マヨネーズ入りのスクランブルエッグ
私には、祖母がいる。一人の人間につき、たいてい四人の祖父母がいる。それで私には、まだ生きている祖母が一人だけいる。母方の祖母だ。他の三人は、まだ私が十代だった頃に亡くなっている。
こんなことを言い出すのには理由がある。私は少し前まで、「私には祖父母はいない」と答えていたのだ。おじいちゃんとおばあちゃんは、みんな死んでしまった。そう、私はその生きている祖母のことを、死んだことにしていた。
祖母に最後に会った日のことは思い出せない。おそらく上京する前のことだから、今から二十年以上前のことだ。もう会わないと決めたからでもない。気づけば会えなくなっていた。いや、会おうと思えば、今でもまだ会える。祖母は私の生まれ育った家に、今もまだ暮らしている。
祖父と祖母、それから父と母と兄の、六人暮らしだった。昔ながらの商売人の家族で、祖母はどこにでもいる普通の祖母だった。母が仕事でいない日には、トーストした食パンに、フライパンの上でマヨネーズと卵を一緒にかき混ぜたスクランブルエッグをのせた、朝ごはんを作ってくれた。ひな祭りには雛人形を並べ、子どもの節句には鯉のぼりを揚げ、七夕には笹に短冊を飾った。十五夜の頃になると、祖母が用意してくれた白玉粉の餅で、私と兄が思い思いの形の団子を作るのがお決まりだ。茹で上がったうさぎやハートの白玉を、祖母の作った甘いお汁粉に入れて食べる。そのうさぎは私が作ったやつ! と兄と取り合いの喧嘩をしたものだ。一階が店舗とリビングルーム、二階と三階が住まいで、屋上とエレベーターがついていたその家は、近所でもよく目立ち、同級生からはタキ御殿と呼ばれていた。
祖父は早くに亡くなった。いつもワンカップとタバコを嗜み、マラソンが好きだった祖父は、肺癌を患った。マラソンは癌の進行を早めるからやめるようにと医者から咎められたが、全く聞く耳を持たず、地元のマラソン大会に出続けるような頑固な人だった。私の頑固さは、祖父から譲り受けたものだと母はよく言う。医者の忠告通り癌は進行し、祖父は六十七歳でこの世を去った。
五人暮らしになっても、何も変わらないように思えた。でも実際は私と兄の知らないところで、私たちの家は静かに軋み始めていた。祖父母の営む酒屋とたばこ屋を家業としていたが、スーパーやコンビニの台頭で、たちまち商売は立ち行かなくなっていった。三姉妹の三女の婿養子としてやってきた父は、公務員の仕事をやめさせられ、酒屋の仕事を手伝い始めた。いつの間にか父は早朝に起き、仕事前にスーパーの品出しのパートへ行くようになった。気づいた時には、交通整理の安全ベストとヘルメットを片手に、夜中に帰ってくるようになった。父は朝から晩まで働き、母もまた、祖母に言われて始めた化粧品店で、朝から晩まで働いていた。兄が大学に進学し家を出た頃には、夕食時に人の気配がなくなった。静まり返った家には、時々遠くで祖母がトイレに行く音がして、夜中には仕事帰りの父と母の物音が壁越しに聞こえた。何かがおかしいとは感じていたが、そんなことよりも、この家を、この町を出ていくことばかりが私にとっては大切なことだった。
上京して大学生になりしばらく経った頃、母から電話があった。実家が売りに出されたこと。その後程なくして買い手が見つかったこと。急遽一週間以内に出て行かなければならず、私と兄の荷物は、大切そうなもの以外は捨てるしかないことを告げられた。三歳の頃に祖父に買ってもらったアップライトピアノはすでに売却済みで、三階にある私の部屋の窓からクレーンで運び出されたというその様子を、私はただぼんやりと頭の中で何度も再生した。
祖母は消えた。売却が決まる直前、両親が仕事から帰ると、大型家具や家電と共に祖母は忽然と姿を消していた。家も商売も祖父母が始めたものだったが、高齢でローンを組めず、父名義でお金を借りていたことを私は初めて知った。いつも朝から晩まで働いていた父と母の姿、それから、いつも朝から晩までテレビを見ていた祖母の姿が目に浮かんだ。貯金も年金もあったはずなのに、祖母は何も払わず、何も言わず、実の娘とその婿に借金を肩代わりさせたまま、どこかへいなくなった。それからしばらくして、祖母が所有していた母の店の入っていたアパートも売りに出され、母は廃業を余儀なくされた。
後に、売りに出された実家の買い手が母の姉だったこと、そこに祖母を戻らせて一人で住んでいるのだということを、私たちは人伝いに知った。結局家は祖母のものになり、借金だけが両親の手元に残った。
私は生まれて初めて、誰かのことを憎いと思った。ようやく入学できたこの大学の学費を自力で払わなければならないのも、祖母のせいだった。予備校にも私立の大学にも行かせてもらえず、高校を卒業してすぐ働かなければならなかったのは両親のせいだと思い込んでいたが、本当は祖母のせいだったことを知り、私は怒りで震えた。とっととくたばって地獄に落ちろと心から願った。
残された4人の家族の間で、長らく祖母の話題が出ることはなかった。一度だけ、父と母に祖母はまだ生きているのかと聞いた時、「名前も聞きたくない」と死んだような目で言った二人の顔を見て、私は祖母の存在を葬った。私にとって、私たちにとって、祖母は死んだも同然の人だった。
そんな、記憶の片隅にも残らなくなった祖母のことを思い出すようになったのは、ここ数年のことだ。はっきりと示せば、それは息子が生まれてからだ。自分も母親となり、初めて親という生き物とその気持ちがわかるようになると、父と母への感謝の気持ちが増すと同時に、祖母もまた、母であり、娘であったのだと思いを巡らせるようになった。息子をあやしたり抱っこしたりしている母を微笑ましく見つめながら、かつてはそれが私と祖母であった様子を重ねる。
私は今でも祖母のことを憎んでいるのだろうか。そう自問する時、私の中には静かな凪があるだけだ。当時は確かに心の底から憎くて、早く死んでしまえと願っていた。でも今思えば、そんな燃えたぎるような憎しみの半分は若さゆえの激しさであり、残りの半分は、或いは半分以上は、父と母への、私の愛情から来ていたもののように思う。二人の痛みを、私が軽々しく語ることはできない。確かに地獄を味わう姿を、この目で見てきた。でも私はどうだろう。直接被った被害と言えば学費の支払いが大変だったくらいで、それ以上に、祖母のことを想う時に脳裏に浮かぶのは、母が忙しい日にご飯を作ってもらったことや、一緒にのど自慢や甲子園を見たこと、短冊に一緒に願い事を書いたことなど、ごく普通の、ありふれたおばあちゃんの姿だ。四十歳にもなれば、親を見送る友人の話も珍しくなくなるし、夫の祖父母はとうに他界している。まだ生きている祖母に、あれから海外へ出たこと、結婚したこと、息子がいること、そしてそれは祖母のおそらく初のひ孫であることを伝えないままで、私は本当にいいのだろうか。息子にとって、唯一存命している曽祖母に会わせられる幾ばくかのチャンスを、私が奪っていいのだろうか。
母が捨てずに取っておいてくれたベビーアルバムに載っていた、白髪の眼鏡をかけた老女の顔が頭をよぎる。お食い初めの日の色褪せたフィルム写真には、一升餅を背負わされた一歳の私と、私の曽祖母が写っている。二歳の時に亡くなり記憶にはないが、写真の中で確かに私を抱いている、その人。よく知ることもなかった曽祖母だが、その人無しでは、私はこの世に存在していないのだという不思議。血というものは残酷だ。一緒にいようといなかろうと、憎んでいようといなかろうと、否応なく自分に流れ続けるのだ。自分の中に脈々と流れるものを、できれば忌み嫌いたくない。赦せるものなら赦してしまえた方が、どんなに楽だろう。
私の生まれ育ったその家は、駅にほど近い町の中心地にあって、帰郷すればその場所を避けては通れない。車で横切る度に、無関心の振りをしている父と母をよそに、私はいつも、かつて自分の部屋だった三階の窓を見つめる。窓のすぐ横には勉強机があって、その後ろにベッドがあった。入り口の左にはアップライトピアノがあって、右には本棚とクローゼット。思春期の多感な頃、自殺してやるなんて死ぬ気もないくせに窓の外に立ち、怖くて二秒で引き返して、一瞬すぎて誰にも気づかれなかったことをふと思い出して苦笑いをする。屋上に昇る非常階段が怖かったこと。遅すぎるエレベーターをノロベーターと呼んでいたこと。こんなにも全てをはっきりと思い出せるのに。かつての私たちが確かに刻まれているあの家に、よく知っている誰かがまだ住んでいて、なのに二度と触れられないという事実を、きっと私は、一度もきちんと飲み込めていない。
一時帰国が決まるたびに、父と母に内緒で、今回こそは息子を連れて突撃しなければならない、という義務感のような覚悟を握りしめる。「お前のせいで父と母の人生は狂ったんだから」と罵ってやろうとか、謝罪を要求しようなどと何度も頭の中でその日を想像した。或いは、帰れと言われるかもしれないし、もしかして認知症になっていて、もう私のことすら覚えていないのかもしれないなどと、あれこれ考えるのだが、結局いつも行動に移せず、あのチャイムを押すことができないまま故郷を後にする。祖母は今、どんな容貌をしているのだろう。最後に祖母の誕生日を祝ったのは確か七十二歳の時だから、今頃九十代ということになる。白髪で、杖でもついたりしているのだろうか。私は祖母のことを、赦しているのだろうか。もしも会えたとして、謝る気などないと言われても、私は憎しみをぶり返さずにいられるだろうか。
去年の秋、日本を発ってから初めて、十年以上振りに祖父の墓参りへ行った。もしかしたら鉢合わせるかもしれないと、これまでずっと避けてきたのだ。けれどあの日の私は心のどこかで、むしろ鉢合わせしてくれと思っていた。祖父の墓には花も線香もなかったが、綺麗に掃除がなされていて、誰かが手入れをしている気配が確かにあった。祖母の名前は、まだそこにはない。驚くことに、その事実に私はひどくホッとしていた。祖母は生きている。あの、団子をこね、短冊を書いたリビングルームに、今もまだ、祖母は座っている。
ずっと来られなかったことを祖父に謝罪して、息子が生まれたこと、日本の外で生きていることを報告した。花の代わりに買ったワンカップの蓋を少しだけ開けて、墓前に供えて後にした。
次こそは、と思う。毎回思う。次こそは、息子を連れて、あのチャイムを押すのだと。果たしてそれまで生きているだろうか。わからない。本当のことが知りたいのか知りたくないのかも、わからない。だいたい会えたところでどうだというのだ。父と母の憎しみは消えないし、私たちの消えた二十年は戻らない。
仕事が休みの日曜の朝には、トーストを焼いて、スクランブルエッグを作る。マヨネーズ入りのそれは、夫と息子の大好物だ。フライパンで直接混ぜるから、白身の部分が混ざりきらずに残り、黄色と白のマーブルになる。きちんと混ぜて欲しいのにと、子供ながらに思ったものだ。でも私は、これ以外の作り方を知らない。