仲間同士で同じ体験をしたはずなのに、それぞれ記憶から取り出したら、まったく違う思い出として残っている。そんなこともある。
これは、私があるテレビ番組に出たときの出来事です。
名前は出しませんが、ある有名人の男性を故郷に連れていって、ゆかりの地で子どもの頃の懐かしい思い出を語ってもらうという番組。私は、その司会でした。
その彼をゆかりの地に連れていくと、当時の同級生がサプライズで登場して「おお! おまえら! 懐かしいね~」なんて言いながら、懐かしの思い出を、たっぷり語ってもらうという流れを予定していました。いかにもテレビらしい演出ですよね。
番組では、ゲストを故郷の小学校の裏山のイチョウの木の下に連れていきました。そこは彼が小学校のときによく遊んだ思い出の場所。
最初は「懐かしいな~」なんて、狙い通りの反応をしていたんですが、あるところから思い出をたどる糸口が違う筋を引いちゃったんですね。
突然、思い出したかのように、
「このイチョウの木の下で、いじめられた」
と、凄絶な〝いじめ体験〟を語り出したんです。番組の狙いとは真逆に。
「秋になってイチョウの葉っぱが落ちる頃に、このイチョウの木の下で葉っぱに埋められて〝お葬式ごっこ〟をしたんだ。自分は死体役にさせられて……」
むごいいじめ体験を語り出したから、さぁ大変。司会者の私からすれば内心、「この方向はマズイなぁ……」と気が気じゃなかった。
しかも、このとき別班のスタッフが、クラスで一番よく遊んだという3人の同級生を連れて校舎の裏で待機中。彼が思い出を語っている最中に、3人が後ろから気づかれないように近づいてきて、感動の再会をするという流れだった。私は念じました。
「とにかく、お葬式ごっこの友達でありませんように……」
司会者としては、もう祈るしかない。それとは裏腹に、ゲストの彼は涙目になって、いじめの悲惨さを私に向かって話している。頼むよ……。私も涙目になりそう。
しかも、ゆっくり近づいてくる友達たちは男性2人と女性1人で、彼が語る、いじめグループの男女比とピッタリ。勘弁してくれ。できることなら、その場から逃げ出したくなるような思いですが、できるはずもありません。
同級生3人は満面の笑顔で、彼に近寄ってきます。そして、いよいよご対面。
3人は笑顔、主役の彼は号泣。もうね、地獄絵図ですよ。
「いっぱい思い出あるよね、このイチョウの木」
3人はにこやかに語り始めたんだ。ゾクゾクするでしょ、この展開。そこで彼がボソッと言うんですよ。
「暗い思い出しかないんだ……」
それ聞いて3人が笑い転げている。「そうよ、暗いよ、暗いよ!」って笑い出したんです。
そこで3人から遊びのタイトルが出てきた。
「お葬式ごっこ」
出た……。例の、禁じられた遊びだよね。それを笑って語っている。
そのあたりからゲストの彼の口調が変わってきた。
「キミたち、僕を埋めたよね」
もう、いじめの告発番組ですよ。でも、その言葉を聞いた3人が、また笑う。「そうそうそう!」って言いながら楽しげに笑うんです。
一方は楽しい思い出を語る顔。片や、いじめの告発者の顔。どうなってるんだ、この落差は⁉
まったく思い出が嚙み合ってない。そしたら、3人がこう言うんですよ。
「キミもあのときはひどかったよね」
そのグループの中の女性が言ったんです。
「アナタ、私を埋めたとき、私の上に乗って〝ナンマイダ、ナンマイダ〟って言ったのよ~」
そのあたりから、ゲストの彼の記憶がガッチャ、ガッチャ入れ替わってきました。
話を聞いてみたら、何のことはない、みんなで、かわりばんこに死体役をやっていたそうなんです。
女の子が死体役のときは、彼が上に乗っかって「ナンマイダ」って言っていた。女の子は葉っぱの下で泣いたって。
「アナタが一番、ひどかった」
そう言って3人は、ゲタゲタ笑ってるんですよ。
彼の記憶の中では、イチョウの葉っぱの下にいた恐怖感だけが思い出として残っていて、自分が他の人にやったことは完璧に忘れているわけです。
おそらく、30年たつか、たたないかぐらいの記憶だけれど、それぐらい揺らぐんですね、人間の思い出というのものは。
最初は〝いじめのドキュメンタリー〟で、どうなることかと思いましたが、最終的には〝笑い転げたお葬式ごっこ〟になったことで、番組としてはギリギリセーフ。私もホッと胸をなで下ろしました。
年を取ると、思い出というやつは、だんだん人生の中で重要な比重を占めるようになりますが、それを記憶から取り出すときに、かくのごとく違うものになってしまうんですね。
『老いと記憶』(増本康平著・中央公論新社)という本には、出来事を記憶するためには〝感情〟がないと覚えられないといったことが書かれています。つまり、人間は〝感情〟を記憶しているそうなんです。
だから彼のように「惨めだった」「つらかった」「悲しかった」という感情は、ものすごく記憶に残りやすいパッケージなんですね。
逆に「楽しかった」「嬉しかった」という感情(思い出)は〝忘れやすいパッケージ〟に包んであるそうです。
なぜ、そんなふうに人間の記憶はできているのか。
それは、「つらいこと」「苦しかったこと」「悲しいこと」は、〝また、やって来るかもしれない〟と恐れるから。そのときの用心のために、目立つ包装紙で記憶の中に保管されているわけです。
逆に「楽しかった」「嬉しかった」は、危険性とは関係がないので、記憶として、そんなに大事に保存しなくとも、たまに思い出すぐらいで、ちょうどいい。つらい思い出のほうが後々、重大な影響力を持ってくる。記憶しておかないと命に関わることもあるぞ、と。
これは、ある種の防衛本能ですよね。生物の本能として、そんなふうに記憶をしまい込んで危機管理しているわけです。
「ヤバかった」という思い出が一番、派手な包装紙に包んである。「まあまあ危なかった」という包装紙は、置いておくと、どんどん色あせていく。「楽しかった」という思い出は、さらに早くかすんでいく。これが記憶のメカニズム。
こう考えてくると、だんだん記憶の正体が分かってきますよね。
得恋、うまくいった恋って忘れちゃうよね。フラれた思い出は、歌になるもんね。だから、私は忘れてしまわないように、〝歌〟という色あせない包装紙に包んで、初恋の唄を作ったのでしょう。
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