名前を生きる

 

 小学校の卒業文集に、自分の名前の由来を親に書いてもらう欄があった。母親に、明日までに書いておいてねと、原稿を渡す。翌日母から返却されたそれを見て、私は赤面し、激しく狼狽した。

 

 我が家では、兄にも私にも、名前の一文字ずつに意味が込められている。私の名前に込められた意味はこうである。「(あ)かるく、(ゆ)めを持って、(み)んなから愛されますように」。なんて素敵な名前の由来、と四十歳の私は微笑むのだが、十二歳の私には、“よくわからないけど甘ったるい何か”、と勘付いていた「愛」という言葉があまりにもこそばゆく、こんな恥ずかしいものをクラスメイトに見られるなんてたまったもんじゃない、と憤慨したのである。「お願いだから書き直して」と泣いてせがむ娘を見た母は、悲しそうな顔で何も言わずに、突き返された原稿を受け取った。不均等に膨れた修正液の厚みに上書きされた、「(み)らいに向かって強く生きていきますように」という嘘の由来は、どこか所在なさげな面持ちで、今でもその文集に刻まれている。

 

 今でこそ中肉中背の中年女性として生きている私であるが、生まれてから三十歳頃まで、私はいわゆるデブだった。食の細い二歳上の兄が食事時、食べきれずにいつまでも食卓に座らせられているのを見た妹の私は、反面教師だと出されたものは何でも食らった。カレーライスにラーメンが並ぶようなメニューでも、たくさん食べれば食べるほど、両親や祖父母に「お前はよく食うなぁ」と褒められて、元気にもりもり食べることは正義だと、すっかり信じてやまなかった。小学生になるまでは。

 

 小学校に入学して、真っ先に私につけられたあだ名は、コニシキ。由来はもちろん、当時大活躍をしていたハワイ出身の相撲取り、小錦である。廊下を歩いていたら、前からやってきた男の子たちが、既にヒビの入っていたタイルを指差し、「おい、タキが歩いて床が割れたぞ!」と笑っているのを見て初めて、私は自分がデブであり、それは恥ずべきことなのだという現実を思い知った。

 

 デブで、奥二重に丸い鼻でケツ顎のブスの私に、可愛いらしいことは無縁だった。次第にスカートよりもズボンを穿くようになり、ピンクよりは青を好んで、女の子たちと遊ぶよりも男の子たちと野球をした。そして何より、こんな自分には、この柔らかい響きの名前がまるで相応しくないと感じていたのだ。みんなから愛されることを願われた「アユミ」という名前が、ただただ居心地悪くて、仕方なかったのである。

 

 そういうわけで、私の友人のほとんどが、今でも私のことを「タキ」と呼ぶ。なんて呼べばいい? と聞かれる度に、タキで、と答えてきたし、よりシャープなその響きの方が、私らしくてかっこいい気がしていた。そうやって私は、自分の人生のほとんどを、愛とか可愛いとかを封印した「タキ」として生きてきた。

 

 そんな私の人生に変化が訪れたのは、二十八歳のことだ。日本を飛び出し、そこから五年間、一度も日本に戻ることなく世界を放浪することになるのだが、行く先々で「What’s your name?〈名前は?〉」と聞かれれば当然、「My name is Ayumi.〈アユミです。〉」と答える。海外では苗字より名前が先に来ることは、中学生の頃に習って知っていたし、正直見知らぬ外国人に「Hey Taki〈やあ、タキ〉」などと言われると、呼び捨てにするなし、と腹が立つ自分もいた。タキの方が好きなくせに、初対面でタキと呼ばれることには抵抗があるという矛盾を抱えながら、でもだから、アユミと呼ばれると、あまりピンと来ずに逆に都合がよかった。知り合う人たちが、アユミ、アユミ、と呼ぶ度に、私はまるで新しい名前を手にしたかのような新鮮味を感じ、ともすれば別人格であるかのような錯覚すら覚えた。

 

 アユミ、と呼ばれることが日常になった頃、私はオーストラリアに滞在していた。旅の資金を貯めようと、ワーキングホリデービザでやってきたそこには、欧州や北米、東アジアからやってきた若者たちが集まっていた。印象的だったのは、私を含めたアジア人は、いわゆるギリホリと呼ばれる、年齢制限の三十歳ギリギリの人たちばかりなのに対し、欧米人はみな、高校や大学を卒業したての二十歳前後と、かなり若い。人生のそんな早い段階に、海外で暮らして働くという選択肢があったとは、考えてもみなかった。私が人生に立ち止まっていたその十年前に、既に自分の人生の可能性を追求している彼らを、心底羨ましく思った。

 

 二段ベッドが所狭しと押し込まれた幾つもの部屋と、共同トイレとシャワー室、それから大きなキッチンと食堂が雑然と連なった安価なホステルで、世界中から集まった若者たちと暮らした。一緒に料理をしてご飯を食べ、仕事終わりや週末には、散々と騒いで飲みまくった。農場での仕事は給料もいいかわりに、過酷な肉体労働や、つまらない単純作業ばかり。唯一の楽しみといえば、町の廃れたパブやダイニングに出かけ、わいわいと酒を交わすことだった。

 

 普段は農作業着にすっぴんの女の子たちが、どこの誰でしたっけ? と目を見開きたくなるようなド派手なメイクで、部屋から繰り出してくる。極めつけは、なんと言ってもその、洋服の露出度。ワーホリに来て驚いたことの一つでもあるが、欧米人は控えめにいって、みんなデカい。言葉を選ばずに言えば、私なんかよりも、結構に太っている。そんな彼女たちが、パツパツのミニスカートを穿き、セルライト全開の二の腕やお腹を堂々と出して、セルフィーを撮りまくっている。まるで、私こそがこの世で一番可愛いのだ、とでも言わんばかりの顔で。それに比べて私である。全身が隠れるマキシ丈のワンピースに、二の腕を隠すためのカーディガン。「アユミ、これから出かけるのに、なんでそんなオバさんみたいな格好をしているの?」と二十歳のイギリス人に絡まれたので、「だって私は太いし」と反射的に答えると、途端に悲鳴のような爆笑が巻き起こった。「What are you talking about? You ARE tiny!!」何言ってるの? あなたはちっさいじゃない! と呆れられ、まるでどこか別の惑星にでもワープした気分である。

 

 確かに私は、彼女たちよりは痩せている。でも、そうだとしても、私はずっと太っているのだ。日本で歴としたデブとして、この方何十年も生きてきた。デブだといじめられ、顔がでかいと笑われ、スカートのチャックが閉まらないことをネタに変えて生きてきたのだ。それなのに、実際問題私は今この瞬間、どちらかというと、痩せている方に分類されている。

 

 連日のそんな光景を眺めながら、私はふと、思い至るのである。立っている場所が変わるだけで、自分への評価はこんなにも変わるのだということに。日本ではコニシキと笑われた私が、一歩外に出た途端、ちっさいくせにと笑われている。誰かの評価なんていつだって相対的で、まるで当てになんかならないのに、なぜ私はこんなにも、自分の価値を他人の評価に頼っているのだろう。私はもしかしたら、デブだから、ブスだからということを理由に、自分を好きになることを、ただサボり続けていたのではないのか。アユミという名前を避けてきたのも、「みんなに愛される」という響きがこそばゆかったのではなく、ただ自分をちゃんと愛することができないことを、直視できなかっただけなのではないのか。

 

 そうやって生まれてはじめて、私は自分がデブだとかブスだとか悲観するのをやめた。絶食したり反動で暴食したりしながら、体重計に乗っては一喜一憂し、「でもこのうち二キロはうんこ」とか屁理屈を並べて躍起になっていた私は、もう体重のことばかり気にするのをやめた。アイプチで目を大きくしたり、洗濯バサミで鼻をつまんで高くすることも、ケツ顎にテープを貼って伸ばすことも、やめた。私は、この鏡に映る私以上でも、以下でもない。私の価値は、見た目だけなんかじゃ、ない。

 

 

 不思議なもので、体型のことを必要以上に気にかけなくなって以来、食べ物に対する執着がなくなり、私の体重は徐々に落ちていった。鏡に写る自分は見違えるほどスッキリしていったが、やった~痩せた~!などと喜ぶこともなかった。人生の懸念事項という円グラフにおいて、幅を利かせていた見た目という項目は、いつのまにか別の何かに占められていたのだ。だから五年振りに日本に帰国した時、友人たちが第一声で口々に、「瘦せたね!?」と言った時、太っていた事実をすっかり忘却していた私は正直、「なんの話だっけ」と一瞬固まった。

 

 

 オーストラリア以降もあちこちと世界を放浪し、気づけばアフリカのケニアに住んで、八年目になる。この間、ありのままの私が好きだと言ってくれたソマリア系アメリカ人の夫と結婚し、息子が生まれ、起業した。日本人の少ないこの国で私は、外国人の家族や社員や友人たちと、日々を過ごしている。誰もがアユミ、アユミ、と私のことを呼び、タキと呼ばれるのはもう、日本の友人たちとLINEで話す時くらい。そんな友人たちは、日本を離れて十年以上になる私なのに、短い一時帰国のタイミングで、忙しい中予定をあけて必ず会ってくれる。タキ、タキちゃん、タッキーと呼ばれる度に、私はあの日の懐かしい自分を連れ戻す。ただ一つだけ違うのは、タキはもう、アユミのことが、嫌いではない。

 

 そうだ。私はアユミなのだ。いつも冗談ばかりを言っているほどに明るく、こんな歳にまでなって夢を持っていて、こうしてみんなから愛されながら、今日も世界のどこかで、私らしく生きている。ノースリーブから生えている私の腕は、確かに誰かみたいに細くはないけれど、だからなんだというのだ。世界中どこを探しても、誰とも何も被っていない、歴史上たった一人のこの私という奇跡こそが、愛しく思えて、仕方ないではないか。

 

 私は、自分の名前を気に入っている。クールな響きの「タキ」も。柔らかくて、大切な意味が込められている「アユミ」も。人は名前のように成る、と昔誰かが言っていたけど、あながち嘘じゃあ、ないらしい。

 

 そう言えば、あのとき喚いて書き直しを迫った母に、謝罪したことはなかったなと思い返す。四歳の息子を見つめながら、ある日この子が、「こんな名前嫌だ!」なんて言い出したら、と思うだけで胸が締め付けられるのだから、さぞ悲しかったに違いない。でももしも息子がそんなことを言い出しても、私はきっと、笑って言い返してやる。「いいのよ今は嫌いでも。いつか、心から好きだと思える日が、くるから」と。

 

 息子の名前の由来はソマリア語で、「知識の探究者」という意味だ。様々な情報に否応なく晒されるこの時代に、流されることなく、自分の目と心で真理を追求していってほしい、という想いを込めた。いつかこの子が私のように、自分の名前を生きる日が来てくれたらと、心から願っている。母が私に、そう願ってくれたように。それから今夜、母に電話してみようと思う。とぼけたふりをして、「ところで私の名前の由来ってなんだっけ」と聞いてみようか。その後しれっと、「素敵な名前をありがとうね」と言えたなら、きっと完璧だ。