深夜のスポーツジムで、痛めつけるように体を鍛える私が思い出すのは、ある男のことだった(「教会のバーベルスクワット」)。手術を終えて戻ってきた会社の先輩と過ごした、燃え上がるような月日を体に刻む(「森林限界のあなた」)。“家族のために”料理を作り続けてきた私から、なぜか夫も息子も離れていってしまい……(「ブルーチーズと瓶の蓋」)。

 

 心地好くて、不気味で、疎ましくて、愛おしい。誰とも同じにはなれない、私たちの「身体」をめぐる5つの物語が収録された『窮屈で自由な私の容れもの』の読みどころを小説家・王谷晶さんの解説でご紹介します。

 

窮屈で自由な私の容れもの

 

■『窮屈で自由な私の容れもの』蛭田亜紗子 /王谷晶[評]

 

 ひと様の作品の解説でいきなりちょっと自分語りになってしまうが、作家としてコンプレックスにしていることが一つある。他人との距離感だ。これまでの人生、他人と濃い人間関係を築けたことがあまりない。数少ない友人とも多くて年に二、三回しか会わないし、連絡をとるのもそれくらいの頻度。人との距離を広く長く取りがちで、そのせいかたまに恋人ができても長続きしない。それは意識するしないにかかわらずおそらく書いているものにも表れており、私の小説は人間関係の湿度や密度が低いという感想を頂くことがけっこう多い。なので、無いものねだりで、濃い人間関係が描かれている小説や、その背景に透ける作者の人生経験の厚みを羨ましく思うことがある。

 蛭田さんのこの『窮屈で自由な私の容れもの』を読んだ時も、それを感じた。いずれも女性が主人公の物語は、他者に視線を向け、他者と生活するということの空気が濃密に描かれている。自分には決して描けない作品を読むのは読者として一番の愉しみだ。

「教会のバーベルスクワット」は、一心不乱に深夜のジムでハードな筋トレをする姿で幕を開ける。三十代後半で妊活を止めることを選択した奈都子は、ふと魔がさしてネットの掲示板で同じ県内に住む四十歳の女性経験のない男と知り合いセックスするようになる。結婚生活、妊活、不倫という私にとっては未知の世界に、楔のように打ち込まれる筋トレの臨場感。強くシェイプアップされた肉体は奈都子に自信を取り戻させ、筋トレのもたらす混じりっけのない純粋な肉体の苦しみは精神をも浄化するように感じられるが、時間の流れを変えたり止めたりすることはできない。残酷さと同時に不思議な清涼感のある一篇だった。

「保健室の白いカーテン」は、逆に子どもの頃から疲れやすく体力のない千花の生活を追う。頭痛をはじめとした体調不良を起こしやすく、学生時代も保健室の常連だった千花は成長して就職するが、朝起きて通勤して働いて……という一般的な会社員のルーチンに身体がついていかず、退職し風俗店で働き始める。そこでは「昼職」の世界ではいないもののようにされていた、朝どうしても起きられなかったり、体力的に週五でなんかとても働けないという、千花に似た人間たちも働いていた。この世界は体力がある程度あってそこそこ丈夫な人のために設計されていて、そこの値から外れると途端に生活が大変になってしまう。夜の世界だけでなく、私も含め作家等のフリーランスにも〝カタギ〟の仕事についていけないタイプはかなりいる。わかるわかる……と読み進めていたら、ラストシーンの衝撃に吹っ飛ばされた。

「森林限界のあなた」は、会社員生活の中で消耗していた花谷が、イサミさんというミステリアスな先輩に山歩きに誘われることで、いつしか熱烈で辛い恋に発展していく。恋が辛くなるのは、互いの熱量や姿勢、ベクトルがあさっての方向を向いてしまう時だ。生々しい恋愛の痛み、一方的な情熱や相手をコントロールしようとする衝動、そしてそれがよくないことだと分かっていても止められない哀しさがタトゥーを入れるというささやかな痛みに集められていく。登場人物の誰もが自分勝手で痛々しいが、それが人ってものだよな、としみじみしてしまう。

「ブルーチーズと瓶の蓋」は、食べ物を作ること、用意することを通して家族の姿を描く。よく食べる夫と中学生の息子が単身ならぬ父子赴任し、自宅に一人残った花埜子は、今まで家族という概念と溶けて一体化していた食事・食べ物に改めて一人で向き合うことになる。毎日欠かさず作っていた家族のための料理から急に解放され、戸惑いながら、また新たな食との出会いで人生を広げていく姿が明るく楽しい一篇。余談だがこの夫、中学生の子どもがいる若さでイングヴェイ・マルムスティーンの「トリロジー」やジューダス・プリーストの「ペインキラー」のジャケット(しかもおそらくLPの)を堂々と部屋に飾るのはかなりシブいバキバキの正統派HR/HMファンとお見受けした。そっちの趣味は全くなさそうな花埜子とどのように出会って結婚に至ったのか、そんな背景にも思いを馳せた。

「コンバッチ!」は夫に不倫され離婚を切り出された零細エッセイ漫画家の苑香が、編集者からほとんど気まぐれみたいに出された提案で全くの未経験からブラジリアン柔術にはまりこんでいく。寝技が中心のブラジリアン柔術は、はたから見ていると空手やキックボクシングみたいな派手さはないが、人と人が一対一で向き合い、絡み合い、駆け引きをし合い、マウントを取って取られての濃密な数分間を経験する格闘技。人間関係の瞬間濃度というものを考えると、〝闘う〟ことほど濃いものはないのかもしれない。どこか茫洋とした意志で日常を過ごしてきた苑香は、ブラジリアンを通して仲間や同好の士で過ごす楽しさに目覚め、理不尽やムカつくもの、自分より強いものに立ち向かっていくファイトが生まれていく。

 収録された五本の小説、どれもが望むと望まざるとにかかわらず主人公に絡みつく人間関係を描いている。死や諦念のにおいがするものから、読んでいて元気が出てくるもの、トーンもさまざまだ。そして主人公の女たちは誰もがちょっと変で不完全で、だからこそその環境や性格に深く共感し心のつながりを感じる人もたくさんいるはずだ。

 しかし私の読み方はちょっと違った。この絡み合う人と人の思念、体温、視線を描くことは、悲しいかな自分にはおそらくできない仕事だ。こんな濃い人間関係を経験したこともない。なのでうわーわからん! こんなの知らん! と思いながら小説を読むが、これのなんと楽しいことか。よく小説は読者の共感を得るのが大事、共感するから面白く感じるという話を聞くが、このようにわからん知らんを得ることだってとっても楽しい。人間関係希薄人間だからこそ、これからも蛭田さんの小説をよりいっそう新鮮に楽しめるぞ、というよく分からない自慢で締めさせていただきます。