壊れたミシンと創造的人生の持ち時間

 

 どうしてこうも、切羽詰まっている時に限ってトラブルが起きるのだろう。今年最初の大きなイベント、日本でのポップアップ開催を控え、休日返上でスタッフ一同稼働する中、スタジオのミシンが故障した。しかも三台、ほぼ同時に。ここ数ヶ月何も起きなかったのに、敢えてこのタイミングを狙ってくるなんてひどい、なんて一体誰を恨んでいるのかわからないが、ぶつぶつ言いながら私は携帯の連絡先からウィルソンの名前を検索する。ウィルソンは腕利きのミシン修理士だが、いかんせん人気でなかなか捉まらない。去年何度か故障があった時に連絡をした際には、「わかった、あとで行くよ」と何度かやり取りをしたものの、結局一度も来てくれなかった。もう一人のミシン修理士トーマスは電話をかければすぐに来てくれるが、いつも朝だろうと昼だろうとお酒の匂いをプンプンさせており、また、敢えてきっちり直さないことですぐに修理に戻ってきてお金を稼ごうとする傾向があるため、最終手段としてしか呼びたくないのである。

 

 頼むよ、と心中願いながらウィルソンに電話をかける。しばらくコール音が続いた後、ハロー、と気だるそうな声が応える。いっときも無駄にできない緊急の事態なのだと説明すると、四十五分で来るという。ということは、大体一時間半か二時間というところか。明日、などと言われると思っていたから結構ついている。それにこうやって具体的に時間を出す時は、大体60%の確率で来てくれる。お願いだから来てね、来てくれないとまじで詰むからと大袈裟に念を押し、私は電話を切った。

 

 ポップアップ用の製作を進めながら、シニアスタッフとの夏の新作サンプル作りも佳境を迎えている。今年の夏の新作は四点。新作のデザインを描いている時は、何日かかっても一つもしっくりこなくて投げ出したくなる時もあれば、溢れるように次から次へと思い浮かぶ時もある。今回の場合は後者で、他にも作りたいデザインがあと二つほどあったが、現実的な時間を考慮して四つで収めた。服を作り始めてじきに九年目になるが、正直その体感はない。作りたいものを一つずつ作っていたらただ時間が過ぎていた。かつて敬愛する宮崎駿監督が「創造的人生の持ち時間は十年」と言っていたが、その賞味期限を間も無く迎えようとする今も、終わりが近づいている感じはしない。作りたいものがこうして止まらないうちはひたすら服を作り続けるのだろうと思うと、少し不思議な気持ちにもなる。ろくに齧ってもこなかったファッションを生業にしているという事実に、私は未だにどこかでピンときていない。

 

 パターンを引く作業を昨年からデジタルに移行し、CADというコンピュータ上で製図を行うソフトウェアを使用している。それまでの七年間、ずっと手書きでパターンを引き続けてきた私にとって、この決断は革命的だった。例えば一デザインにつき大体三サイズ展開で制作するため、サンプルの製作が完了してからそれぞれのサイズのパターンを書くとなると、大体一週間はかかる。ところがデジタルならそれが一日で完了してしまうのだ。おまけに私よりも正確に線を引くし、後から部分修正が生じても、ものの数時間で直せる。手書きだと一から引き直しで数日はかかり、精神的にも体力的にもかなりやられていたので、もっと早くに転換しておけばよかったと後悔するぐらいだが、七年間独学で地道に引き続けた経験があるからこそCADもすんなりと使えているのだろうから、やっぱりものづくりにおいて近道はあまり意味をなさないのかもしれない。

 

 CADを使用するようになった決定的な理由は、二年前にカナダで開催されたバンクーバー・ファッション・ウィークへの出展がきっかけだった。いつかはファッションウィークから声が掛かるようなブランドになりたいという野望を確かに抱えてはいたものの、いざ声を掛けてもらうと、私なんかにできるのだろうかという不安に苛まされた。挑戦しなければ成長できないこともわかっていながら、ここで失敗すればブランドの名前に傷がつくかもしれない。そう思って一度は見送ったものを、その翌年にやっぱり挑戦することを選んだのは、決して覚悟が決まったからではない。準備万全なんて一生来ないやと気づいた時、これは時期の話ではなく、やるかやらないかの話なのだと悟ったのだ。やってみることでしか、やれるかどうかもわからない。ならばやるしかない、という理論であった。

 

 ファッションショーで掲げた目標は十四ルック。十四のデザインを作るだけ、とはならないもので、ジャンプスーツやワンピースでない限り、ひとつのルックには大抵トップスとボトムスがある。つまり最大で二十八デザイン。毎年季節ごとに新作を発表してきたとはいえ、最大でも一シーズンで四デザインしか出したことのない私が、その七倍近くのデザインを作るというのは狂気の沙汰だった。それでも半年前ぐらいから取り組めばなんとかなるだろうと呑気に構えていたら、ブランドの通常業務である新作制作やコレクション発売に慌ただしくしているうちに、ファッションウィークは四週間後に迫っていた。その時点で、一デザインも完成していなかった。

 

 そこからの四週間は、文字通り寝る間も削って死に物狂いで手を動かした。プレッシャーとストレスと寝不足のトリプルパンチで精神に異常をきたし、キレたり苛々しながら、それでもレッドブルを毎日飲んでは泣きながらパターンを書いた。なんでこんなしんどいことをしなくちゃいけないんだろうと、一人夜のスタジオで号泣しながらでも、私は今誰にも強制されていないのだということを思い出すと、一層涙が零れた。何度も消えたいと思ったが、出場を辞退すれば一生後悔することは明白で、そのことの方が私にとっては死ぬほど耐えられなかった。何をどうやったのかあまり記憶がないが、空港に向かう二時間前まで最後のパッチワークを縫っていたことだけは記憶している。結局十四ルックは諦め、十ルック二十一デザインをなんとか間に合わせショーを終えると、メキシコ版やイタリア版のヴォーグのウェブサイトに取り上げられたりしたのだから、表向きには成功したのかもしれない。でも当の私は蛻の殻になってしまい、しばらく何も手につかなかった。このまま服作りのことがもう嫌になって、作る気力も情熱も戻って来ず、そうなったら私はどうするのだろうと、その後しばらくの休暇をとったカナダのシーシェルトという半島の小さな町で、焚き火を眺めながら思った。

 

 ケニアに戻ってきて日常に身を置いてみると、意外にも服作りへの拒否反応は起きなかった。むしろぼんやりと、次に別のファッションウィークに出る時までには、このパターン地獄をなんとかしなければなどと、いたって冷静に向き合っていた。そしてこの時に誓ったのだ。もう、手書きでパターンを引くのはやめにしようと。今の私にとって、それは技術の問題ではなく時間の有用性の問題だった。制作以外にも経営のタスクも常に山積みだし、母親業務を棚に上げ続ける罪悪感にいつまで耐えられるかもわからない。上げられる効率は上げるべきなのだ。そうやって私は回復の時間を利用して、CADの勉強を始めた。

 

 CADで制作したパターンを印刷してカットし、それを元にサンプルの製作が始まる。新作サンプルはいつも必ずベスが担当する。会社を作って一番初めに雇った社員が彼女で、我が社に勤務して六年目になる。今でこそ多くの職人さんたちがこの会社で働いてくれているが、最初の二年間はベスと二人きりで制作を行っていた。面白いもので、ベスは採用するつもりもなかった候補者だった。経験も少なく、縫製工場でラインワークとして真っ直ぐ縫うタスクしかしたことのない彼女を是が非でも雇いたい理由はなく、ただ、採用した他の経験豊富な候補者が音信不通になったため、仕方なく来てもらったのだった。まるで笑顔を見せないベスを見て、「この人とは絶対に無理だろうな」と思ったが、いざ始めてみると驚くほどに飲み込みが早い。「ここはこういう理由でこうなっている」と説明すると、無言でふんふんと頷き、しばらく格闘した後には、説明した通りに縫ってみせるのだった。

 

 今思えば、ベスだから上手くいったのだろうとも思う。ベテラン数十年選手、のような経験値がなかったからこそ、私の細かいデザインやそれにまつわる指示を、スポンジのように吸収してくれた。昨年末に解雇せざるを得なかった経歴二十年の社員はいつも、俺はこう縫いたくない、これは作りたくないのオンパレードで、スタジオ全体の空気も殺伐としてしまい、これ以上手に負えないと判断した末の、起業して以来はじめての解雇だった。

 

 今でもベスはあまり笑わないが、リーダーとして他の職人たちの面倒をしっかり見てくれ、ディテールへの細かな心配りを私の不在時にもしっかり監督してくれている。ファッションウィークやポップアップと、私が国外に長期で行けるようになったのも、彼女の存在が大きい。

 

 新作のパターンをベスに渡し、デザインや縫い方のポイントを説明する。最初のラフサンプルはきちんと縫うことを目的とせず、基本縫いっぱなしで布端の処理などをせず、シルエットを確認するためのサンプルだ。ボディに着せたり、スタッフや私が着用したりして、細かな確認をする。足捌き、腕の上げ下げ、露出の具合、襟の形に袖やスカートのボリューム等々。ここで細かな数字を叩き出して微調整を重ねて数サンプルを作る。納得のいく形になったところでパターンを刷り直し、本番サンプルを制作する。このサンプルはタグなども正しい位置に縫い付け、実際の販売する商品と全く同じとなるサンプルだ。これらを使用してモデル撮影を行い、そうやって初めて、ひとつのデザインが世に送り出される。

 

 ベスと彼女のデスクで細かな確認をしていたら、ウィルソンが到着した。電話から一時間半。正直こんなに早く来てくれると思わなかったし、というよりも来てくれると思わなかった。ウィルソンは実は、昨年解雇した社員の紹介でお願いするようになったという経緯があり、来ない理由はそういうことなのだろうかと、心のどこかで落胆していたのだ。嬉しさに皮肉を込めて、「ウィルソン、私のこと誰だか覚えてる?」と話しかけると、はははと笑い始め、ああもちろん、と答えるウィルソン。最後に来てくれたのはもう半年ほど前のことだろうか。でもこれで一安心だ。当分マシンが故障することもないし、まだトーマスに頼らなくても良さそうだ。

 

 メンテナンスが必要なマシンも加えると、全部で八台の点検。数時間はかかる作業になるだろう。真剣な眼差しでミシンを分解していくウィルソンの傍で、皆それぞれの作業を続けている。あるスタッフは裁断し、別のスタッフはひたすら縫い、そのまた別のスタッフはボタン付けをしている。そんな彼らの横で、黙々とパターンを切る私。かつてはこの全てを自分一人でやっていた。まずは自宅の床を拭き、A4のコピー用紙をマスキングテープで繋げた大きな紙を敷いて、地べたに這いつくばってパターンを引く。同じようにして裁断したら、あとは黙々と縫うだけ。一つの服を作るのに何日もかかっていたあの頃に、さすがに戻りたい気も戻れる気もしないが、気持ち的には、あの頃となんら変わっていない。好きなデザインを考えて形にして、誰かに届けと願う。それの、繰り返し。年月という数字にしてみれば「よくもこんなに」と思えど、それはただ、好きだという気持ちが途絶えなかったという結果論にすぎない。

 

 修理を終えたウィルソンに今日のお代を尋ねる。元々約束していた一台あたりの値段に八を掛けた金額よりも、微妙に多い。内訳を尋ねると、ちゃっかり上乗せをしている。「いやぁ、それは話が違うじゃない」と茶化しながら言うと、ウィルソンも笑いながら、じゃあそれでいいよと言い、予定通りの金額を払うことで合意する。ウィルソンを紹介してもらう前までお願いしていた修理士のデイビッドがオーバーチャージした時に、「どういうつもりなの?」と詰めたら音信不通になったことを思い出す。

 

 私の創造的人生の持ち時間は、来年満期を迎える。十数年前、日本を出発する直前にこの言葉に出会い、何を創りたいのかすらわからぬまま、やるしかないと感化されたものだが、宮崎駿監督は結局、その後に「魔女の宅急便」も「もののけ姫」も世に送り出している。この十年を、力を尽くして生きたと言えたなら、その後もものづくりの炎は燃え続けるのだと、信じてみてもいいだろうか。あるいはもしかしたら、今まさにその十年が始まったばかり、なのだとしたら。

 

 兎にも角にも、新作を完成させなければならない。相変わらず時間との戦いである。でも楽しい。それに楽しいだけではなく、楽しみに待ってくれている人がいる。小さく気合いを入れ直し、次のパターンに手を伸ばす。