満天の星の下、クリーム色のキッチンカーが走っていた。

 灯りのない山道は、夜空よりも暗い。その闇を押しのけて走る姿は、ほうき星のようでもあった。

「なあ、茶々丸。ヒトの家をしばらく見てないぜ。こっちで大丈夫か?」

 キッチンカーの助手席で、心配そうに車窓の風景を見ているものがいる。

 だが、運転席でハンドルを握る、茶々丸と呼ばれた存在に迷いはなかった。

「大丈夫だ、コムギ。ヒトのにおいがするから」

「しないって。緑と土のにおいだけ。あとは、ゴムのにおい!」

 コムギと呼ばれた存在は、助手席の窓を開けて鼻をひくつかせた。そんな彼に、茶々丸は言う。

「ゴムのにおいはタイヤのにおいだ。車が通った跡に違いない。道路の先にはヒトの住処があるはずだから、ヒトはいるだろう」

「そっか! それなら安心だ!」

「だから、窓は閉めてくれ。落ちたら大変だ」

 茶々丸に言われ、コムギは窓を閉めようとする。

 だがその時、目の前の光景にハッとした。

「茶々丸! お星さまの畑だ!」

 進行方向の遥か先に、キラキラと輝く無数の光の粒が見えたのだ。

 どれも大きさはまちまちだが、夜空の星々に負けじと光っている。その輝きは、宝石のようでもあった。

 茶々丸は言う。

「それはお星さまじゃない。ヒトの住処の灯りだ。街が近いんだ」

「やったー、ヒトだ! いっぱい遊びたい!」

「俺たちは仕事をするんだって」

 でも、まあいいか。

 茶々丸は、はしゃぐコムギの隣でそう呟いた。

 

 満天の星の下、クリーム色のキッチンカーが走っている。

 悩める人のところへ、焼きたてのパンを届けるために。

 

 

第一話 シナモンロールでひとやすみ

 

 新入社員の真琴は、ブラインドのすき間から見える空に絶望した。

 日がすっかり沈んで、終業時間はとうに過ぎている。

 都会のビルのすき間から見える空は、真っ暗だ。つい先ほどまで、夕日に染まってオレンジ色になっていると思ったのに。

 ずらりと並んだデスクに残っている社員はまばらだ。既に誰もいない部署がほとんどである。

「お疲れー。ようやく終わったね」

 先輩社員が労いの声をかけてくれる。笑顔だが、疲労がうっすらと滲んでいた。

 真琴は申し訳なさのあまり、頭を下げる。

「すいません、付き合ってもらっちゃって……」

「いやいや。自部署の仕事はみんなでやらないとね。気にしないで」

「でも、こんな時間までかかったのは、私のミスがあったからであって……」

「気にしない。あなたは新人でしょ。上手くいかないのは当たり前。私だって、新人の頃は先輩に助けてもらったんだから」

「ううう……」

 気にしない、を二回言われたら、これ以上なにも言えない。

 真琴にできるのは、感謝の意を表すことくらいだ。

「有り難うございます……」

「はいよ。今日は早く帰って、しっかり寝て。また明日も宜しくね」

 お先に、と先輩はパソコンの電源を落として席を立ち、タイムカードを押しに行く。

 先輩が立ち去るまで、真琴は顔を上げられなかった。もはや、合わせる顔がないと言っても過言ではない。

 先輩の足音が遠くなり、オフィスを出たのを確認すると、真琴は大きな溜息を吐いた。

 残業をしたのは、今日が初めてではない。

 ここのところ、ずっとだ。

 しかも、いずれも無理難題を押し付けられたわけではなく、真琴のミスが原因だ。

 あらゆる工程で毎日違うミスをしてしまい、そのたびに、先輩や上司にリカバリーをさせていた。

「どうして、こんなにダメなやつなんだろう……」

 真琴は、先輩から教えてもらったことをメモ帳に書き記す。

 メモ帳は、先輩や上司から教わったことでいっぱいになっていた。入社して半年ほどなのに、何年も使っているような風格を醸し出している。

「気にしないのが一番だ」

 少し離れたデスクから声がする。

 ハッとして振り返ると、ずっとパソコンを操作していた上司が顔を上げて真琴を見つめていた。

「新人なんてそんなもんだ。君は少しずつ仕事を覚えればいい」

「でも……」

「今日はもう遅いし、帰りなさい。お腹もすいただろう?」

「……はい」

 真琴はなにも言い返せずに、項垂れるように頷いた。

 帰り支度をし、パソコンの電源を落とし、タイムカードを押して、とぼとぼとオフィスを去る。

 エレベーターはすぐに来た。

 ビルの中で、遅くまで残っているものが少ないからだ。ランチタイムにはなかなか来ないというのに。

「はぁ……」

 誰もいないエレベーターのカゴの中で、真琴は溜息を吐く。LED電球がこうこうとカゴの中を照らし、真琴の影を色濃く落としていた。

 ビルを出ると、ひんやりとした風が吹きつける。

 ふと会社のほうを振り返ると、ちょうど、真琴の部署の照明が消されたところだった。

 上司が帰るのだろう。

 上司は自分の仕事をしていたのではなく、真琴が帰るのを待っていたのかもしれない。

 そう思うと、更に申し訳なさがこみあげてきた。

 真琴は逃げるように、ビルの前から立ち去る。上司と鉢合わせをしたら気まずすぎるからだ。

 上司の進路に入らないように、少し遠回りをしよう。真琴はそう思い、オフィス街をさまよう。

 高いビルがずらりと並び、夜空は遥か遠くに見える。

 空は暗く、星の一つも見えない。地上が明るすぎるのだ。

 連なる高層ビルには無数の窓があり、明かりがついていないものもあれば、ついているものもある。

 明かりがついているところは、真琴のように残業をしているのだろうか。それとも、元々そういうシフトなのだろうか。

 真琴には、知る由もない。

「気にしないって言われても、気にするよぉ……」

 真琴は、今日一日のことを振り返って反省する。

 もっと、こうしたほうが良かった。ああしたほうが良かった。反省点はいくらでもある。

 明日は今日よりマシになるだろうか。マシになってほしい。

 でも、昨日も一昨日も、その前も、同じようなことを祈っていたのだが、別のミスをして残業を繰り返していた。

 真琴は、更に記憶を遡る。

 仕事を任された当初は、自分なりに考えて行動しようと意気込んでいた。

 しかし、そのせいで大きなミスをしてしまった。

 ひどいものだった。先輩数人と上司が連携し、ようやくリカバリーできた。

 難しい仕事を任せてすまない、と上司に謝られたが、上司は真琴を信じて任せてくれたのだ。

 期待に添えなかった真琴は、心底落ち込んだ。

 新人だというのに、自分なりに考えて行動したのがいけなかったんだ。自分で考えず、考えることは先輩や上司に任せたほうがいい。

 そう思って、自分はロボットだと言い聞かせた。余計なことは一切せず、与えられた仕事を確実にこなすべきだと思った。

 しかし、真琴は再びミスをした。

 ほんの少しの注意力。それが欠けてしまったがために起きたものだ。

 悪いことに、真琴のミスはドミノ倒しのように連鎖することがあり、リカバリーに時間がかかることが多い。

 その原因を、真琴は知っていた。

「私ができないやつだから……」

 学生時代はそこそこの成績を取り、人並みに努力をして、それなりの企業に就職した。

 そこで、そこそこの働きができると思っていた。まあまあ社会に貢献し、ほどほどの社会人になれると思ったのに。

 真琴は再び空を見上げる。相変わらず、狭くて暗い空が広がっているだけだ。

 真琴の実家があるのは、地方都市の住宅街だった。

 高い建物は少なく、空は広かった。

 満天の星とはいかないが、一等星はよく見えたし、いくつかの星座をなぞることができた。

 昼は太陽が自分たちを見守ってくれていて、夜は星々が見守ってくれていた。

 だから、夜は寂しくなかったし、怖くなかった。

 でも、都会の夜空は寂しいし、なんだか怖い。

 自分を見守ってくれていた星々は、自分を見放してしまったかのようだ。

「帰りたくないなぁ……」

 寂しい。

 残業の罪悪感とは別の感情が、真琴を支配する。

 実家から会社に通うのが難しいので、会社からさほど離れていない駅の近くにある単身者向けマンションの一室を借りていた。

 単身者向けなので、ほとんどの時間はマンション全体がしんと静まり返っていた。真琴のように夜遅い人も多いし、夜に働いている人も少なくなかった。

 遅くに帰ると、真っ暗な窓が目立つマンションが真琴を迎える。

 それが、余計に気分を滅入らせていた。

 実家があるのはファミリー向けの住宅が多い街だったので、夜になると多くの家が一家団欒で賑わっていた。

 ダイニングキッチンと思しき窓から光が溢れ、子どもの賑やかな声が聞こえる家もあった。換気扇からは美味しそうな夕食の香りが漂ってきて、真琴は空腹を感じながら実家に帰ったものである。

 ぐぅぅ、と真琴のお腹が鳴った。

 ハッと我に返ってお腹を押さえるが、周りに人はいない。

 今自分がいるのは、人の営みを感じられる実家近くの住宅街ではない。ひんやりとしたコンクリートジャングルのど真ん中だ。

 帰りたくないけど、帰らなくては。

 明日も仕事があるし、お腹もすいた。

 幸いにも、マンションの近くにはスーパーがある。今の時間なら、お弁当に値引きシールが貼られているはずだ。

「でも、作り置いてから時間が経ってるんだよなぁ……」

 作られて久しく、冷めた値引きのお弁当を食べ続けること数日。

 スーパーのお弁当自体は美味しいし、栄養バランスが取れているものもある。だが、問題はそこではない。

 真琴はそろそろ、できたてのご飯を食べたかった。

 自炊をするには、気力も時間もない。外食をするのは贅沢すぎる。

 どうすべきか。

 ぐるぐると悩んでいる真琴の前を、ふと、通り過ぎるものがいた。

「パンだ!」

 真琴は目を疑った。

 ふかふかのコッペパンが、目の前を歩いていたのだ。

 いや、あれはちぎりパンだろうか。クリームパンかもしれない。

 ほどよい小麦色と柔らかさを保ち、今にも芳しい香りが漂ってきそうな大きなパンである。

 そう、そのパンはとにかく大きかった。

 枕くらいの大きさだ。大口を開けて頬張ってしまおうか。それとも、ちぎりながら少しずつ食べようか。

 なんなら、顔を埋めてしまいたいくらいだ。ふかふかのパンだし、きっと気持ちいいに違いない。

 真琴は一瞬で、そんなことを夢想した。

 しかし、すぐに正気に戻る。

 大きなパンが歩くはずがない!

 空腹と疲労のせいで、幻でも見ているのだろうか。我が目を疑う真琴の前で、大きなパンがふと立ち止まった。

 パンは揺れながら振り返る。

 いや、それはパンではない。目と鼻と口がある、犬だ。

「コーギーだ!」

 パンのようなおしりを持つ犬、コーギーである。

 しかし、飼い主の姿はない。というか、首輪もしていない。

「もしかして、迷い犬……?」

 散歩中に首輪がすっぽ抜けてしまったのだろうか。だが、飼い主が追いかけてくる様子もない。

 野犬ではないだろうか。

 そんな予感が過る。

 父の子どもの頃は、そこら中に野犬が闊歩していて、子どもは野犬に襲われないように木登りを練習していたという。

 真琴は野犬なんて見たことがないが、噛まれると大変なことになるらしい。

「ほ、保健所……」

 真琴はスマートフォンを取り出そうと思うものの、身動きが取れなかった。

 振り返ったコーギーが、黒目がちな瞳でこちらを見つめていたからだ。

 その目には知性があり、とても噛みついてくるようには見えない。むしろ、こちらになにかを訴えているような目だ。

 その可愛さは、あまりにも抗い難い。触れてみたいと真琴は思った。

「どうしたの……? 飼い主とはぐれたの……? それとも、撫でてほしいの?」

 真琴がふらふらと歩み寄ると、コーギーはダッと走り出した。

 

『プラネタリウムベーカリー』は全3回で連日公開予定