続きのない物語

 

 実家で古い荷物の整理をしていたら、手のひらサイズの白い箱が出てきた。十二年前に日本を発つ際、極力減らしたものの、それでも段ボール数箱分になった思い出や荷物を、いつか日本で暮らす時のためにと、実家に預けていた。結局、再び日本に戻って暮らすことはなく、気づけばアメリカ人と結婚し息子が生まれ、ケニアという国に定住して、幾年も経つ。当分日本で暮らすことはなさそうと、一時帰国の度に開封しては、少しずつ荷物を減らしている。

 

 何かの菓子箱だったであろうその箱の蓋を、他の箱同様、手早く開ける。目に飛び込んできた中身に、私は声にならない感嘆符を宙に放って、静止した。

 そこには、「UFO あゆみ」と書かれた名札と、「バカラ あゆみ」という名札。それから、居心地悪そうに、まるで戦隊モノの衣装みたいな制服に着られ、パチンコ台の前に座る、茶髪のぽっちゃりとした女の写真。他にも、肩パッドのしっかり入った白のセットアップを着た、ホステスらしい女性が三人並んで座っている写真。そこにもやはり、同じ茶髪のぽっちゃりとした女が写っている。

 

 私である。

 

 

 一か八かで受けた東京藝大に落ちた十八歳の私は、高校を卒業してすぐに、近所のパチンコ屋さんで働き始めた。

 国公立大受験に失敗したことがわかったあの日、私立にも予備校にも行かせる余裕はないからと、実家の家業である酒問屋を手伝うよう、私は父から迫られていた。こんなド田舎で、しかも酒屋とかいうまるで興味もないことに、自分の人生がすっぽり収められようとしている事実に、私は動揺した。夢にまで見た東京で、音楽の勉強をして、音楽家になる。幼い頃からの夢は、砂場で作った砂のお城みたいに、いとも簡単に崩れ去った。「将来何になりたいですか?」と散々夢見ることを煽った義務教育は、夢の実現にはお金が必要なんだよとは、一言も教えてくれなかった。

 

 人生詰んだどうしよう、と鬱々としながら、この抗えない現実を打破する方法があるとすれば、自分で何とかするしかないのは、明らかだった。こうなったら、一年間バイトをしてお金を貯め、来年の春、自力で東京の音大に行くしかない。調べたら、学費も高すぎず、筆記試験の科目も少なくて、実技は自由とかいう面白い芸大がある。卒業生には名だたる著名人ばかり。日大芸術学部音楽学科なら、なんとかなるかもしれない。そう目標を一点に定め、固く決心した私は、新聞の折り込みチラシから、求人広告を引っ張り出した。

 

 自宅から歩いて五分のパチンコ屋UFOは、山陰地方では名の知れたパチンコグループだ。徒歩圏内ということも魅力的だったが、そんなことよりも、時給1,000円という点においてここ以外に選択肢はなかった。コンビニ店員、ショップ店員、カフェ店員。興味のありそうなバイトはどれも、最低賃金に近い600円台で、話にならなかった。

 

 出勤初日、手渡された制服を広げて、私は凍りついた。まるでコスチュームかと思う色使いのトップスに、黒のミニキュロット。幼少期から平均体重を遥かに超える体形で、高校の制服のスカートはチャックが閉まらず安全ピンで止め、床すれすれ丈のスケバン風スカートにして穿き潰してきた。膝丈より上の何かなんて、一生絶交したはずだった。まるで羽化したての蝉のように、下界に初めて剥き出しにされた私の太い脚は、陽にさらされた形跡もなく真っ白で、客や男性スタッフの容赦ない好奇の目にさらされた。

 

 他の色んなことと同じように、羞恥心にだって慣れは生じるらしい。常連客も、毎日同じ女の脚の太さにいちいち反応するほど暇ではない。そんなことよりも、彼らは私に玉交換をして欲しかったし、スロットの目押しをやって欲しかった。そうやって、パチンコ屋の仕事にも制服にも慣れてきた頃、私は通帳の残高を眺めながら、これではまずい、と焦っていた。一年では、目標の200万円に到底届きそうにないのだ。

 

 すぐさま掛け持ちできるバイトを探し始めた。パチンコ屋のシフトは朝八時から夕方四時。そうなると、必然的に夕方五時以降の仕事でなければならない。コンビニは時給において却下だし、居酒屋もカラオケ店も似たり寄ったり。ため息をこぼしながら、求人広告の右端に目を落とすと、「ラウンジでのピアニスト、時給1,300円」という広告が目に止まる。これは、とすぐさま電話をかけ、面接の日程が決まった。

 

 

「残念だけど、今のあなたでは難しいかもしれないわね」

 ママ、と呼ばれたその人が申し訳なさそう言った。はじめから、わかっていたことだった。私のピアノの腕はごく普通で、三歳から習い始めてすがりついてきた割にはレパートリーも少なく、即興もできない。人前で何時間も弾き続ける能力は、私にはなかった。バイトに落ちてお金が稼げないことも、自分に才能がないことも、逃げ出したい現実だった。けれど私には、もう後がなかった。

 

「どうしても、東京の大学に行きたいんです。どうしても、お金が必要なんです」

 そう言って食い下がる私を、困った顔で見つめていたママが、それじゃあと、連絡先の書かれた紙切れをくれた。「ここのマネージャーに連絡してみなさい。彼ならなんとか、してくれるかもしれない」そう言われるがままに電話をかけると、威勢のいい声の男の人が出た。

「じゃあ明日、この住所に来てねー!」と言われた通り、私は指定された住所へと向かった。雑居ビルの二階にあったその場所は、入り口にBaccarat、バカラと書かれていた。

 

 薄暗く、静まり返った店内の重たい空気の中を、ジャズピアノの軽やかなBGMが舞っている。白の大理石でできた長いカウンターの向こうには、高級そうなウイスキーやブランデーの瓶、それから美しい彫刻の施されたグラスがずらりと並び、間接照明に照らされてキラキラと光っている。

 

「いらっしゃいませー!」という、聞き覚えのある声で出てきた男の人は、私を見るなり、「おー、君かー! おっきいなー! 制服、入るかなぁ?」と、私の顔や体つきをひと通り見定めていた。この人が、どうやらマネージャーらしい。

 更衣室に連れて行かれ、クリーニングの袋に入ったままの、お店で一番大きいサイズだという制服に着替える。バブル時代さながらの肩パッドが入ったブレザージャケットに、膝上丈のタイトミニスカート。太い脚を見せるくらい、もう騒ぐようなことではなかった。それよりも、太っているからという理由で働かせて貰えないことの方が、よっぽどまずかった。閉まらないチャックと格闘しながら、目についた安全ピンを、慣れた手つきで留めて応急処置をする。

 

 そうして私は、十八歳でホステスになった。

 

 

 今でこそ、なりたい職業にキャバ嬢をあげる子たちがいるらしいくらいには、水商売のハードルは下がっている。ファッションショーに出たりインフルエンサーとして活躍したりしている人もいて、昔なんかに比べたら、イメージだって悪くない。それでも当時の私は、田舎という保守的な環境も相まって、きっと随分と成り下がってしまったのだと、喪失感を抱えていた。両親にも友達にも、言えなかった。

 

 仮にも県下随一の進学校の、それも成績優秀者上位四十名までが入るトップクラスに三年間在籍した私が、歓楽街の高級クラブで、女を武器に微笑んだりすましたりしている。同級生たちが大学や予備校で、若者らしい新生活を送っている間に、私は不釣り合いで高価な洋服を着せられ、お酒を飲んでいる振りをして、大人のつまらない自慢話や下ネタに付き合ってあげている。心にもない褒め言葉や猥談を並べれば並べるほど、私は自分の中の大切なものを一枚、また一枚と失っているような気がして、後戻りのできないドアの向こうに来てしまったという背徳感は、ずっと付きまとった。

 

 それでもお金はどんどんと貯まってゆく。その上同伴だのアフターだので、大トロやウニのお寿司、フグや馬刺しに北京ダックと、食べたこともない高級な料理がタダで食べられる。宝石のついたネックレスや指輪だって、頼んでなんかいないのにくれる。適当にのらりくらりと躱しているだけで、今まで手にしたことのないお金と暮らしが手に入るのなら、叶う保証もない夢を追いかけて東京に行くことは、だんだんと馬鹿らしいことのように思えた。

 

 そんな生活が数ヶ月過ぎ、いつも通りバカラに出勤し、私は常連客の八木さんの席についていた。お客さんが何の仕事をしているのかということに、私はそもそもあまり興味がなく、そういう訳で、八木さんが何をしていた人なのかは記憶にないが、ただ、よく東京に出張に行く人だったということは覚えている。それから、八木さんのジョークはいつも救いようがないほどに寒く、言った後に自分で、「さっぶー!」と言ってしまうような人だった。八木さんは、東京出張の度に土産を持ってきてくれたり、アフターでお寿司に連れて行ってくれては、「あゆみちゃん、勉強の調子はどう?」と気にかけてくれた。もはや私が未成年で、東京の大学に行きたくて働いていることはみんな知っていたし、マネージャーはいつも、私を新しい席に付けるたびにそのネタを使っていた。

 

「うーん、ぼちぼちですかねぇ。まあ、国語と英語と、小論文だけだし。受からなかったら、また来年受ければいいかなって」

 

 あまり深く考えずにそう言った私に、八木さんは突然真剣な顔になった。

 

「あゆみちゃん、ダメだよ諦めたら。来年でいいとか言ってたら、きっとあゆみちゃんはずっと、バカラにいるよ」

 

 突然の真面目話で若干白け気味の私に、それでも八木さんは容赦無く続ける。

 

「いいかい、バカラにいる女性はみんなね。事情があるんだよ。旦那が子どもを作って逃げたとか。借金に追われているとか。みんな、昼の仕事が出来なかったり、それじゃ足りなかったりで、この仕事をやってるんだ。でも君は違うだろう? 夢があって、その夢のために働いているんだ。決してそのことを、忘れちゃいけないぞ」

 

 少し酔っ払って、まるで父みたいに説教をする八木さんは正直うざかったが、「そうですかねぇ。わたし、そんなに違いますかねぇ」とか頭の悪そうな返答をしながら、私は八木さんに、自分の心を見透かされているようで、きまりが悪かった。

 

 

 ある時から、八木さんは私に手紙を書いてくるようになった。そこには大体いつも、八木さんが私を応援していること、それから必ず、一万円が添えてあった。流石に二回、三回と続くと、この人は私と寝たいのだろうか? と構えたこともあったが、念願の日芸に無事に受かり、バカラを辞めるその日まで、八木さんは一度たりとも、そんな仕草を見せなかった。

 

 

 上京してしばらく経った頃、八木さんから連絡があった。いま東京にいるので、ご飯に行きませんか、という誘いであった。ホステスをやっていたことなんて故郷に置き捨ててきたのに、あの頃の自分にも再会しなければならないのは、正直気が乗らなかった。それでも、もらい続けていた一万円が、上京を助けてくれたことは疑いようのない事実で、私は結局、八木さんと会うことにした。

 

 八木さんはあの頃と何も変わっていなかったけど、曰く、すっかり垢抜けたらしい私に、少しよそよそしかった。そんなことはどうでもいいとでもばかりに、私は昔と変わらないトーンで、当たり障りのない会話を交わした。別れ際、「はい、いつものこれ」と言って八木さんが、手紙を手渡してきた。「わぁ、ありがとうございます」と喜んでみせると、それじゃまたと、八木さんは人混みの中に消えていった。

 

 帰り道、西武池袋線の車内で、私は封筒を開けた。正直にいえば、きっとお金が入っていると思って、すぐに確認したかったのだ。予想通りそこには諭吉がいて、ただ、一人ではなかった。そこには、三人の諭吉が納められていた。

 

 手紙には、夢を叶えたことへの祝辞と、これからも陰ながら応援していますということが書かれていた。

 

 なんとなくそう感じた通り、それから、八木さんから連絡が来ることはなかった。

 

 

 

 

 その白い箱の一番下に、小さく折ってしまわれていた八木さんの手紙の文字は、蛇みたいにグニャグニャでひどく下手くそだった。手紙なんて書き慣れていない人が、縦書きの真っ白な便箋に向き合って、一体、何を想っていたのだろう。

 

 私は少しだけ、後悔している。八木さんについて、何も知ろうとしなかったことを。八木さんがなぜいつも東京に行っていたのかとか、なぜいつも手紙を書きお金をくれたのかとか。なんで私のことを、あんなに応援してくれていたのだろう。

 

 もしかして、自分の夢の続きを、私に委ねていたのだろうか。二度とは手に入らない、若さという無限の可能性を生きる誰かに、昔の自分を重ねていたのだろうか。そんな気がするのは、私があの頃の八木さんと、同じくらいの年齢になったからかもしれない。人生の復路を行く者として、迷える若者の話を見聞きすれば、たまらなく伝えたくなるのだ。どうか、夢見ることを、諦めないでいてほしい。たった一度きりの自分の人生を、心ゆくまで味わい尽くしてほしい。そんなことを願う時、決まって私はあの日の自分を、重ね合わせている。

 

 八木さんは、今頃どこで、何をしているのだろう。今でもあの歓楽街のどこかで、「さっぶー!」を連発しているだろうか。もしも私が、あれから東京を後にして、世界をめぐりアフリカで起業して、こうして出版予定の原稿を書いていると知ったら、何と言うだろう。

 

 人生には、一生続きを読むことが叶わない、「つづく」のままの物語がたくさんある。そんなことを思いながら、そっと蓋を閉め、白い箱をまた、詰め直す。