モノローグと残響
先日、一時帰国中の東京で、新卒で入社し、日本を発つ直前まで働いていた、レコード会社へ立ち寄った。私が勤務していた頃の青山一丁目から移転した新社屋は、原宿の竹下通りを抜けた先に聳え立つ、オフィスビルの中にある。
見慣れないフロアにおどおどしていたら、すぐに見覚えのある顔ぶれが飛び込む。「あれぇ、何で日本にいるの!?」「タキじゃん! こんなところで何やってんの!?」と、至る所で懐かしい顔に出くわす度に、私は嬉々と小さく飛び上がる。
あれからもう十年以上経つが、こうしてまだ私を覚えてくれている人が沢山いて、頑張ってんなぁ、頑張れよ、と言ってくれることに思わず、涙腺が緩みそうになる。外出の多い業務柄、きっとほとんど会えないと思ったのだが、当時配属されていた邦楽レーベル宣伝部の先輩には、ほぼ全員に会えるという幸運に恵まれた。
インドで頑張れよ、いやアフリカですよ、なんて相変わらずの冗談を交わしながら、昔話や近況話に花が咲く。華があって、活気に満ちていて、笑いが絶えず聞こえてくる。それはかつて、私が心から愛した場所そのままだった。カフェスペースに座って雑談をしながら、ふと壁一面のガラス窓に目をやると、十七階の高さの向こうに、無数のビルの群れを抱く、東京の街が見渡せる。
東京で、日本の中心地で、この国の音楽業界のど真ん中を生きていたあの頃。音楽が生み出される最前線を駆け抜けた日々は、私が自らに選んだ人生最大の救済であり、それと同時に、最大の裏切りでもあった。
音楽が全てだった。大袈裟でもなく、音楽にしか、拠り所がないと思って生きてきた。三歳の頃、母に連れられてピアノ教室に通い始めたのが、私と音楽の馴れ初めだ。レッスンは嫌いだったけれど、ステージに立ち、人前で演奏することは好きだった。年に一度、よそゆきのワンピースを着て発表会に出る度に、両親や祖父母が口を揃えて褒めてくれたのが、何よりも嬉しかった。そこには確かに、「ピアノを弾ける私」という自尊心が、幼いながらにあった。当然、学校には私よりもピアノが上手な子は何人もいたけれど、卒業式や文化祭の合唱での伴奏など、みんなを代表して弾く機会があれば、たとえライバルが親友だろうと、競ってでもその座を手に入れることに執着した。「音楽は私の縄張り」という自意識を塗り重ねては、思春期の承認欲求を満たしてきた。
部活動でも迷うことなく吹奏楽部を選び、コンクールや高校野球の応援、定期演奏会と、練習に明け暮れる十代を過ごした。花形のアルトサックスではなく、バリトンサックスという、サックスの中でも一番大きくて低音の、ベースパートばかりの楽器が私の相棒だった。巨体で沢山の肺活量を要するため、通常、男子や体の大きな女子にあてがわれる楽器だが、メインキャラクターじゃないところも、簡単に演奏できない楽器なところも、ある種の特別感があって気に入っていた。高校二年生の時、県のソロコンテストにバリトンサックスで出場し、他のあらゆる花形楽器の独奏者を抑えて、準優勝した。
絶対に、音楽家になる。根拠のない自信と野望を胸に、私は上京して音大に入学した。
週に一度しか音楽の授業がない高校生活から、毎日音楽の授業しかない音大生への転身は、終わらない夏休みの始まりみたいな高揚感があった。音楽棟の一角には、二畳ほどの広さにアップライトピアノが入った練習室が、向かい合ってズラリと一列に並んでいる。ここでは、音楽を奏でることこそ、日常の光景。同時に、私がピアノを弾けることもサックスを吹けることも、特別なことではなかった。かと言って、ピアニストになりたい訳でも、サックス奏者になりたい訳でもない。私は一体、音楽で何をやりたいのだろう。何が一番、向いているのだろう。自分の立ち位置が見つからない私をよそに、練習室はいつも、ひたすらに練習をする同級生や先輩で溢れていた。
その日はサックスのレッスン日だった。少し遅刻して慌てながら駆け込むと、先生の機嫌は明らかに悪い。恐る恐る、楽譜をなぞるように吹き、同じ箇所を何度かやり直した後に、先生は私を止めた。
「練習、全然してないですよね」
「……すみません。時間がなくて……」
その後も、同じところを何度もやり直す。頭は既に真っ白で、肺から必死に空気を搾り出してもすぐに足りなくなって、浅く息をしては吹き込む、を繰り返す。次第に視界が遠くなり、気づけば私は、過呼吸を引き起こしていた。
結局、サックスのレッスンは一年でやめ、私はもっぱら作詞作曲に没頭していた。練習室でピアノの前に座り、鍵盤の上に指を滑らして、音の行方を探る。メロディーは、相変わらず最後まで続かない。乗せてみた歌詞だって、どこか嘘くさい。防音室特有の密着するような空気の圧が、私の空っぽの感性の輪郭をなぞるようで、惨めだった。
重苦しい無音から逃れようと廊下へ出た途端、他の練習室から漏れてくるピアノや歌声、管楽器や弦楽器の音色が耳に飛び込む。迷うことなく奏でられる、あらゆる調とリズムの音が乱雑に絡み合った不協和音に、息が詰まりそうになる。私は一体、音楽の何に、これほどまでこだわっているのだろう。
私だって、音楽と心中する気で、生きてきたつもりだった。でもきっと私には、音楽に人生を差し出すほどの覚悟は、端からなかった。
大学二年生の秋、まだ誰も始めていない時期に、私は就活を始めた。目標をレコード会社のみに絞り、メジャーレーベルを抱える大手の情報を調べ、ノートにまとめあげた。分厚い就活本を買ってきて、ひたすら自己分析を繰り返し、どんな質問にもレコード会社にとって有望な人材であると思われるよう、模範像を自分に刷り込む。勉強とか資格とか答えのあることに取り組むことは、昔から得意だった。そうして大学三年生の夏の終わりに、私は大手外資系レコード会社の内定を貰った。
音楽雑誌のレギュラーコーナーの取材のため、著名シンガーソングライターと編集長の三人で、毎月一度飲みに行った。有名ヒップホップアーティストのラジオのレギュラー番組に、アシスタントとして度々出演した。大晦日は毎年、紅白歌合戦が放送されるNHKホールで過ごし、その年を象徴するミュージシャンが駆け回る裏側を、彼らと同じ目線で見守った。誰もが知るヒット曲とそのミュージシャンの真横に立つことで、私は音楽との新しい特別を見つけた。
他人から羨ましがられる仕事には、それなりに過酷なことも多かったけれど、空気を読むことも他人の真意を汲むことも得意だったし、何より日々はどこまでも音楽に満ちていた。これこそが、私にふさわしい居場所だったのかもしれない。いつかは、この国で一番売れているミュージシャンの担当になって、世の中を沸かせたい。そんな野心が芽生え始めた、矢先のことだった。三月十一日、忘れもしない、あれは金曜日の午後。その日の夜、私は週末弾丸旅行で、友人とベトナムへ飛ぶはずだった。
東日本大震災の数日後、自宅のベッドでぼんやりと横になっていると、会社から一週間の休業を告げる連絡が届いた。やっぱりそうなるのだ、と心の中で呟く。この未曾有の大惨事に、被災者の不在を前提に音楽を売ろうとすることは、人として間違っているとしか思えなかった。震災直後、いつも通りに開かれた会議で、新曲のメディア露出目標を問われた私は、拭いきれない違和感を覚え、翌日上司の元へ向かい、しばらく有給を取りたい旨を伝えた。お前は弱いなぁ、と少し呆れ気味に笑われながらも許可を貰い、自主的に休暇を取ったのは、全社が休みとなる数日前のことだった。
死が、予告なくやって来るかもしれない。テレビもない部屋で、時々携帯電話をワンセグに繋いでニュースを見ては、来る日も来る日も、そのことばかりを考えていた。もしも明日死ぬのなら、いつか、外国に住んでみたかったな。英語だって喋ってみたかった。死ぬまでに、色んな国を旅して、世界中に友達を作ってみたかった。
でもなぜそれを、私は、選ばないのだろう。選べないのか、いや、選べないわけではない。私は、選ばないことを、選んでいる。じゃあいつか、それを選ぶつもりなのだろうか。いつかって、いつなんだっけ。そもそも私はなんで、レコード会社で働いているんだっけ。
初めて芽生えた生への焦燥感に駆られ、私は、死ぬまでにやりたいことを百個書き出してみることにした。頭に浮かぶ、やってみたいことや行きたい場所をひと通り書き尽くしても、まだ半分以上も埋まらない。次第に思考は、単なる希望から自問自答へと移り、何日もかけて、心のどこかの、感触だけでしかなかった想いをひとつずつ拾い上げ、言葉にして絞り出す。そうして完成したリストには、恥ずかしいくらいに純粋で真っ直ぐな、自らが生み出す人になりたいという願望が、書き連ねられていた。
初めて対峙した自分の心の声を眺めながら、私は一体いつ、この本当にやりたいことを選ぶつもりなのだろうと考えた。クリエイティブに生きてきたつもりだった人生で、本当に何かを創造することも表現することも、私は結局、一度も選んではこなかった。天職だと思っていた音楽の仕事は、築き上げた縄張りを失う覚悟も、そこに人生を賭ける勇気もない私を匿ってくれる、最も安全で安直な選択肢だった。
ある日突然間に合わなくなってしまう前に、本当は生きてみたかった今日を、選ぶしかない。明日死んでもいい、そう思える自分を、生きるために。なんて言えば聞こえがいいけれど、本当は何をどうすればいいのかもわからなくて、ただ、リセットボタンを押してしまいたかった。けれど潔く押せるほどの度胸もなくて、だから私は他の選択肢を、ひとつずつ消していった。初めてローンを組んで買った電子ピアノも、自分の名前がクレジットに入った大量のCDも。自分の全てだと思ってきたものをひとつずつ処分しては、感じるその痛みを担保に、おぼつかない足元を固めていった。その歳で自分探しをするの?とか、もう日本の社会には戻れなくなるよ、と言われれば、正論すぎてたじろぐ日もあった。それでも、人生がたった一度きりなら、過去を当てにしないで、肩書きも取っ払って、私のことなんか誰も知らない世界で、もう一度、正面から自分に向き合ってみたかった。
大好きだった職場に退職届を出し、日本を後にして世界へ旅立った時、私は二十八歳だった。何かを見つけるまでは、帰れない。さもなければ、手放したものの代償が大きすぎる。そう言い聞かせ、振り向くことを拒み続けた結果の、五年間という長旅になった。結局五十近くの国をあてもなく放浪し、何の縁かそのうちの一つに留まることを決め、私はようやく、己の創造したいという願望と、真正面から向き合う方法を見つけた。あれから十二年、試行錯誤を繰り返しながらも、生きたかった方の今日をまだ、私は選び続けている。
日本に戻ってくるたびに、音楽の面影はいつもそこにある。友人知人のほとんどが、私のアイデンティティが音楽だった頃に出会っているのだから、それも当然のことだ。音楽をやり続けている学生時代の友人たち。音楽業界で今もヒット曲に携わっている同期や先輩。あれからずっと、音楽と特別な関係性を築き続けている彼らを、羨ましいと思わないと言ったら、嘘になる。それでも私は、選んだ道を正解にしていくために、自ら創ることにこだわって、きっとこれからも生きていく。
ケニアの自宅には、数年前に中古で買った電子ピアノがある。すっかり物置と化し埃をかぶったそれに、久々に電源を入れ、指の記憶を頼りに、一番好きだった曲を弾いてみる。その昔、きっと何百回、いやもしかしたら千回以上弾いた曲なのに、所々思い出せないし、指がもつれて、全然進まない。指ですら運動不足になるんだよ、と少し可笑しくなる。うかうかしていると、あっという間に歳を重ねていってしまうのだろう。
電源を落とした後も、その旋律が、頭の中で深々と鳴り続けている。あの日の光景や温度、感情をも一緒に引き連れて。それはまるで、残響のように。