違う物語の同じ登場人物
「あの頃の下北沢の永遠に続くかのような時間は、今というこの場所につながっているのだろうか。
こうやって豊に手紙を書いていることも、同じ物語のワンシーンなのだろうか。」
ミュージシャンの甲本ヒロトが、俳優の松重豊に送った手紙の言葉。十代の頃同い年のバイト仲間で、それから四十年以上、お互いが夢を追いかける姿を見守ってきたという二人。ネットに落ちていたらしいこの言葉を唐突に送りつけてきたのは、学生時代の友人、ケイコだった。
もう二十年近く会っていなかったケイコと再会したのは、つい半年ほど前のことだ。はじめて夫と息子を置いて一人で日本に一時帰国することになり、会いたい人に会うには今回しかないと思った時、ケイコの顔が真っ先に思い浮かんだ。この二十年、ろくに会話もメッセージのやり取りもなかったが、なんとなく、お互いがお互いの中のどこかに居座り続けていた感覚だけはずっとあった。SNSを更新しないケイコがどんな人生を送っているのかを、私はまるで知らない。ケイコは一体、どんな大人になっているのだろう。はやる気持ちで、予定の三十分以上前に私は待ち合わせの場所に到着した。西武池袋線の江古田駅で会おうと提案したのは、私だった。
日大芸術学部に通っていた頃、私は音楽学科の学生で、ケイコは演劇学科の学生だった。どうやって知り合ったのかはよく思い出せない。ただ私は学生生活の後半ほとんどを、音楽学科の友人たちよりも演劇や映画など他学科の友人たちと過ごした。だってその方が面白いから、ということにしていたが、今思えば、音楽に居場所を見つけられない劣等感を昇華する別の方法を、私なりに模索していたからかもしれない。何者かになりたくて堪らない若者の溜まり場みたいなあの場所で、私たちの誰もが、自分こそはと夢見ていた。
ケイコと言えば、透き通るような真っ白い肌と、真っ黒な髪の毛を目の上でぱっつり揃えたおかっぱボブがトレードマークで、よく煙草を吸っていた。たばこ屋の娘に生まれた私は煙草が死ぬほど嫌いだったが、ケイコのほっそりとした人差し指と中指で挟まれたそれは、私の嫌いな煙草とはまるで別物のようで、吐かれる煙すら苦ではなかった。
日芸の校舎のある江古田は他にも二つの大学がある学生街で、安価な定食屋や居酒屋がたくさんあり、どこも学生たちで賑わっていた。私とケイコは「をしどり」という大衆割烹によく通った。もつ煮込み定食や鯖の味噌煮定食でお腹を満たしたら、ビールや酎ハイのジョッキを片手に、岩井俊二の映画がどうだとか浅野いにおの漫画がああだとか議論しながら、「どうやってこの世の中に爪痕を残すか」という野望を、私たちは延々ともっともらしく語り合った。
ケイコの夢は、コピーライターになることだった。言葉は私にとっても幼い頃からずっと拘ってきたことで、だからこそ、私たちは意気投合したのかもしれない。当時専ら話題に挙げていたのは、巷を賑わせていた写真家の蜷川実花とコピーライターの尾形真理子がタッグを組んだルミネのキャンペーンだ。
「雨が嫌いだった頃、わたしはまだ、誰のことも、好きじゃなかった。」
「恋が実るたび、もう何も欲しくないと思うけど。」
言葉とその余白がもたらす余韻に私たちはすっかり魅了され、数々の伝説のキャッチコピーや著名人の名言をつまみに、その奥深さについて飽きることなく話した。
音楽家を志し上京した私だが、三年生の時点で既にレコード会社から内定を貰い進路は決まっていた。それまでの三年間、学費や生活費を払うために家庭教師や居酒屋のバイトを掛け持ちし、授業以外の時間をほとんどアルバイトに費やしてきたが、大学最後の一年くらい、せめて思う存分クリエイティブに専念できないものかと考えあぐねていた。他学科の友人たちと仲良くなればなるほど、いつもバイトばかりで皆のように創る時間を持てない自分に、嫌気が差す一方だった。
ある時思い立ったように早稲田駅に降り立った私は、適当に目についた学生ローンの看板を掲げるビルに入り、借金をした。卒業したら大手に入社するんだしと言い聞かせ、手にした百万近くを学費に充ててバイトを大幅に減らし、私は四年生の時、ようやく少しの自由を手に入れた。
文芸学科の雑誌制作の授業を聴講し始めたのは、ちょうどその頃のことだ。言葉にもデザインにも興味があったし、当時はフリーペーパー文化最盛期。ケイコと、当時付き合い始めたばかりの写真学科のケンジくんに、日芸生のための雑誌を作らないかと私は持ちかけた。早速それぞれの名刺を作り、広告を載せてくれそうな江古田のお店を訪ねて回った。ケンジくんが撮影を担当し、ケイコと私が文章やインタビューを担った。
そうして私たちは学生生活最後の夏、日芸生による日芸生のためのフリーマガジン「NUAnce(ニュアンス)」を創刊した。全八学科の気になる学生に声をかけ、プロフィールと簡単なインタビューを掲載したコーナーには、今や若手映画監督の筆頭として名を馳せる藤井道人くんも登場している。第一線で活躍する卒業生のインタビューの他、現役生による書き下ろし小説や漫画、詩、写真など、総合芸大の良さを詰め込んだ充実の創刊号を、私たちは校内外で配布してまわった。演劇学科長の教授に、「近年見た中で最も出来のいいマガジン」と褒められるほど好評を博したが、その後、NUAnceの次号が発行されることはなかった。
続けなかった理由ははっきりしていない。貧乏学生ではあったが、予算や時間といった言い訳でもなく、私は二人と特に話し合いも持たず、続けることを選ばなかった。今となってみれば結局、端から続ける覚悟で始めたのではなかったのだろうと思う。とにかく何かを生み出したくて、もがいた結果の創造物。どんなに評判が良くても、それだけで何か事態が変わるわけでもなく、「それでも」とやり続ける情熱はなかった。私の人生にはそんな、一作限りの力作が少なくない。
「ごめん、仕事が押してて遅れるわ」
そう言ってケイコは、待ち合わせの時間より三十分ほど遅れてやってきた。相変わらず透き通るほど肌が真っ白で、トレードマークのおかっぱボブもそのままだったが、真っ黒な髪の所々にブリーチのハイライトが入っている。淡いパープルのオーバーサイズ気味のカーディガンとジーンズに、リュックを背負った出で立ちのケイコは、どう見ても会社員には見えなかった。そういえば私は、ケイコが何の仕事をしているかさえも知らないのだ。よく知っているはずの、まるで知らない誰かとの再会。昨日振りのよう、とは決してならない少しのぎこちなさが、流れた時間の長さを物語っていた。
元気にしてた? と軽い挨拶を交わして、私たちは様変わりした江古田の街を少し歩く。あの頃まだ工事中だった校舎は立派に完成し、よく知っている場所によく知らない顔で鎮座していた。行きつけだった「をしどり」はとうになくなっていて、せめて跡地にできている店にでも入ろうと思ったのだが、それがどこだったのかすら見つけ出すことができない。仕方ないと適当に選んだ店に入り、私たちはカウンター席に座った。着席と同時に、ケイコは煙草の箱とライターをテーブルに置く。
ケイコには、小学生になる息子がいた。それからケイコは、有名お笑い芸人の冠番組を手がけるテレビディレクターになっていた。見せてよ、と見せてもらった番組のエンドロールには、確かにケイコのフルネームが流れた。「おおー」と盛り上がっていたら、注文していたハムカツが運ばれてくる。懐かしいねぇ、と言いながら、私たちは何年か振りに江古田の地で、あの頃の大好物だったハムカツを食べる。安っぽいハムの食感と衣の脂っこさに、甘ったるいタレが絡まって口に広がる。
ケイコがどうしてコピーライターにならずにディレクターになったのかを、知る必要はない気がした。ケイコもまた、私がなぜもう音楽をやっていなくて服を作ったり文章を書いたりしているのかを、尋ねなかった。同じように、私が結婚を機にイスラム教に改宗し、本当はもう豚肉を食べないこともいちいち説明しなくていい気がしたし、ケイコが離婚するかもしれないと言ったことの理由も、私は深く掘り下げなかった。今日、この場に出席するのは、私たちだけで十分だった。知っている私たちと知らない私たちの間に漂う曖昧な空気を、言葉に当てはめてしまいたくなかった。
居酒屋を後にした私たちは、十月の肌寒い夜風の中、ぼんやりと江古田の街を歩き始めた。ケイコには明日の朝から番組会議があったし、私には出版社での打ち合わせがあったけど、私たちのどちらもが「じゃあね」と切り上げる素振りを見せない。四十にもなるいい歳した働く女だし、いつの間にか母という肩書きも背負っている私たちだけど、かつてこの街で、可能性と時間しかない若さを確かに生きていた。その面影をもう一度拾い直したくて、私はケイコとこの街で、再会したかったのだと思う。
タキんち行こうよ、とケイコがおもむろに言って、私たちは当時住んでいたアパートを探すことにした。携帯でGoogleマップを開こうとする私をケイコが制す。「大丈夫。覚えてるって」と言うケイコに、そうかなあと返しながら携帯を閉じ、私はなぜあの当時、ケイコのことが好きだったのかを思い出す。
ケイコの言った通り、私たちは迷うことなくかつての私の住まいにたどり着いた。六棟の小さなアパートは外装の色こそ違えど、郵便受けも窓の形も、あの頃のままだった。就職してしばらくして下北沢に引っ越すまで、長らく住み続けた安賃貸のアパート。この部屋で私たちはあの日、段ボール箱いっぱいに届いたNUAnceの原稿のホッチキス止めをやったのだ。製本までして貰うお金がなかったこと、夜遅くまでデザインや写真の構図についてああでもないこうでもないと話し合ったこと。懐かしい思い出の残像が、次から次へと脳裏に浮かんでは、夜の静けさの中に音もなく消えてゆく。私たちは何も言わずに、ぼんやりとただそこに立ち尽くした。
そのまま、私の家から歩いて数分だったケイコのアパートにも向かう。私はまるで覚えていなかったが、よく通った道だよと颯爽と歩くケイコについていく。ケイコのアパートは、跡形もなく消えていた。跡地には新しくて綺麗なマンションが建っていて、なんだこの立派な建物は!とケイコはケラケラと笑った。
私もケイコも、あの日夢見ていた場所に立つことは、遂に叶わなかった。それでもこの二十年、何者かになろうと必死にもがいてきた。もがいてなお、到達地点なんてものは何処にも見えなくて、今日もただ必死にもがき続ける。そんな今の私たちを見て、あの日の私たちは一体何を想うだろう。
日本から帰国して慌ただしい日常に舞い戻り、一時帰国のことなんてすっかり頭から消え去っていた時に、突然届いたケイコからの連絡。送られてきたリンクに書かれていたその甲本ヒロトの手紙の言葉を、私は何度も反芻する。
「私たちもあそこにいたね。あの日の延長な気がするよ、私もケイコも。」
そう返信するとしばらくして、またケイコからの通知が鳴る。
「あの頃は同じ物語の違う登場人物。今は違う物語の同じ登場人物。
つまり、あの日の延長中。」
ところで、甲本ヒロトの手紙の言葉には続きがある。ケイコが送ってきてくれた後、気になって全文を読んだのだ。それは、こんな風に続く。
「そしてあの時のあの場所がスタートだったとしたら、ゴールはどこなんだろうか。
もしかしたら、あの時僕らはすでに夢を叶えていたんじゃないだろうか。」
あの頃の、江古田の永遠に続くかのような時間は、今というこの場所につながっているのだろうか。
こうやってケイコのことを書いていることも、同じ物語のワンシーンなのだろうか。
あるいはケイコの言う通り、違う物語の同じ季節を今でも、私たちは生きているのだろうか。