序章 夜明けの金星
長野県の高校説明会は大抵初夏に行われる。すがすがしい陽気も相まって、中学生の目には初めて訪れる高校の校舎が新鮮に映る。大人びた在校生や目新しい施設に接することは、子どもと大人の中間にいる中学生には心躍る体験だ。
しかし、「彼」は違った。
すでに数校の見学を終えていたが、彼はどの高校にもちっとも面白みを感じなかった。校舎が新しいとか、○○部に強豪校から引き抜いた名監督がいるとか、それぞれに特色はあった。ただ、校舎の新しさにも名監督にも彼は興味がなかった。
どの学校も呆れ返るほど退屈だったのは校長の話だ。壇上からこちらを見下ろして彼らが言うことは難関大への進学率がどうの、充実した高校生活がどうのとか。部活動自慢を加える者もいた。皆似たり寄ったりの話だ。違うのは話し手の性別と声の高さくらい。だから、架純学園を見学に行く時も彼はなんの期待もしていなかった。
急に講堂の入り口が開いた時は大袈裟な演出だと白けた彼も、平等正文学園長の姿を目にした途端気持ちが変わった。
緑風を連れた学園長は、生徒と保護者の間を縫うように歩いた。壇上に向かいながらマイクを使わずに抑揚のきいたトーンで話すのだが、それには引き込まるような魅力があった。学園長が時折手を動かすと、左手薬指に着けた大ぶりの指輪が目立った。
高身長で、さらに鍛えられた身体つき。よく通る声に整った顔立ち。容姿もずば抜けて優れていたが、他校の校長と決定的に違ったのは生徒と同じ目線を持っていることだった。生徒に寄り添う姿勢を持ちながら、学園長には強いリーダーシップがあった。このひとのもとで学びたいと思わせる引力があった。
多くの学生と保護者がそうであるように、彼もまた、学園長のカリスマ性に惹かれて架純学園への入学を決めた。
架純学園は素晴らしい学校だった。
強く優しいリーダーのもとで、彼は思い通りの学生生活を送ることができた。
彼は学園長から学んだことを活かしたいと思うようになった。思想を受け継ぎ、学園長の理想を叶えたいと思った。あるきっかけが彼の進む道を決定的にした。
そして――機会が訪れる。
第一章 素晴らしき学園
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私立架純学園に赴任した美術教師の梨子田明里は水泳部顧問として指導にあたっている。今年度新卒採用の明里にとって架純学園の運動部顧問を引き受けるのは荷が重かった。
長野県にある架純学園は創立二十年を迎える生徒数五百二十五人の全寮制私立高校で、歴史は浅いながらも難関大学への進学率が高く、さらに運動部の活動も盛んだった。
特に野球部と陸上部は全国大会で上位入賞が確実視され、過去には優勝経験もあった。他にも県大会や北信越大会で活躍する部活ばかりで、水泳部も県大会では個人、団体ともに上位入賞を狙える実力者がそろっていた。
陸上と野球には顧問以外にも外部から招いた専門のコーチがいるが、他の部活はその競技の経験者が顧問についていた。一口に「経験者」と言っても、現役時代には全国の舞台で戦っていた強者たちばかりだ。地元の水泳大会で賞状をもらって喜んでいた明里とはレベルが違うのだ。
明里には喘息の持病がある。風邪などのきっかけで一気に悪化し経口薬と吸入薬が必要になるが、発作が起きていない時は運動もできるし、普段通りの生活が送れる。今では年に一度発作が起こるくらいで、お守り代わりに持っている吸入薬も今年はまだ一度も使っていない。
とはいえ、子どもの頃は季節の変わり目や病気が流行るとその都度病院へ駆け込んでいた。明里が六歳の時、喘息には水泳がいいらしいと聞きつけた両親がスイミングスクールへの入会を決めた。勝手に決められた入会だったが、明里は喜んで通った。元々水は好きだった。
中学では通えない期間もあったが、スイミングスクールへはおよそ十二年間通った。その経歴を元に水泳部顧問を任されたのだが、学生時代これといった好成績も残せなかった明里としては、自分より速く泳ぐ生徒の指導をする自信がいまいち持てないのだった。
学園長の平等正文との面談で顧問を打診されたのだが、その際、明里はハッキリと辞退している。運動部全体が強豪校の架純学園で指導者になるにはプレッシャーが大きすぎるし、そもそも指導経験がゼロなので自信がない、と。そんな明里の気持ちを、学園長はいとも簡単に変えてしまった。
彼は明里の言うことに耳を傾けた。明里がしゃべっている間は気持ちに寄り添うような相槌を打つだけで、決して自分の言葉を挟まなかった。明里が気持ちを伝え終えると、彼は長い間を取った。その沈黙には居心地を悪くさせる空気は少しも含まれておらず、むしろ納得以上の不可欠な間にすら思えた。彼は、自身が作ったその時間を静かな語り口で破った。
「梨子田先生は、架純学園が『輝かしい記録を持つ競技者』や『強い指導者』を求めていると考えていらっしゃるんですね。でも……もしそうだとしたら、梨子田先生にお声がけはしなかったでしょう。あっ、失礼。気分を害されたなら申し訳ない」
平等学園長は綺麗にそろった白い歯を覗かせて笑った。
涼しげな目元に高く通った鼻筋。髪には白いものが交じっているが、引き締まった身体と地黒の肌のおかげか平等学園長は五十五歳という実年齢より若く健康的に見える。
いわゆる「イケオジ」だ。低音の声も耳に心地よい。まったく演技がかった様子はないのに、彼の表情、目の動き、息遣い。ちょっとした動作すべてが注目に値した。
平等学園長が膝の上で長い指を組むと、シグネットリングの刻印が明里に向いた。
「事実、運動部の強豪校では特にそういったタイプの指導者が好まれています。しかし、架純学園は顧問ありきで教師を採用しません」
学園長室のたくさんのトロフィーや優勝旗をバックに言われてもいまいち説得力がない。そんな明里の考えを見透かしたように、平等学園長は言う。
「現在、各競技の経験者が――現役時代にそれなりの結果を出していた者が――部の顧問に就いているのは本当に偶然で、水泳部の前任は競泳未経験者でした。野球部と陸上部に外部コーチがついているのは部員数が多く顧問だけでは活動を担い切れないからで、それ以上の意味はありません」
「前任の先生は未経験者だったんですか」
平等学園長は微笑みながら頷いた。たったそれだけのことなのに、明里はあたたかい手で背中を優しく押されたように感じた。
「生徒は教師の想いを敏感に感じ取ります。成績のみを重視した指導には往々にして反発が起こるし、時に必要のない壮大な挫折を味わわせることもある。だからこそ、生徒と競技に対して真摯に向き合える者が必要です。学園の部活動が盛んなのは、指導する者が強者ではなく生徒にしっかり寄り添っているからです。水泳部は、今年度女子部員のみです。性別で判断したと思われたくないので最初に断っておきますが、全員が男子部員だったとしても梨子田先生に顧問の打診をしたでしょう。梨子田先生なら期待に応えてくださると確信しています」
数分後、明里は水泳部顧問を引き受けていた。
女子部員八名の水泳部は、学園の屋内温水プールで部活動を行っている。五十メートル、八コースの屋内プールを有している高校は県内でも珍しい。
水泳部員は三~六コースで泳法別に分かれて練習している。七コースは飛び込みの練習用で、一、二コースは他部活がトレーニングのために使用している。このトレーニング用レーンはさまざまな部活が週替わりで使う。四月の三週目である今日は陸上部だ。プールサイドに立つ陸上部の顧問は、都度指示を出している。声の張りや指示を飛ばす様子は迫力がある。
特殊な使い方をしているのが八コースで、怪我などの理由で練習に参加できない快復途中の他部活の生徒が、ウォーキング専用コースとして使っている。今、このコースを利用しているのは女子バスケットボール部一名、野球部の三名と、部活に所属していない一名の計五名だ。八コース利用者たちは、時折他のレーンへ顔を向けながらざぶざぶと水の中を進んでいる。
ウォーミングアップを始めて二十分ほどだが、ほとんどの水泳部員たちはゆうに千メートルを泳いでいる。
彼女たちのスタミナと勢いは目を瞠るものがある。前任の顧問が鍛え上げた結果だろう。彼女たちのために自分ができる指導はなにか。タイムを計る、声をかける。これまで、明里はだれにでもできる作業しか行っていない。今年度最初の大会はわずか半月後の五月上旬に迫っている。学生は、特に指導者の力量によるところの向上の差が激しい。同じ選手でも、指導者が違えば力の発揮具合が変わってくる。それどころか、良い指導者に出会えれば選手本人も気づかないような才能が開花する可能性だってある。
自分にそれはあるのか? 明里は、架純学園水泳部員に対する明確な指導方法をまだ見つけていない。
「タコ先生!」
八コースから声が飛ぶ。声の主は野球部三年レギュラー小泉准斗だ。プールサイドにやってきた「タコ先生」――体育教師で女子バスケットボール部顧問の遠藤夕子――は、准斗に向かって軽く手を振った。それから明里に会釈し、よく通る声で挨拶した。
「お疲れさまです」
遠藤先生は明里よりちょうど十歳上のベテラン教師だ。もちろんバスケットボール経験者で、現役時代は実業団から声がかかるくらいの実力者だったらしい。いつ会っても背筋を伸ばし、気持ちのいい挨拶をしてくれる人物だ。
今日の遠藤は涼しそうな紺色のポロシャツとストレッチのきいたスラックス姿だ。高身長と均整のとれた筋肉質な体格で、生徒からあだ名で呼ばれても気にしない寛容な心を持っている。
遠藤がもみあげ部分の髪を耳にかけると、形の良い耳がくっきりと見えた。耳たぶには嫌みのない小さなゴールドのピアスが光っている。
「タコ先生、一緒に泳ごうよ」
プールサイドに手をかけた准斗が遠藤を見上げて言った。
「わたしが泳いだら迷惑だろ」
「なんで?」
「まず、わたしの妖艶な水着姿にここにいる全員がノックアウトされるだろ? それに、華麗なフォームに釘付けになって練習にならなくなる」
准斗の後ろを通り過ぎようとしていた野球部員が笑いをかみ殺している。すかさず遠藤が反応する。
「おっ、古平。いい度胸だな」
一年の野球部員、古平鉄平は遠藤を上目遣いで見た後、へらへらと笑った。「老け顔」の鉄平が被った白いキャップをつるりと撫でる。その仕草は彼をますます中年のように見せた。
准斗が鉄平の頭に手を置いた。鉄平はびっくりしたように肩を竦め、その後またへらへら笑う。
「明里先生、丸刈りでもキャップって被る必要あるの?」
准斗は後輩の頭を撫でている。
架純学園に制服はあるが、髪色、髪型やピアス着用などは生徒の判断に委ねられた。それは運動部員も例外ではなく、彼らも好きな髪型や髪色を楽しんでいた。准斗もそのひとりで、彼の両耳には四カ所のピアスホールが開いていたし、ゆるくパーマをかけた髪は明るい茶色だった。
准斗は水泳キャップ着用を拒んだ。なにやら理屈をこねていたが、髪型を崩したくないからだということはすぐにわかった。明里はキャップ未着用での入水を許可した。ウォーキングのみだから排水溝に髪が吸い込まれて事故につながるおそれはないし、なにより彼の愛嬌ある性格で許してしまった。
小泉准斗は、機転の利く明るい生徒だった。
明里が架純学園で初めて行った授業は准斗のいる三年三組だった。明里が美術室に入ると、濃紺のブレザーに赤いリボンとネクタイを締めた生徒たちが一斉に顔を向けた。彼らは、ダークグレーのスラックスと青いチェックのスカートの上で行儀よく手をそろえた。
緊張するのは予想していたから、自己紹介の材料を前もって準備しておいた。しんとする教室で、名前と自画像を描いたスケッチブックを広げようとして取り落とした。一つの失敗が焦りを生んだ。スケッチブックを拾う手が震えた。それに気づいてしまうとさらに緊張が激しさを増した。自己紹介を始めるが、声まで震えた。生徒数人から失笑が起こった。
『名簿番号三番、小泉准斗です』
突然ひとりの生徒が立ち上がり、言った。
『三年三組三番。覚えやすいでしょ? だから先生、俺を一番に覚えてね』
准斗がにこやかに言うと、
『出遅れましたが、名簿番号一番、大槻翔です』
ルーム長であり、野球部主将でエースの大槻翔がその場を仕切り、生徒の自己紹介が進んでいった。
准斗がいなければ、その後の架純学園での教員生活は悲惨なものになっただろう。明里はそう確信していた。だから彼には恩を感じていた。
「明里先生ってば。古平がキャップを被る意味は?」
プールでは准斗が後輩の頭をまだ撫でている。
明里は答えることができなかった。自分のことなのに、鉄平はへらへらしたままなにも言わない。
架純学園の運動部は強豪ばかりだから、周囲からの注目度は高かった。規律が厳しい高校からは自校の生徒に悪影響があるので派手な髪色やピアスなど自粛してほしいと要望が出たこともあるが、学園は方針を変えなかった。校則のゆるい高校は多々あれど、運動部の強豪校でここまで自由度が高い学校は全国的に見てもそうなかった。
他校では圧倒的に坊主頭が多い野球部、柔道部、剣道部だが、架純学園で坊主頭なのは古平鉄平ただひとりだ。美術と音楽は選択授業のため、音楽を選択している鉄平を授業で教えることはなかったが、明里は彼の存在を入学式の式典中に認識した。今時の髪型で溢れる講堂の中で青い坊主頭はひときわ目立っていた。
「笑ってる場合じゃないって」
准斗は、なぜか明里ではなく遠藤へと視線を向けた。
「ほら。タコ先生怒ってるよ」
突然の発言に、明里は思わず隣の遠藤を見た。彼女は特別驚いた様子もない。表情から事の成り行きを見守ろうとしているのが明里にはわかった。
「古平はタコ先生の水着姿を想像して、それがおかしくて笑ってるんです。タコ先生はどう見ても男だって前に言ってたもんな」
鉄平が冷や水を浴びせられたような顔になる。准斗は構わず続ける。
「見た目だけじゃなくて言葉遣いもひどいって」
鉄平は肩を竦め、遠藤を見上げた。瞳の中で困惑と狼狽がせめぎ合っていた。
「すみません! すみません!」
水面に顔を何度も打ちつけ、鉄平は頭を下げる。
「そんな態度とってると、あいつみたいに延々と歩かされるよ」
准斗はひとりの生徒を指さした。同じレーンの反対側に着いた彼は、肉付きのよい手を壁にあて、肩を上下させている。プールにいる生徒の中で唯一運動部に属していないのが彼だった。
三年三組熊谷勇人は、身長百八十センチ体重百キロと身体の大きな生徒だ。
「熊谷は懲罰でここにいるわけじゃない」
遠藤が言う。即座に反応したのは准斗だ。
「知ってます。体育の授業を受けない代わりでしょ。でもタコ先生、ずるくない? なんで熊谷だけ特別メニューなの?」
「特別メニューに興味があるなら、わたしが付きっきりで指導してやるぞ」
「遠慮しときまーす」
明里は遠藤から理由を聞いていた。
特定の種目を腹痛などの理由をつけて休む勇人に、遠藤は欠席を許す代わりに放課後水中歩行することを提案したそうだ。
今の体育は短距離走とハードル走らしいから、彼は走るのが苦手なのかもしれない。走っている姿を大勢に見られたくないという可能性もある。
熊谷勇人がいじめられているという事実は把握していない。明里が半月教科担任としてそばで見てきた彼の印象は、時々天然な発言をする「いじられキャラ」だった。
明里が危険だと考えるのは「本人が嫌がるいじり」すなわちいじめだが、勇人の場合はそうではない。だから、たとえ彼の欠席理由が「走っている姿をクラスメイトに見られたくない」だとしても、そこに周囲からの悪意はないのだ。
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