を何本も撮ってます。本土の映画会社が沖縄を舞台にした作品を撮影するときは、だいたい沖縄映画社が製作協力してますね」
「A4二枚でわかることはこれだけか。本部に戻ったら、なっちゃんに好きなだけ資料を書かせて送ってもらおう」
藪は資料をしまい、誓の肩を叩いた。
「さ。行こう。お父さんのところへ」
*
後悔するぞ、コオロギ。
昔の名前を呼ばれて目を開けた。向島春刀は黒く狭い箱の中に押し込められ、身動きが取れずにいた。四肢がむずがゆい。正確に言えば向島は左腕がないから三肢なのだが、断絶している左腕に、ずいぶん昔にマニラで殺した男がまとわりついて、肉を食いちぎっていた。右腕には泉勝の生首が噛みついている。両足には矢島勇と進がしがみついて、脚の指を一本一本をかじっているのだった。
驚愕も恐怖も痛みもなく、ただ、向島は殺した男たちに食われ途方に暮れている。
体を揺すられた。
「おい、大丈夫か」
本多の声に目を覚ました。センチュリーの後部座席に乗っていた。クルマは首都高を走っているのだろうか。カーブしたハイウェイを見下ろすビル群の向こうに、赤くライトアップされた東京タワーが見える。
本多はフットレストに足を乗せてくつろいでいたようだが、変な顔でこちらを見ている。
「昨晩もか」
また眠れなかったのか、という意味だろう。吉竹組の分裂抗争が本格化した四年前から、熟睡できた日はない。上納金を吊り上げて末端を疲弊させ伝統ある吉竹組を分裂させた矢島の双子や、意地を張って矛を収めなかった泉勝。この三者を亡き者にして統一を果たせば、朝まで目が覚めない日が来ると思っていた。
とんだ間違いだった。
向島の体は完全に、寝方を忘れてしまった。様々な睡眠薬を処方されてきたが効いたものはひとつもない。満腹になれば眠くなると考え、無理に食べた日もあったが、いまは食事も進まず、出されたものの半分を口にできたらいい方だった。
移動時間など、油断すると意識を失ったように眠りに落ちるが、それも五分か十分程度だった。必ず同じ夢を見る。殺した男たちに体を食われる。最初は抵抗して目覚めたが、最近はどうせ夢だからともうあきらめて、食われるがままになっている。
いま向かっているのは本多がおすすめの中華料理店だった。飯もろくに食えないのなら、高カロリーなものを、と思ったらしい。この山東飯店はマムシの紹興酒がおすすめだそうで、これを飲めば一発で体調は回復すると本多は豪快に向島の背中を叩く。
「それにしてもあの女マル暴と仲良く中華を食べる日が来るとはな」
本多が太い指でスマホをタップし、ニュースサイトをちらっと示す。池袋の沖縄料理店で殺人死体損壊事件、という文字が見えた。
「どーなってんだ。え? 琉世会のやつがミンチにされてるって話だ。第一発見者の情報はまだ出てないな」
昨夜、向島の曳舟のマンションに倉敷も来ていたが、二十二時過ぎに血相を変えて帰っていった。その三十分後、子分がやらかして大騒動になるかもしれない、しばらくドロンします、とメッセージが来たきりだ。なにが起こっているのか知らないが、いまは距離を置くべきだろう。
「これから警察さんと会食だ。こっちも情報を取るチャンスだ」
本多が向島の肩を叩き、ぎゅうっと肩の肉をつかみあげた。
「頼むぞ、向島組長。今日も桜庭誓ちゃんはお前にしっぽフリフリで来るだろうからな。うまくたぶらかして捜査情報を引き出してくれ」
本多は、向島と誓の本当の関係を知らない。誓が片思いしていると勘違いしている。別にそれでいい。向島と誓の親子関係を知っているヤクザはほとんどが鬼籍に入り、二人だけになった。数年前まで四人いたのだが、うち二人を和歌山の渓流釣りの場で事故に見せかけて殺害した。妖怪のようだった小さな老人の細い首をせせらぎの中で締め上げた。その冷たくも熱い感触が、右手全体に蘇る。
――後悔するぞ、コオロギ。
最期にそう言い残し策略家の矢島勇は死んだ。後悔などするはずがない。吉竹組は平穏を取り戻し、いまのところ抗争の火種はない。
――沖縄を除いては。
山東飯店の前にセンチュリーが停車した。藪と誓が店の前に立っている。
本多が女刑事二人を一瞥し向島に囁く。
「明後日の沖縄行きの阻害要因にならないことを祈る」
先乗りしていたガードが扉を開ける。向島は腰をかがめて赤坂の路地に降り立つ。高級クラブが立ち並ぶこの通りは、ハイヤーがあちこちに停まっては客人を下ろして立ち去る。今日は会合ではなくお忍びだから出迎えはガードのみ、向島もスーツではなくジーンズにポロシャツという恰好で、左腕の断絶部は露出していた。通行人が向島をじろじろと見る。
向島はガードに守られながら、店の前へ歩を進めた。娘をまぢかに見下ろす。きらきらした、嬉しそうな顔を隠そうともしない。
「こんばんは」
明日の沖縄行きを決行すれば、ようやくこの不眠と決着がつけられるはずなのだ。
「こんばんは」
邪魔をしてくれるなよ、誓。
向島は娘から目を逸らし、店に入った。
(つづく)