どうせ見せるなら少しは自分でも納得できるからだになりたくて、Yに会うようになってから一念発起して鍛えだした。スポーツジムに通ってウエイトトレーニングを開始すると、ジョギングやカロリー制限ではなかなか変化しなかった体重と体脂肪率がするすると落ちはじめた。三ヶ月ほどで数値は不妊治療をはじめる前に戻り、さらに減っていく。十年近く目標に設定していたがいっこうに近づけなかった体重まであっさり落ちた。
シックスパックにはまだまだ遠いけれど、縦のラインが二本、腹筋に入った。中年女性特有の丸みを帯びていた二の腕や肩まわりは引き締まり、代わりに三角筋の丸みが浮き上がって見えるようになった。
ここ数年、どんなにすてきに見える服でも着用してみると台無しで、着る快楽から遠ざかっていた。選ぶのはゆったりとした服ばかり。それがいまは、ボディラインにぴたりと沿ってきれいに見せてくれる服を好んで選んでいる。デザインを問わず似合わなくなっていたTシャツもしっくりくる。
毎朝、起きるとストレッチをして、それから下着になって姿見で全身の状態をチェックする。鏡を見るのが怖かった日々がずいぶん遠く思える。腸骨のあたりの肉を摘まめば、その感触で体重がだいたい予想できた。体組成計に乗って答え合わせをし、データをアプリに記録する。
妊活中もそれなりに食べるものには気を遣っていたけど、あくまで情報を得てそれに沿って頭で考えていた。それがいまは、自分の肉体がなにを求めているのか、内側から声が聞こえてくるようだ。
筋肉の疲労を感じるからビタミンB1を多く含む肉、つまり豚ヒレ肉やラム肉が欲しい。みずみずしい旬の果実に囓りついて、汗とともに流れたビタミンCを補給したい。同じく鉄分も流れてしまって貧血気味だから、小松菜を油でさっと炒めて食べよう。ここ数日炭水化物をセーブしすぎていたので、明日の朝はしっかり米を食べたい。食物繊維の多い玄米にもち麦と黒米を足して炊こうか。
日々の献立はレシピを選ぶのではなく、からだが求める食材を中心に組み立てるように変わった。スナック菓子やインスタントラーメンはからだが求めないので、自然と買わなくなった。せっかく育ちつつある筋肉を分解するアルコールも、害悪としか思えなくなってやめた。
トーソローテーションのシートに膝立ちになって、息を吐きながら上体を左右にひねった。五十キロからはじめて一セットごとに重量を上げていき、腹筋を追い込む。腹斜筋がぎしぎしと悲鳴を上げて苦痛を訴えている。どんなダメージにも揺るがない硬質な筋肉が欲しい。歯のあいだから呻き声を洩らし、押し戻そうと刃向かう負荷に抵抗する。
筋トレをすることで思考が前向きになると説くひとたちがいる。交感神経と副交感神経のリズムが整い、自律神経が安定するらしい。そんな恩恵を受けている実感はまったくないけれど、負荷に抵抗することをやめたらもっと深い底に落ちる気がした。
会うのは三回目の日。「ちょっと休憩」と言って、裸のまま小型の冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出した。キャップをひねって外し、口をつけて傾ける。汗をかいて水分を失ったからだに染み込んでいく。一気に三分の一ほど飲んでから、ひとくちぶんだけ口に含み、横たわっているYにキスをした。唾液まじりの水を流し込む。
こくんと喉を鳴らして嚥下したYは、潤んだ上目遣いでなにか言いたげに私を見た。
「なに?」
「好きです」
発熱している子どもみたいな声で告げられた。
「ありがとう。私も──」
ごく自然にするりと出そうになった言葉を、とっさのところで押しとどめる。
「よしよし」
頭を抱いて撫でてごまかしたが、呑み込んだ言葉は胸につかえたままだった。
その帰り、夕食の材料を買うため寄ったスーパーで、キャベツを選びながら考えた。右手に持ったキャベツと左手に持ったキャベツ、どっちが巻きがぎゅっと詰まっていて重いのか。泥沼に沈む前に引き返そうという理性と、どこまでも突き進んでどろどろになって堕ちていきたいという欲望、どっちが重いのか。
比べているうちにわからなくなって、てきとうなキャベツをかごに入れる。家に着いたらメールを受信拒否して連絡を断とう。愛情でがんじがらめになって身動きがとれなくなる前に。いまなら引き返せる。
会計を済ませてサッカー台にかごを置いた瞬間、スマホが鳴った。取り出して画面を見ると母からの着信だった。
「もしもし?」
「おばあちゃんが亡くなったの。これから病院に来られる?」
祖母は長く施設に入っていたので、亡くなったと聞いても「ああ、とうとう……」という感慨しか湧かなかった。童女に戻り、さらに自分が何者なのかも忘れ、言葉も通じているのかどうかわからなくなり、そんな状態で何年も生きた。
翌日の夕方、通夜の準備が整って弔問客を待つあいだ、祭壇を眺めながらそばにいる兄に話しかけた。
「結局どんな人生でも最後は同じなのかなあって考えると、なんか虚しくなっちゃうね。一生忘れたくない思い出もきっとあったはずなのに、全部忘れて、なにもできなくなって、それでもなかなか死ねないの、つらすぎる。老いって残酷だよ」
思春期以降、兄とは表面的な話以外はする機会がなかった。にもかかわらず感傷的な気分になっていたせいで、ついそんな言葉が口をついて出た。
「そう? 施設に行くたび、認知症も悪くないなって俺は思ってたけど。厭なことを全部忘れて死の恐怖からも解放されて子どもに戻れるの、よくできたシステムだと思うよ」
そんな考えもあるのかと驚いた。
コロナ禍での少人数の葬儀が終わり少し経ってから、「遺品整理を手伝って」と母に言われ、祖母の家に向かった。
玄関に入るときれいなパンプスが散乱していた。フェラガモ、プラダ、イヴ・サンローラン、グッチ。靴のまんなかにいた母が顔を上げた。
「あ、奈都子。いらっしゃい。靴の整理してたの」
「着道楽で買いもの中毒気味だったもんね、おばあちゃん」
「履いてみて」
促されて、手前にあったパテントレザーのパンプスに足を突っ込んでみる。
「あ、ぴったり」
「よかった。欲しいの持っていって」
「いいの?」
「ほかにサイズが合うひとがいないから」
私はしばらく靴を物色していたが、顔を上げて嘆息した。
「……新品同然の靴ばっかり」
「歩くの嫌いで近い距離でもタクシー使ってたからね。膝が悪かったし」
「それにしたって──」
ろくに履かない靴を買う、これほど虚しく切ないことはないように思えた。
靴はどこかへ行くためのものだ。見たい景色のある場所へ、会いたいひとのいる場所へ。祖母はこれらの靴を履いてどこへ行きたかったのだろう。彼女がだれにも語らずに呑み込んだ幾多の感情は、脳に立ちこめた靄に隠れ、命とともに消えてしまった。
その夜、夢を見た。
私は鉄でできたパンプスを履いている。それはあまりに重たくて、足を持ち上げようとしてもびくともしない。強力な磁石で床に貼りついているのかもしれない。なんとか歩こうともがいていると、足もとが濡れていることに気づいた。どこからか水が流れてきているらしい。
みるみるうちに水は勢いを増し、水位が上がっていく。胸まで浸かり、顎に届き、もうじき口まで来てしまうという瞬間に飛び起きた。
しばらく夢を反芻していたが、胸の谷間に滲んでいた厭な汗を拭い、枕もとに置いてあるスマホをさぐる。受信拒否を解除し、メールを打ち込んだ。逡巡する前に送信ボタンを押す。
『つぎはいつ会える?』
たった一行だけのメールがきちんと送信されたことを確認してから、また枕に顔を埋めた。となりに手を伸ばして和樹の二の腕に触れる。そこから下へ降りていき、手を繫いだ。ごめん、と呟くが、和樹は熟睡していて目覚めない。自分のしている裏切り行為に愕然としながら、アクリルの板を介しているかのように現実感は希薄で、疚しさもどこか他人ごとだった。
スミスマシンの下のベンチに仰向けに寝て、バーがバストトップの真上に来るよう調節する。両肩を下げて肩甲骨をぐっと中央に寄せ、胸を張った姿勢でバーを上げていく。ベンチプレス。効かせるのは大胸筋、上腕三頭筋、三角筋だ。
十二回を五セットこなすと、つぎは大胸筋の上部を刺激するため、ベンチに角度をつけてインクラインベンチプレスをおこなう。下半身の日、腹筋の日、上半身の日など部位を分けて集中的に鍛えたほうがいいと聞くけれど、毎回全身をくまなく疲労させたかった。
足のつかない深さの競技用プールで端から端まで息継ぎなしのクロールで泳ぐのに似た、窒息しそうにがむしゃらなセックスを思い出しそうになるたび、それを打ち消すように歯を食いしばってバーを持ち上げる。もっと苦しく、極限まで。左右五キロずつウエイトを追加する。筋トレの苦痛はいくらきつくてもシンプルで混じりけのない肉体の苦痛で、感情とは遠く離れたところに存在していて、いまはむしろ癒やしだ。
尻尾がある側にも頭がついている蛇みたいなシリコン製の玩具をバッグから取り出し、「じゃーん」と悪戯っぽく笑って見せた。
「これはなんでしょう?」
「……双頭ディルドですか」
Yは眉毛をハの字にして、困ったような羞じらうような表情を浮かべている。
「当たり! こっちの太いほうとこっちの細いほう、どっちがいい? 選ばせてあげる」
「細いほうで……」
「そう? 遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃないです……」
ローションのボトルを手に取り、ディルドの両側に垂らしてまぶす。片膝をついて腰を浮かせ、その片方を自分の脚のあわいにあてがった。息を吐きながらぬるりと呑み込む。圧迫感に、んん、と声が洩れた。
「四つん這いになって後ろ向いて」
すでにバックドア用のローションをたっぷり使ってほぐしておいたYのすぼまりに、自分から生えているディルドを押し当てる。
「力を抜いて。ゆっくり息吐いて」
片手でYの腰を摑み、もう片方の手でディルドを支えて、腰を突き出していく。少しずつ先端がめり込み、Yは呻き声を上げた。
「痛い?」
「だいじょうぶ、です……」
けなげに耐えるようすにたまらなくなり、一気に突き立てたくなるけれど、傷つけないように浅いところでゆっくりと抜き差しする。動くたびに私は粘膜をこすられ、奥を抉られ、甘い快感が臍下から背すじへ駆け抜けてだらしなく声を上げる。Yに覆いかぶさる体勢になり、腰の動きを速めた。
「ああ、すごい」
肉体の快感以上に、脳が熱暴走するみたいにかあっと熱くなってエラーを起こし、勝手に絶頂を迎えてしまう。
「ごめんね、苦しいよね。──あ、またいく」
口では謝りながら、私は全身を痙攣させてさらに深く繫がろうとする。
あるときから、今後起こる事柄は過去の経験のカラーコピーに過ぎないという諦念を抱えていた。すでに知っているし、最初の鮮やかさを失っている。人生観が変わる一冊に出会うことはないし、怖いほどうつくしい夕陽を見て涙を流すこともない。残っている未経験な事柄は介護、肉親との死別、闘病、そして死ぐらい。
だけどいま、目前にははじめて見る景色が広がっている。下品で倫理に反する、だれにも話せない景色だけど。だれの足跡もない無垢な新雪を踏みしめている。
Yの呻き声と私のあえぎ声が二部合唱のように重なる部屋で、何度も達して彼を求め続けた。
『窮屈で自由な私の容れもの』は全4回で連日公開予定