第一章

 

 風が姫の背中を押した。

 林の木々が、後方へ流れていく。

 火焔を燻らす富士の霊峰が見つめるのは、黒駒を駆る一人の姫だ。

 山々から気が立ち上り、人馬一体となった姫に注がれる。

 長い髪が棚引いていた。細い腰とふくらみかけた胸は、まだ大人のものでない。齢十二の松姫が競るのは、剽悍でなる武田家の武者たちだ。

 この先にある旗を誰が先に奪うか──競い馬の勝負は佳境に入らんとしていた。女童だからといって、主君の娘だからといって、武田の武者は手加減しない。幾度も馬体が当たり、とうとう松姫の体が傾く。

「松姫ぇ」

「諦めるなぁ」

 牧を囲む柵の向こうで、侍女や小姓たちが必死に声を送る。だが、松姫の馬は速さを取り戻せない。次々と武田の騎馬武者たちが追い抜いていく。

 松姫は、空を見た。白雲が蒼穹に色を塗っている。誰かの声が聞こえたような気がした。

 風がまた姫の背中を押す。魂を吹きこむかのようだ。

 顔を前へ戻した。鞭をいれることをやめ、馬の首を手で叩く。

「灯影」と、馬の名を呼ぶ。徐々にだが、馬の足が戻りだす。鐙にある足と手綱を握る手の位置を確かめた。よし、と松姫は呟く。鐙の外縁に体の重みを乗せた。

 馬の足が完全に戻る。

 すでに騎馬武者たちは先にいる。前の馬が上げた土煙が、松姫と灯影の行手を遮っていた。

 上り坂に差し掛かる。頂きでは先行する騎馬たちが右へと折れて、下りの坂へと消えていく。

 まっすぐ行かないのは、小さな崖があるからだ。

「灯影、行こう」

 耳が羽ばたくように揺れた。嫌がっている。灯影は松姫の意を汲む賢さはあるが、危険は冒したがらない。かといって、臆病というわけではない。

 松姫は、灯影の耳に顔を近づけた。

「帰ったら、氷室の氷をあげるから」

 灯影の耳がぴんと反った。了承の合図だ。松姫は笑った。冷たい氷は、灯影の好物だ。松姫だって、滅多に食べられないのに。

 松姫は命じた。

「飛っ、飛っ」

 黒い馬体が躍動する。凄まじい勢いで坂を登る。灯影の前足が上がったのは、頂きに至ったからだ。後足が大地を蹴り、巨体が浮く。松姫の体も鞍から剝がされそうになったが、下股に力を入れた。眼下に、崖を迂回する騎馬武者たちがいた。何人かは呆けたように口を開けている。

 着地するや否や、灯影はさらに速さを増した。序、破、急の内の〝急〟の足で駆ける。

 後ろでまとめた髪が、風を受けて激しく揺れる。

「行かせるな」

「十二の女童に負ければ恥ぞ」

 武者たちの声が殺気立つ。

「さすがは信玄公の娘御」

「行けぇ、そのまま旗をとれ」

 見物の衆の声も飛ぶ。半町ほど先の白旗は、松姫が一番近い。だが、進路から外れている。一騎が猛追してきていた。まっすぐ旗に向かっている。このままでは、抜かれてしまう。

 足を鐙から外した。旗の側にある足は鐙を結ぶ紐に絡ませて、鞍に手をかけ体をあずける。そして、もう一方の腕を外へと伸ばした。

「あ、危ない」

「両の足で鐙を踏みなされ」

 悲鳴まじりの声が、次々とあがる。

 傾けた体に、泥や小石が激しく当たった。千切れた草が髪にまとわりつく。猛追する一騎は正しく旗へと向かっていた。相手も腕を伸ばしている。大人の武者なので松姫よりも長い。

 その刹那、松姫の手が竿の根元を摑んだ。引き抜くと同時に倒すと、武者の手が空を切る。

「前、前を見なされ」

 競っていた武者が怒声を放っている。体勢を崩していた松姫のちょうど先に大木があった。

 松姫は地面を旗で突く。弾みで上体が飛び起きる。勢いよく鞍の上に尻を落とした。

「旗、取ったりぃ」

 松姫が叫ぶと、歓声が爆ぜた。松姫は馬の足を、急から破、そして序へと戻す。

 旗指物が並び、武田菱の陣幕が張り巡らされている一角で灯影を止めた。年嵩の宿老たちが床几に座っている。皆、歴戦の兵だけあり、威風が周囲を圧するかのようだ。

「父上、どうですか。松の灯影は賢いでしょう」

 松姫が声をかけた一人は、戦陣にあるかのように軍配団扇を手にしていた。直垂を着ているにもかかわらず、軍配団扇がよく似合う。入っている一条の傷は、十一年前の川中島合戦で敵将の太刀を受けた時のものだ。

 武田信玄──松姫の父である。

 入道頭に、しっかりとした鼻と口、切れ長の目はいつも眩しげに細めている。

「姫、あんな邪道な馬乗りが許されるとお思いか」

 怒鳴りつけたのは、長坂釣閑斎という老将だ。面長の顔に横に長い目鼻口がついている。いつも小言ばかりいっており、侍女や小姓たちからの評判は悪い。

「曲芸と馬術を勘違いされるな。あんなものは技とはいいませぬ」

 長坂の小言は執拗だ。これは長くなる、と思った時だった。

「松よ、なぜ崖を跳んだ。無謀と勇気を履き違えたのではないか」

 信玄の問いが割り込んだ。

「無謀ではありません。牧で、ずっと稽古しておりました。馬体を当てられれば、わたしは勝てません。ならば、軽さを逆手にとろうと」

「ほお、狙っていたのか」

 信玄の目が糸のように細くなった。恐ろしげな髭の下には、優しい口が隠れていることは知っている。

 今ならいえるかもしれない。

「父上、お願いがあります」

「なんだ。申してみよ」

「わたしは、いつか織田家に嫁に行きます」

 五年前、織田信長の嫡男の信忠と松姫は婚約を結んだ。ただ、輿入れの日取りは決まっていない。

「勝った褒美に、嫁入り道具をいただきたいのです」

「姫、嫁入り道具欲しさに勝負をするなど言語道断」

 軍配団扇を長坂の胸にやって、信玄は小言を封じた。

「松よ、何が欲しい」

 松姫は指を突きつけた。武田菱の左右に軍旗がたなびいている。そのうちの一本は──

 

 ──疾如風徐如林侵

 ──掠如火不動如山

 

「孫子旗を、嫁入り道具としていただきたいです。きっと、信忠様も喜びます」

 あまりのことに、宿老たちが目を見合わせる。

 一方の信玄は、髭をしごきつつ思案していた。松姫は、じっと言葉を待つ。

「女の身で戦旗を所望するなど大それたこと。が、先ほどの技が見事だったのも事実。ならば」

 信玄は、一人の武者に目をやった。歳の頃は三十。高い鼻梁とよく整えられた口髭が、武者ぶりを上げている。

「松よ、今一度、技を見せてみよ。この新之丞相手に、だ」

「新之丞とですか」

 驚く松姫を無視して、信玄が「いいな、新之丞」と言葉をかぶせる。

「はっ」と答えるなり、新之丞は芦毛の馬に乗った。優しげな信玄だが、こと勝負になると童相手でも容赦しない。囲碁でも将棋でも駒を落とすことも置き石を許すこともなく、徹底して叩きのめす。孫子旗を所望すれば、勝負になることはわかっていた。誤算だったのは──。

「父上が相手をしてくださらないのですか」

「新之丞の馬術は甲斐一よ。不足はあるまい。それ、半刻の間、白旗を守れ。そうすれば勝ちだ」

 新之丞と目があう。にやりと笑われた。

「姫、残念でしたな」

 そういって新之丞は、芦毛の馬を軽やかに操った。

 

 山伏に身をやつす一団に、長岌はいた。皆、毛坊主のように短髪を蓄えるなか、長岌だけはまっすぐで長い髪を持つ。その美髪と美貌から、衆道の相手に乞われることもままあった。父と母、どちらに似ているのかと聞かれるが、そのたびに思うのは、己は人の子ではないということだ。

 人の世の物差しで神を測るなどおこがましい。無論、その言葉は心中だけに留めておくが。

 長岌らの目の前には牧が広がり、一人の娘が馬に乗っていた。信玄の血をひくだけはあり、男顔負けの馬術だ。が、悪いことに追う武者はそれ以上の腕前であった。

「信忠公は、あんなじゃじゃ馬を嫁にもらうのですか」

 長岌は笑いつついった。

「ですが、あの娘が我ら上杉家の行末を左右します。松姫が織田家に嫁げば、武田を討つことは難しくなります」

 背後の山伏がそういう。彼らは越後国、上杉謙信が放った忍びだ。そして、長岌は上杉家の客将である。上杉家と武田家は仇敵の間柄だが、この両家と織田家は同盟している。武田家と織田家が縁戚で結ばれれば、上杉家は織田家も敵に回しかねない。あの越後の虎が、娘一人の嫁ぎ先を気に病むとは、と長岌はおかしく思った。そんなに気になるならば、と手にある杖を目の前に掲げ、ひねる。現れたのは鋭利な白刃──仕込み刀だ。

「殺してしまえば話が早い、と思いませんか」

 そういって長岌は、背後の山伏たちに目をやった。

「殺すとは、松姫を、ですか」

 愚問だったが、長岌は点頭する。松姫が死ねば、信忠との婚約は履行できない。そうすれば、上杉家も安泰だ。

「命ぜられていないことをすれば、お𠮟りではすみませぬ。長岌様が客分といえど、です」

 忍びたちはいつになく強い口調でいう。上杉家は織田家と武田家の接近を阻みたいが、かといって松姫を殺すほどの凶手にでる覚悟もない。

「上杉家との和睦について信玄めの腹を探るのが、我らの第一の使命」

 今、上杉家は、西に越中一向一揆、南に北条家という強敵を抱えている。武田家とは矛を交えたくない。だから、織田家に武田家との和睦の仲介を依頼している。

 眼下では、二騎の勝負が佳境に入っていた。武者が鞭をいれ馬を寄せ、松姫の手の内から旗をあっという間に奪いとった。陣幕の前にいる宿老たちがわっと沸く。目を細める信玄の姿を、長岌は嫌でも凝視してしまう。変わったな、と思う。最後にあったのは十一年前だ。四度目の川中島が終わった直後で、戦の余韻か信玄の体からは他者を圧する気を放っていた。

 陽が落ちてきたので、長岌は山伏たちを引き連れて丘を下りる。

 足を止め、街道脇にある木立を指さした。

「あれを見てください。誰かが苦しんでいますよ」

 五十手前と思しき牢人、三十代の妻と十代になっていない女童がいる。

「どうされました。病ですか」

 長岌は近づいていく。寝そべる女童は、汗をかいていた。呼吸が荒い。

「ここで休んでいたら、急に苦しみ出したのです」

 たくましい体に似合わず、牢人はひどく動揺している。

「診ましょう」

 長岌は膝を折った。「長岌殿」と山伏の一人が小声で呼ぶ。そんな暇はない、ということだろう。が、無視した。女童のまぶたの裏や舌を確かめ、脈もとる。

「何か、悪いものを食べたのかもしれないですね。道鬼坊、この辺りを調べて来い」

 一人の老山伏が頷く。小兵で、猿のように長い腕を持っている。道鬼坊は、上杉家の忍びではない。長岌の従者だ。鼻をひくつかせ、四つん這いになって道鬼坊は辺りを探る。その様子を、山伏たちは忌々しげに見ていた。

「どうやら、これを食べたようです」

 道鬼坊は、赤く熟した実を持ってきた。小さく齧った跡がある。

「よりにもよって、マムシグサか。すぐに薬を調合しよう」

 道鬼坊は、荷から薬研と薬箱を取り出した。調合した薬を服ませると、女童は一気に吐いた。「毒を吐かせるための薬です」と長岌は丁寧に説明する。さらに道鬼坊が薬湯をつくった。

「さあ、熱いうちに」

 女童の上半身を支え、唇に薬湯を持っていく。苦いのか何度も顔をしかめていたが、なんとか器を空にした。力つきたように女童は眠りにつく。

 もう、息は平静に戻っていた。

 

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