『MAZE』(2001年)、『クレオパトラの夢』(2003年)、『ブラック・ベルベット』(2015年)と四半世紀にわたって書き継がれてきた、恩田陸さんの「神原恵弥」シリーズ。世界をまたにかけて活躍する凄腕ウイルスハンターの神原恵弥が、待望の最新作『傾斜のマリア』で向かうのは九州のN崎。土地の力に導かれて数多くの名作を生み出してきた恩田さんが、新作の舞台にこの町を選んだのはなぜなのか。恩田さんいわく「トラベル会話ミステリー」という本書の魅力尽きない世界について、著者にインタビューした。
取材・文=朝宮運河
撮影=後藤利江
連載中にパンデミックが起きるとは思ってもみませんでした
──『傾斜のマリア』は「小説推理」に2017年2月号から25年8月号まで連載されていた作品です。8年あまりの長期連載を終えてのお気持ちは?
恩田陸(以下=恩田):やっぱり感慨深いものはありますよ。前作から11年も経ってしまったし、連載中に還暦を迎えましたし。月日が経つのは早いですねという話を、最近会う人みんなとしているんですけど(笑)、とにかく無事に終えられてよかったです。
──連載期間中には新型コロナウイルスの世界的流行もありました。このシリーズが扱ってきた題材とも無関係ではないと思いますが、執筆に影響はありませんでしたか。
恩田:取材はコロナ禍前に終わっていましたし、今回は特にパンデミックを扱った話でもなかったので、そこまで影響はなかったです。長崎大学が感染症研究の拠点を設けるということは、連載前から知っていて、ちょっとお話も聞かせてもらったんです。長崎は地理的にも海の向こうから新型ウイルスが入ってきやすいし、研究拠点は必要だということを長崎大の先生がおっしゃっていました。連載中にパンデミックが起きるとは思ってもみませんでしたけど。
──シリーズ前作『ブラック・ベルベット』には、主人公・神原恵弥の「必ずパンデミックは起きるのよ」という予見的なセリフもあります。
恩田:専門家の間ではいつ起きてもおかしくない、時間の問題だと言われてはいたんです。そういう意味では意外ではなかったですが、こんな風にいきなり始まるものなんだ、とは感じました。
──シリーズの主人公・神原恵弥は世界をまたにかけて活躍する、凄腕ウイルスハンター。『ブラック・ベルベット』である事件に巻き込まれた彼は、勤務先の大手製薬会社を辞め、今作からフリーランスになっていますね。
恩田:そうです。前作で多国籍企業のダークサイドを見てしまって、それが原因でフリーになりました。もともと彼は個人事業主みたいな働き方をしていたんですけど、会社を離れて自由の身になった。
──その空いた時間を利用して、恵弥は九州のN崎(長崎)にやってきました。旅の目的は休暇のため、そして長崎生まれの祖母が遺した奇妙な「数え唄」の謎を探るためです。
恩田:何か中心的な謎がなければいけないと思って、数え唄を作ってみました。長崎に関連する単語をちりばめて、それらしい唄を作るのは楽しかったですよ。ただその時点では深い意味は考えていなくて(笑)。どちらの方向にでも転がせる歌詞だったので、連載を書き継ぎながらあちこちに展開させていきました。
──恵弥の旅に同行するのが、国立感染症研究所の研究員・多田直樹。多田は友人のN崎大教授を、恵弥に紹介したいと言うのですが……。何かたくらみがありそうな多田との旅が、ユーモアを交えた会話とともに描かれていきます。
恩田:多田みたいに腹黒い大人は好きなので、書いていて楽しいですね。このシリーズってウイルスを扱っていますが、そこまで複雑な謀略や謎があるわけではなくて、広い意味でのトラベルミステリーのような気持ちで書いています。恵弥が多田とうだうだ会話しているうちに、ちょっとした事件に巻きこまれる。会話がメインなんです。“トラベル会話ミステリー”とでもいうようなジャンルの小説なんですね。
──なるほど、“トラベル会話ミステリー”とはぴったりの呼び方ですね。グラバー園や二十六聖人殉教地などの名所旧跡を巡りながら、恵弥と多田が長崎の歴史や文化についておしゃべりする。その和やかなムードが、本作の魅力です。
恩田:作者としてもそこが楽しくて書いているので。だからこのシリーズは長く続いたのかなとも思います。
──現地取材に行かれたそうですが、その時点でストーリーの流れはできあがっていたんですか。
恩田:いえいえ、もちろんプロットなんて考えているわけもなく。毎度のことながら、行き当たりばったりです。長崎には連載前に一度取材に行きました。連載中も何度か立ち寄る機会があって、そうした時に見たり感じたりしたことが、そのまま恵弥と多田の会話に生かされています。
──旅の途中、恵弥の脳裏に浮かんできたのは軍艦島の景色。世界遺産として有名な軍艦島も、謎解きに関わってきます。
恩田:軍艦島はブームになる前から興味がありました。ビジュアルがすごいじゃないですか。小島に鉄筋コンクリートのマンションがぎっしりと建てられていて、まさに軍艦そのもの。『007』のロケ地になったのも納得です。取材では観光船で近くまで行ったんですけど、波が高くて上陸できなかったんです。それは返す返すも残念でしたね。
──N崎大を訪ねた恵弥は、熱帯医学研究所の教授・板倉実を紹介されます。板倉がある依頼をしてきたことで、物語は大きく動き出します。
恩田:不穏なムードが大好きなので、今回もそれなりの不穏さは入れたいなと。といってもガチガチの陰謀を描くというシリーズでもないので、深刻にならない程度ですね。ちょっとヤバいかもという気配を漂わせつつ、肩肘張らずに読める楽しさは最後まで大事にしたところです。
〈後編〉に続きます。