前作から11年。ついに刊行された、ウイルスハンター神原恵弥のシリーズ第四作となる最新刊の舞台は九州の傾斜都市、N崎。この土地ならではの歴史と記憶を土台に、恩田陸の果てしないイマジネーションが発揮されたミステリーです。
「WEB小説推理」2026年9月号に掲載された書評家・朝宮運河さんのレビューで『傾斜のマリア』の読みどころをご紹介します。

■『傾斜のマリア』恩田陸 /朝宮運河 [評]
謎めいた数え唄に隠された真意とは? ウイルスハンター・神原恵弥の心躍る冒険譚
ページを開くとすぐに賑やかなおしゃべりが始まって、「そうそう、この感じ」と嬉しくなってしまう。『傾斜のマリア』は恩田陸が四半世紀以上にわたって書き継いでいる神原恵弥シリーズの最新刊。『ブラック・ベルベット』以来11年ぶりの新作ということになるが、のっけからユーモアと皮肉たっぷりの“恵弥節”が炸裂してタイムラグを感じさせない。
世界をまたにかけて活動する凄腕ウイルスハンターの恵弥が、行く先々で事件に巻き込まれるというのがシリーズの基本パターン。米国資本の大手製薬会社を辞めフリーとなった彼が今回向かったのは、祖母の生まれ故郷である九州のN崎だ。休暇を兼ねての旅の目的は、祖母の遺した数え唄の意味を探ること。その唄には「かたむくマリア」「グラバーさんの コンパス」などの謎めいた言葉がちりばめられ、N崎の伝統的なお菓子であるカスドース、一口香、マルボーロが登場する。この唄で祖母は何を伝えようとしたのか。
旅先に現れた友人・多田がN崎大学の友人を恵弥に紹介したいと言い出して、さらに事態はややこしくなる。N崎大といえば危険性の高いウイルスを扱うBSL(バイオセーフティレベル)4施設が設置された、日本の防疫上重要な場所だ。米国の監視下に置かれている科学者アキコ・スタンバーグの影もちらついて、じわじわとサスペンスの雰囲気も高まるのだが、それでも飄然とした軽みを失わないのがこのシリーズ。グラバー邸や軍艦島などの名所をめぐり、土地の料理や珍しいお菓子に舌つづみを打ちながらの暢気な謎解き休暇は、どこにたどり着くのか誰にも分からない。洒脱な会話と非日常的な時間の流れが実に心地よい、大人ためのトラベルミステリーに仕上がっている。
旅の過程で浮かび上がるのは、日本の数百年の歩みが刻印されたかのようなN市の複雑な歴史だ。謎解きとともにこの街で暮らした人々の素顔が浮かび上がるという展開には、地霊の声なき声に耳を傾けてきた、恩田陸らしさがあふれている。