1
カメラの視点はすうっと上昇した。
目の前に広がるのは、まるで古代遺跡のような高層の廃墟である。
よく見れば、それは鉄筋コンクリートの雨ざらしになった姿だと気付くだろう。しかも、ごく狭い敷地の、海の中の島に建てられたものだと分かる。
近代から高度成長期にかけての、エネルギー産業の跡。海底の炭鉱を掘り出すために築かれた人工島。かつては五千人以上が住み、三交代で休むことなく石炭を掘り出し続け、眠ることのなかった島。
海上から見れば、それは沖を行く巨大な戦艦にも似ていることから、そうなぞらえた通称で呼ばれてきた。
しかし、今や無人となり打ち捨てられ、潮風や波にさらされ、朽ち果てるがままになっているのだった。
倒壊の危険もある高層アパートの屋上には、小さな鳥居も見える。
土はわずかしかないが、そのわずかな土にへばりつくように生い茂る雑草が島の一部を覆っている。
海に浮かぶ、人間の営みの痕跡。
その黒ずんで、どこか情念の残滓を感じさせる島の映る画面を、じっと食い入るように見つめる一対の目があった。
2
「――だぁからぁ、休暇なの、休暇。ホントだってば。あら、あたしが今まで嘘なんかついたことあったー? ホラ、ないでしょ。言わなかったことはあっても、嘘はついたことないわよー」
N崎駅を出たコンコースで、ひときわ悪目立ちしている男。
小柄でひきしまった身体、短く刈り上げた頭、眼光鋭く整った顔つきで、いささか年齢不詳の男である。
「あのねえ、余計な詮索しないでちょうだい。考えすぎだってば。いいこと? 和見。こちとら、会社もやめて、完璧フリーランスになったところで、ココロの休養が必要なところなの。これまでずーっとしゃかりきに働いてきたんだから、ちっとばかり長い休暇取っても文句は言われないと思うわー。え? なんでN崎かって? どこで休暇取ろうがあたしの勝手でしょ。はいはい、カステラとちゃんぽん食べようと思ったの。毎日朝昼晩、カステラとちゃんぽん食べるわよー。これで納得した?」
声と会話の内容と、見た目が著しく一致しないその男は、イライラした様子で話し続けた。
「あのね、スマホの充電切れそうだからもう切るわよ。姉貴たちによろしく言っといてねー」
そう言って忌々しげに電話を切る。
「ったく、我が妹ながら相変わらず小うるさい女だわ」
スマホをコートのポケットに入れる。
「――そういう君も相変わらずだねえ」
電話中の神原恵弥をじっと遠巻きにしていた男が溜息をついた。
恵弥は顔を上げる。
「ふん。あんたは足が一本増えたみたいじゃない?」
「人間だからね」
「そういや、スフィンクスの謎解きの答えがそうだったわねえ。朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足」
恵弥はそこに立っている男をサッと一瞥した。
「こんなに早く三本足になるとは思わなかったけど」
銀色の杖を突いた多田直樹が、小さく肩をすくめて苦笑した。
「思ったよりは元気そうじゃない。一時は再起不能かと心配してたわよ、慶子が」
「おかげさまで。意識が戻ってからは、割に早かったね」
二人で並んで歩き出す。
多田は、交通事故にあって、しばらく集中治療室に入っていた。たまたまT共和国に出かける恵弥に知人の捜索を頼んだあとのことで、いっときはその件に関連して誰かに危害を加えられたのかと思ったのだが、不幸な事故だったらしい。
「あんたは何の用なのよ。あたしは休暇なんだけど」
「知ってる。僕も休暇だ。リハビリだよ」
多田の杖を使うペースに合わせ、ゆっくりとした歩調だ。
もう使い慣れたらしく、多田の歩くペースはしっかりとしている。やや足を引きずっていること以外は、体調はよいようだった。顔色も悪くない。
「リハビリねえ」
「君にどうしても、N崎大学の友人を紹介したくて」
恵弥は探るような目つきで多田を見た。
「それでわざわざ東京から 出張ってきたってわけ? 無職のあたしに職を紹介しようと?」
「職になるかは分からないが、知り合いになっておいても損にはならないと思ってね。君にはT共和国で迷惑掛けたからね」
恵弥は足を止め、もう一度身体を引いて猜疑心たっぷりの目つきで多田を見た。
「なんか今、デジャ・ビュを感じたわ、あたし」
「デジャ・ビュ?」
「そうよ。T共和国に行く前も、こんな感じだったわよねえ。あんたったら何気ない様子で、大したことのないような顔してさ、博士の捜索頼んだわよねえ。しかも、自分の兄貴の存在はちゃっかり隠しちゃってさー。結果、あんな面倒臭いことになっちゃったわけじゃない? まだ懲りないの? 今度は何を押し付けようってのよ」
恵弥の声はぎすぎすして鋭い。
多田は小さく手を振った。
「確かに、あの時は悪かった。うちの兄貴のことを教えなかったのは謝る。だけど、あの時は事情が事情だったから」
「アキコは元気なの? 世間は大騒ぎになってるみたいだけど」
「うん。居場所は言えないけど、無事だ」
アキコ・スタンバーグ博士は、米国の企業(そここそが、恵弥が勤めていた医薬品コングロマリットだ)が化学兵器を秘密裏に他国で造っていることを告発するため、米国から姿を消した。それに恵弥が一枚噛んだ――というよりは、知らないうちに噛まされていたのだが、結果としては、博士は米国の追及を逃れて、世界にその情報を公開したのだ。もちろん、世界中で大騒ぎになり、米国は工場を置いていたT共和国を始め、世界から糾弾されて対応に大童になっている。むろん、米国では博士はお尋ね者である。
「ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)も味方についてくれてるし、複数の人権派弁護士が付いた。今のところは安全だろう」
「それはよかった」
恵弥の声には、さすがに安堵の色があった。
米国のお尋ね者になるというのが、どれほど大変なことか容易に想像がつく。
「で、今度は何よ。何隠してるの? 今のうちに教えといてもらわないと」
「いやいや、本当に、単なるお詫びだよ。お詫びにもならないが、今後、何かの役に立てばと思って」
多田はいよいよ大きく手を振った。
「まあ、別に知り合いが増える分には構わないけどね。いい男ならなおさらだけど」
恵弥は気のない声で呟いた。
「今度、N崎大学でBSL4施設が出来るのは知ってるよな?」
多田が打ち明け話のように囁いた。
バイオセーフティーレベル4。
天然痘やエボラウイルスなど、人類に対して脅威となる危険度の高いウイルスを扱える施設である。
「ああ、聞いたわ。元々立候補してたのよね、N崎大学は」
「そうなんだ」
「だけど、東京でも稼働したんじゃなかったっけ? 国立感染症研究所かどこか」
「ああ。でもひとつでは心許ないからね。国も本気で支援してる」
「先進国でBSL4がないなんて日本くらいだものね。近い将来、必ず起きるであろうパンデミックの時に、いちいちCDC(アメリカ疾病予防管理センター)に検体送ってるわけにいかないし。第一、よその国の検体なんか後回しにされるに決まってる」
「そのとおり。地元住民の一部には反対の声もあるが、必要だということに関しては、概ね理解を得ているようだ」
「パンデミックが起きてからじゃ遅いもんね」
むろん、都市部でエボラウイルスクラスのパンデミックが起きてしまったら、その封じ込めがどんなに難しいかは二人にもよく分かっている。施設があったからどうにかなるという問題ではない。
「そのお友達はいつ紹介してくれるの?」
「明日の午後を予定してる。君はいつまでN崎にいるんだい?」
「さあ。まだはっきりとは決めてないわ」
恵弥はあっけらかんとした口調で答える。
今度は多田のほうが探る目つきになって、立ち止まる。
「いったい、君は何しにここに来たんだ?」
「あら、何、今度はあんたが尋問するわけ?」
恵弥は振り向いた。
多田の目つきは冷たい。
「君だって、T共和国には別の目的があって行ったんじゃないのか?」
「あらあ、旅行ってのは、いろいろな目的があるでしょう。せっかく行くんだから、大きな目的や小さな目的、個人的な目的も果たしてみたいってもんじゃないの。お土産は多いほどいいでしょ」
恵弥はあっけらかんとした口調を崩さない。
「実はあたし、N崎って来たことがないの。個人的な目的はいろいろあるわね。カステラとちゃんぽん三昧ってのは、嘘じゃないわ。どっちも好物だしー」
多田は目を白黒させた。
「食べ合わせとしてはあまりよさそうじゃないな」
どうやら彼は両方一緒に食べるところを想像してみたようで、げんなりした表情になった。
「今はちょうどランタンフェスティバルの時期でしょ? 異国情緒ってやつを味わってみたかったのよ。日本国内ってあんまり行ったことないし。あんたと慶子の世話になった北海道くらいでさー」
アメリカ暮らしが長かった恵弥は、国内旅行の経験がほとんどない。
「あたしがどっか行くとみんなやけに勘ぐるんだけどさ。うちの妹をはじめとして」
恵弥はさっきの電話を思い出したらしく渋い顔になった。
「ほんと、フリーになったし、どっかのんびり行きたいなって思って、いろいろ調べたの。でも、二月ってのは、時期的にオフシーズンなんだよねー。北陸で寿司でも食おうかと思ったけど、ほら、あたし、雪も寒いのも嫌いだからさ」
「そういえば、北海道でもさんざん文句言ってたな」
「そうよ。あたしにふさわしいのは、あくまでゴージャスな南国のリゾート地だもの」
恵弥は「ふん」と鼻を鳴らした。
「で、あったかいN崎にしたのか」
「そう。雪も降らないし、海は穏やかだし」
「ふうん。本当に観光なのか」
「そうだって言ってるじゃない」
言い切ってから、恵弥はふと宙を見上げた。
「でも、ちょっと調べてみたいことはあんのよね」
「調べる?」
その単語に興味を覚えたらしく、多田が身を乗り出した。
「うちって、母方のばあさんがN崎の人だったらしいの。で、当時はかなり落ちぶれてたけど、元々すっごい裕福な家だったっていうのよね」
「へえー」
「で、変な遺言みたいなのが残ってるんだけど、誰も意味が分かんなくてさ。もしかして、何かお宝の隠し場所なんじゃないかって勝手に家族で噂してたんだけど、未だに分からないんだわ」
「地図でも描いてあるのかい?」
「うーん、それがねえ。地図とかならまだ分かるんだけど」
恵弥は渋い顔になった。
「数え唄と、お菓子の絵が並べてあるだけなのよー」
「へえ。面白いな。現物は持ってないの?」
「うん、コピーだけ。スーツケースに入ってるから、あとで見せたげる」
「是非」
少しして、多田が「ああ」と思いついたような顔になった。
「だからカステラなのか」
「そういうわけじゃないけどさー。念頭にあったことは確かね。あんた、このまま歩いてて大丈夫? 疲れたら言ってよ、車拾うから」
「いや、大丈夫だ。もう少し地理を把握した頃でいいよ」
海は駅を出てすぐからその気配を感じていたし、穏やかな海面が見えた。海から吹いてくる風は二月にしてはかなり暖かい。
一瞥して、山の近い町だということはすぐに分かる。
湾を挟んだ向こう側にも山が迫り、手が届きそうに感じるほどだ。
天然の良港、という言葉が頭に浮かぶ。
「N崎って、チャリに乗る人がほとんどいないらしいね」
「ほんとに?」
「ほら、だってこれまでも見かけてないだろう」
「言われてみれば」
恵弥は、通りを行き交う人々を見た。
確かに、自転車を全くと言っていいほど見かけない。代わりに見かけるのは、大量の原付だ。
「やっぱ、坂が多いからかしら」
「だろうね。普通、どこの都市でも坂の上の家が高級住宅地なんだけど、ここの場合、低いところにあるほうが高いらしいよ」
「へえ。楽ちんなほうが高い。当然といえば当然よね」
「一説には、世界三大傾斜都市のひとつと呼ばれてるとか」
「あとの二つはどこよ?」
「知らない」
「そういう世界三大ナントカって、ほんとかよって思うわよねー。あれとおんなじよね、日本で二番目においしいナントカっていうやつと」
傾斜都市。
恵弥は口の中で呟いてみた。その響きになんとなく惹かれたからだ。
確かに、見た目通りの呼び名だわ。湾を囲むように、ぐるりと山肌の斜面に街が形成されている。
「僕は、一度端島に行ってみたかったな」
多田が呟いた。
「ああ、軍艦島でしょ? 007の映画のロケ地になってたからびっくりしたわ。映画観てたら、どう見てもこりゃ軍艦島じゃんと思って」
「あれは海から見た遠景だけで、中のロケは別のところだったらしいね」
「あら、そうなの」
「かなり大きなセットを作ったらしい」
「てっきり、上陸して撮ったのかと思ったわー」
「それは危険だろう。中の建物は相当崩落の可能性が高いらしいし」
「あれって世界文化遺産なんでしょ? 補強とか、復旧とかしないのかしら」
「今のところ、するって話は聞かないなあ。あのままにしとくらしいよ」
「ええっ、そうなの? じゃあ、朽ちるに任せるってこと?」
「うん。学者の予測図を見たことがある。五十年後、百年後って」
「どうなるの?」
「人が住んでる頃から、台風や高波で傷めつけられて維持が大変だったらしいから、この先、人の手も入らず毎年台風にやられたら、早々に崩れて海の中に沈んじゃうだろうって」
「残念だわねー。面白いビジュアルなのに」
「観光資源だしね」
軍艦島。
N崎湾を出て、少し先にあったはずだ。海に浮かぶシルエットを写真で見たことがある。本当に、海に浮かぶ軍艦そっくりに見えたっけ。
そして、カメラはすうっと持ち上がって、島の上空へ――
いや、待てよ。
恵弥は立ち止まった。
なんなの、今のイメージ。この映像は、どこから来たの?
「どうかしたかい?」
「なんでもない」
手を振って、再び歩き出す。
「ねえ、あたし、軍艦島に行ったことあったかしら?」
「はあ? それ、僕に聞いてる?」
「自分によ」
多田は絶句した。
「変ね。あたし、軍艦島の中の景色を見たような気がする。上から見下ろしてた」
「映像で見たってこと?」
「かもね。にしては、なんだかおかしな印象なんだわ」
「最近のこと?」
「それが、思い出せないの」
恵弥は左右に首を振った。
「君って、映像記憶があるんじゃなかったっけ?」
多田に言われるまでもなく、自分には、鮮明な映像を記憶し、しまいこめる能力があることをよく知っていた。だから余計に気味が悪いのだ。
この絵はいつのもの? なんでこんな記憶があるの?
「うーん、なんだか気持ち悪いわー。しかも、その軍艦島の映像を見て、『おかしい』って思ったことを思い出した」
「おかしい? 何がおかしいの?」
多田は混乱した様子で恵弥の顔を覗き込む。
「分からない。分からないけど、絶対そう思ったのは確かなのよー」
おかしい。ここには、何かおかしなものが映っている。
そう直感した。そのことだけは鮮やかに覚えているのだが。
恵弥は首を振った。
どうしてだろう、それがどこで見たものなのか、何に対して違和感を覚えたのかが全く思い出せないのだ。
こんなことは初めてだわ。
恵弥は得体の知れない不安が込み上げてくるのを感じ、心ここにあらずという様子で歩き続けた。
『傾斜のマリア』は全2回で連日公開予定