チェストプレスのマシンのもとへ行く。グリップを握って息を吐きながらバーを前方に押し出す。一呼吸置いて、息を吸いながらもとに戻す。肩をすくめないよう気をつけながらそれを繰り返す。大胸筋、三角筋の前部、上腕三頭筋。胸から腕にかけての筋肉に効かせるように。
つぎは背中だ。両手を伸ばしてラットプルマシンのグリップを握り、シートに座った。広背筋に効くように肩甲骨を寄せ、息を吐きながらバーを引いて下ろす。ノルマの回数をこなすと、その横にあるシーテッドロウに移動する。グリップを握り、ボートを漕ぐような動きでみぞおちに向かって引き寄せて、僧帽筋や広背筋など背中全体を鍛える。
スミスマシンに戻り、バックプレスをする。鏡の壁のほうを向いてベンチに座り、広くバーを握って、頭の後ろ側へ下ろしていく。耳の高さまで下ろしたら上へ戻し、肘を完全に伸ばしきらないところで止めてまた下ろす。
それが終わるとバーを高い位置に移動させて、つまさき立ちになって順手で握ってジャンプし、顎がバーの高さに来るまで上体を引き上げる。ジャンプ懸垂。十回を三セットやると、今度は逆手に変えて同様に飛び上がる。腕や肩だけでなく肩甲骨のあたり、広背筋を使うように意識しながら。
週二回に減らしたスーパーへの買い出し、ジム通い、マスクをつけてのジョギング、日用品が切れそうなときに行くドラッグストア、それがいまの日常生活における外出のほぼすべてだ。日々の暮らしにおいてネットニュースがいちばんの刺激で、社会問題やら政治家の失言やら殺人事件やら芸能ゴシップやら、つぎからつぎへと更新されるニュースに憤ったり考え込んだりと感情をかき乱され、そして数日で忘れてしまう。
バーを上げ下ろししながら近未来を夢想する。食料は三食とも定期便の完全栄養食、ネットワークには脳から直接アクセスし、同居の家族以外とはオンラインでの交流が基本。身体的なコネクションが希薄になればなるほど、自分の輪郭を確かめたくてだれかと肌を合わせたり快楽や苦痛を求めたりするように思う。
SF映画でときどき見る、宇宙ステーション内でトレッドミルで走ったりダンベルで鍛えたりしている場面を思い出す。宇宙空間では筋肉が衰えやすい等の理由もあるだろうけど、肉体を酷使することでかろうじて生身の人間であることを忘れずにいられるのかもしれない。
ジャグジーと七色のライトつきの湯船にYとふたりで浸かり、互いのからだを洗いあった。浴室から出てバスタオルで水気を拭き取り、服を着る。
「メイク直すから、ちょっと待ってね」
メイクポーチからアイブロウペンシルを出して、鏡に映った自分を見る。
すでに高校生のころより体重は軽い。もちろん肌の張りや肉質は十代のときとはぜんぜん違う。下着の跡はいつまでも消えないし、ラーメンは澄んだスープのあっさり系しか胃が受けつけなくなった。
だけど、十代の自分に戻りたいとは思わなかった。いまのからだで満足。消えていた眉尻を描き足しながら、鏡の向こうの自分に対して思う。転んで擦りむいて色素が沈着してしまった古い傷痕も、薄れない火傷痕も、もちろん消えてくれたほうが嬉しいけど、私の一部で歴史だ。頰に散らばるしみも以前ほどは憎たらしく感じなくなった。
自分の肉体を完全にコントロール下に置いている。望まない体型に変わっていったり、努力を重ねても妊娠に辿り着かなかったり、肉体はままならないものだと思っていたのは過去のこと。でも、この状態がいつまでも続くわけではない。そう遠くはない将来に更年期を迎えて体調が乱れるだろうし、現状では健康診断でとくに問題はないものの、臓器や細胞のひとつひとつに至るまでゆるやかに終わりに向かっているはずだ。
ここは階段の踊り場。つぎの段に降りるまでのつかのま、好きなステップで足踏みしていたい。
目の下についたアイシャドウとマスカラの汚れを綿棒で拭い、フェイスパウダーを叩き、リップを塗り直す。ブラシで乱れた髪を直し、洗面所を出た。Yはすでに帰り支度を終えてソファにちょこんと座っている。
「お待たせ。じゃあ出よっか」
「あ、はい」
私は立ち上がったYを抱きしめた。Yも背にまわした腕にぎゅっと力を入れて抱き返してくる。しばらくそのままぬくもりに浸っていた。
「……こうしてると、はじめてつきあった男の子のことを思い出すの」
名前はかろうじて憶えているが、顔はおぼろげにしか思い出せないひと。
「そのひとに触れると、自分がどれだけ飢えていたか思い知らされて。いったん触れると離れられなくなって。何時間でもひたすら抱きあっていられたの。……ずっと忘れてた感覚、思い出させてくれてありがとう」
私は熱く長い息を吐いてからYを解放し、照れ隠しに笑って彼の顔を見た。
「さ、ごはん食べに行こ。今日はブラジル料理だよ。シュラスコって知ってる? 体力使ったぶん、お肉いっぱい食べよう。赤身肉食べて筋肉つけよう」
ひととおりメニューをこなし、ウォーターサーバーの水を飲んだ。粉末を入れてきたプロテインシェイカーをバッグから出して水を注ぎ、蓋をきっちり閉めてシェイクする。べりべりとマジックテープを鳴らしてリストラップを外した。マットでストレッチをして使った筋肉をひとつひとつ伸ばす。チョコ味のプロテインドリンクを喉に流し込んだ。ろくに食べていない空っぽの胃に、プロテインドリンクは異物としてつかえる。
スマホを取り出して時間を確認した。午前一時半を過ぎたところ。つい指が勝手に動いて、Yとのやりとりに使っていたメールアドレスを確認してしまう。新着一件とあってはっとするが、もちろん無用な宣伝メールだ。
それを削除して、最後に受信したYからのメールを開く。『もうじき到着します。いつもの場所に向かいます』。簡素なそのメールの日付はどんどん過去になっていく。新しいメールが届くことはない。
毎回、Yと別れる際に必ず渡すものがあった。
「はい、これ。眠眠打破とブラックガム」
眠気覚ましのカフェイン飲料と辛口ミントガムをバッグから出して渡す。待ち合わせの場所に向かう途中でコンビニに寄って購入するのが習慣になっていた。
「いつもすみません」
Yは恐縮したようすで受け取る。
「帰りに途中で眠くなったらコンビニとかサービスエリアの駐車場で休憩してね。居眠り運転はやめてね」
おせっかいでお母さんみたいだなと羞じながら、毎回同じことを言わずにはいられなかった。
だが最後に会ったその日は、出かける支度をしていたら忘れものをした和樹が帰ってきたため、家を出るのが遅れてコンビニに寄る時間がなかった。別れるとき、すぐそばのコンビニで買って渡そうかと一瞬考えたがそうはせず、「またね」と手を振り、駐車場へ向かう彼を見送った。
Yが私の渡す眠気覚ましアイテムを毎回使ってくれていたかどうかはわからない。それでも何十回も何百回も同じ後悔が頭をよぎり、息ができないほど胸が苦しくて嗚咽が洩れる。
ジムに通う時間を深夜に変えて、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。
夜、ごく普通に歯を磨いてベッドに入る。クイーンサイズのベッドにはすでに和樹が横になっている日が多い。私は惰性で続けているゲームアプリを弄ったりSNSを開いたり、枕もとに置いてある本をぱらぱらとめくったりするが、スマホも本もじっくり向きあう気になれない。それらをベッドの端に押しのけて枕に顔を埋める。涙がつうっと流れた。音を立てて洟をすすると、本を読んでいた和樹が顔をこちらに向ける。
「どうした?」
「なんでもない。……なんかかなしくて」
「よしよし」
和樹は本から顔を上げないまま私の頭を撫でる。
このひとを傷つけずに終わらせることができてよかった。そう安堵するいっぽうで、自分が罰を受けずに過ごしている居心地の悪さがあった。
やがてとなりから寝息が聞こえてくる。和樹は眠りが深く、いちど眠ったら朝までめったなことでは目覚めない。私は音を立てずにベッドから出ると、スポーツウェアに着替え、マスクをし、ジム用バッグを持って家を出る。寝静まった住宅街を歩いて、近所にある二十四時間営業のスポーツジムへと向かう。
Yと別れて帰宅して、和樹と二度めの夕食を摂り、そろそろ寝ようかというタイミングでいつもメールが届いた。
『いま帰宅しました。今日はありがとうございました』
だがその日は日付が変わるころになってもメールは来なかった。疲れていて帰ってすぐに寝たのだろう。そう考えて眠りについた。
翌日になってもメールは届いていなかった。
『きのうはお疲れさま。無事帰れましたか?』
こちらから送ってみる。二日経ち、三日経ち、追加で何通か送信したが返事は来ない。嫌われるようなことをしただろうかと自分の言動を点検し、彼の反応を振り返ってみるものの、思い当たるふしはなかった。胸騒ぎは刻一刻と大きくなっていく。
一週間が過ぎ、意を決して地方紙のニュースサイトを開いた。ずらりと並ぶ日々の感染者数を伝える見出しのあいまをチェックしてさがしたが、それらしいものは見つからなかった。
私の思い過ごしらしい、と安堵してサイトを閉じる。念のため、Yの居住地と交通事故の二語を入力してGoogleでニュース検索した。地元テレビ局が発信したニュースが一件、引っかかった。
大型トレーラーに衝突 乗用車の四十歳男性が死亡 ××県××市
三日午後十時二十分ごろ、××市の××自動車道下り線で大型トレーラーに乗用車が正面衝突し、乗用車を運転していた××町の須藤祐市さん四十歳が病院に運ばれ、その後、死亡が確認されました。
トレーラーを運転していた男性は右腕などに怪我をしているとみられ、病院に運ばれ、治療を受けていますが、意識はあるということです。現場は見通しのよいゆるやかなカーブで、警察は須藤さんの車が対向車線にはみ出したとして、事故の原因を詳しく調べています。
もしも眠気覚ましドリンクを買って渡していれば、いや、そもそも私と出会わなければ、あのとき魔が差してメールを送らなかったら──。
胃はろくに食べものを受けつけず、ふとした瞬間に涙があふれ、細切れにしか眠れず、最低限の仕事をこなすので精いっぱいだ。日中は穴ぐらの巣でじっと痛みに耐える手負いの獣のように過ごし、深夜を迎えるたびジムへ行く。教会に駆け込んで祈りを捧げ懺悔するように、バーベルやダンベルやマシンにすがって救いを求める。体力が落ちて扱える重量は減り、頻繁に目眩やふらつきに襲われるが、筋肉をきしませて重たいものを持ち上げる一瞬だけは胸の重荷を手放すことができた。
いったんはバッグを肩にかけて出口に向かった。しかしまだ追い込みが足りない気がして、フリーウエイトのエリアに戻る。パワーラックの高さを調節し、プレートをバーベルの左右に装着した。肩に担いで足を肩幅よりやや広く開き、膝を曲げて腰を下ろしていく。最初にやったバーベルスクワットだ。
十五回を過ぎてもそのまま続ける。ふいに激しい目眩がして床が大きく波打った。全身から力が抜け、視界が白く染まる。バーベルが床に落ちる大きな音と地響きのような振動を遠くに感じた。
「だいじょうぶですか」
いとしい声に呼ばれて目蓋を上げると、Yがしゃがんでこちらを覗き込んでいた。
「……だいじょうぶじゃない。ばかみたいにあっさり死んじゃって」
そう返すといつもの困り顔になる。
「ごめんなさい。居眠りしちゃいました。毎回心配してくれていたのに」
「まったくだよ。心配してたとおりになっちゃった。かなしいし悔しい」
しばらく見つめあう。
「須藤って本名だったんだね、てっきり偽名だと思ってた。私は河合って名乗ってたけど、噓だからてっきりそっちもそうだと」
「河合さんじゃなかったんですか」
「うん、ぜんぜん違う。で、下の名前は祐市さんっていうんだね」
「そうなんです」
「もっと知りたかったよ、いろんなこと」
「ごめんなさい」
また意識が途切れ、つぎに目蓋を上げたときには窓の外は明るくなっていた。相変わらず耳に馴染んでいるが曲名すら知らない曲が流れ続けている。
床に転がっているバーベルを苦労して持ち上げ、プレートを外してラックに戻した。除菌シートでバーを拭き清め、今度こそ帰ることにする。
シューズを履き替えて出ようとするとドアが開いて、見知らぬ若い男性が入ってきた。
「おはようございます」
軽い会釈とともに声をかけられて、私も「おはようございます」と返す。
空調の効いた建物から出た私を、初夏の早朝の日差しが射貫いた。いまの私には眩しすぎる。でもいつかは深夜に通うのをやめ、明るい時間帯にここに来るようになるのだろうか。手をかざして白く輝く太陽を見上げた。
この続きは、書籍にてお楽しみください