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 妊活をやめて半年から一年のあいだに、立て続けに身近な女性が妊娠した。とくに、四十過ぎの同僚が結婚相談所で知り合った相手と結婚して、半年ちょっとで産休に入ったときは動揺した。──やっぱり諦めるのが早すぎた。感情が乱れたけど、再開する勇気はなかった。無駄にした期間を後悔してつらくなるのが怖かった。

 そんなとき、ふと閃いたのが養子という方法だった。

 インターネットで毎日何時間も調べ、パンフレットを取り寄せ、実際に特別養子縁組で里子を家族にしたひとのエッセイ本も購入して熟読した。単なる思いつきから、具体的な暮らしがありありと思い描けるようになった。むしろ、自分の子を産み育てるよりも想像しやすかったかもしれない。私と和樹、そして血は繫がっていないけれど大事な家族である子。私たちが守って育てて、うんとしあわせな子ども時代を過ごさせるのだ。

 和樹に提案したときには、自分のなかですっかり考えが固まっていた。

「あのね、ちょっと思いついたんだけど」

 下調べ済みであることを悟られないように、軽い口調で夕食後に切り出した。

「なに?」

 キッチンで紅茶を淹れている和樹が振り向く。

「養子をもらうのってどうかな?」

 背にぴたっとくっついて言ってみた。真夏日の夜で、彼のシャツはしっとり湿っていた。

「うーん、養子に出されるってことは事情のある子だろ?」

 振り返った和樹は苦笑いのような表情を浮かべていて、あれ、と思った。予想していた反応とは違う。

「……それはそうだろうね。事情にはいろいろあるとは思うけど」

「子どもを預けなきゃいけないような親の血を引いている子って、どうなんだろう。遺伝なり環境なり、マイナス要因が情緒に影響しないのかな。やたら攻撃性があったりかんしゃく持ちだったり、育てづらい子だったら、やっぱり生みの親のせいで……ってことあるごとに思っちゃいそうじゃない?」

 予想していなかった言葉に、私は驚いて和樹から身を離した。

 学生のころの和樹はボランティア活動に熱心に取り組んでいた。児童館で子どもたちの勉強を見たり、障碍者や高齢者の外出を手伝ったり、ホームレスの炊き出しに参加したり。バイトと遊びに明け暮れるごく一般的な大学生だった私は、彼を立派だと思ういっぽうで、自分に時間を割いてくれないことに苛立ち、そんな自分の狭量さを嫌悪していた。それでいちどは別れたが、何年も経ってから偶然再会して結婚に至ったのだった。

 そんな彼が、子どもの出自に対して否定的なことを言うなんて。ショックだった。はたちのころの彼はどこに行ったのだろう。急に知らない人間に思えて、ソファに座ってテレビを見はじめた和樹の横顔をまじまじと見る。目の下のたるみやぼこぼこと目立つ毛穴。顎に肉がつき、顔全体の輪郭がぼやけている。

 ──これは、だれ?

 ひとつの文字をじっと見つめているとそれがなんなのかわからなくなるというゲシュタルト崩壊に似たことが、和樹の顔を見ているうちに起こった。すぐ横に知らない男がいる。つるんとした細面で、まっすぐな善意に満ちていた彼と、ほんとうに同一人物なのだろうか。いっしょにいることが当たり前になってきちんと向きあっていないあいだに別人と入れ替わったのではないか、なんてばかなことまで考えてしまう。

 でも、私にだって同じ歳月が流れている。しみやくすみ、ほうれい線、白髪。しかも不妊治療をやめたのに体型は戻っていない。ジョギングをはじめてカロリー制限をしているにもかかわらず。出会ったころからの変化は私のほうが大きいかもしれない。

 それきり養子の話はしなかった。パンフレットとエッセイ本は翌週の資源回収に出し、ブラウザから養子関連のブックマークをすべて削除した。

 

 バーベルランジを終えたら、レッグプレスのマシンへ移動する。シートに腰かけてウエイトのピンを八十キロの穴に刺す。息を吐きながら足で板を押して膝を伸ばし、さらに下半身の筋肉を追い込む。一セット、二セット、三セットとこなすうちに、ハムストリングスからふくらはぎにかけてがぷるぷると震え出す。

 Kポップらしき男性グループの曲が終わり、浮遊感のあるメロディラインとかすれた歌声がエモーショナルな女性ボーカルの曲に変わる。切なげに震えるファルセットのところで、目頭がじわっと熱くなり鼻の奥が痛んだ。すんと鼻を鳴らして、脚の裏側の筋肉に意識を集中させる。

 

 どうやってその掲示板に辿り着いたのかは憶えていない。寝つけない夜、ベッドでスマホをぼんやり眺めていて、気づけばその掲示板を開いていた。黒い背景に白い文字の、即物的な出会いを求めるアダルト掲示板。二十年ぐらい前のインターネットのにおいがする。とっくに機能していなくて、ほぼすべての書き込みが女の名前であやしげなサイトに誘導するスパム投稿だった。ただひとつを除いては。

『四十で童貞の男。いままでの人生、後悔ばかり。このまま老いて死ぬのかと思うと絶望しかない。つまらない仕事と自慰だけの生活。だれか気の毒に思ったら連絡ください』

 四ヶ月前の日付が記されたその投稿には、当然のようにひとつも返事がついていなかった。

 いまどき出会いを求めるなら、マッチングアプリなどを活用するものじゃないのか。こんなだれも見ていないであろう掲示板に投稿したところで、収穫があるとは思えない。でも、この男はマッチングアプリのスペックありきでがつがつした世界ではやっていけないだろうな、と自分も利用したことがないのに納得する部分もあった。

 居住地は同じ県で、あ、と思った。いままでネットを介してひとに会ったことなんていちどもなかった。しかもアダルト掲示板の書き込みだ。なぜメールを送ってみる気になったのか思い出せない。魔が差したとしか言いようがない。

 強いて言えば、仕事がリモートワークになって和樹以外とほとんど接しなくなったこと。業績悪化のため現在所属している部署がなくなりそうだということ。養子の話を拒まれてから和樹に感じている心理的な距離。ふたりのあいだにあったときめきをひとかけらも残さず使いきってしまったこと。ソーシャル・ディスタンシングな社会における、密なコミュニケーションへの渇望。どこにも行けないフラストレーション。四十歳が近づいてきてこのままでいいのかと焦る気持ち。和樹と互いにゆるやかに老いて健康を失っていきやがて死を迎える、そんな今後数十年がくっきり見透せてしまったこと。

 それらしい理由をいくら並べ立てたところで、後付けの醜い言い訳にしかならない。彼の孤独に私の一部が共鳴したこと、それだけが大切にしたい理由だ。

 以前ネットオークション用に取得したものの、いまは使っていないフリーメールのアドレスから、連絡を取った。四十歳まで女に縁のなかった男だ、どうせ怖じ気づいてやりとりの途中で逃げるだろうと思っていたが、メールの往復はスムーズではないものの続き、会う約束を取りつけるところまで行った。臆したのか、二度ほど予定をずらされて、ようやく会う日が決定した。

 一秒たりともかかわりたくない人物だったらすぐに逃げられるよう、人通りの多い一角にあるチェーンのコーヒーショップで昼間に待ち合わせた。来るか来ないか、五分五分だろうと考えながら早めに着いて待つ。同じ県といってもほぼ端と端で、彼の住んでいる山あいのまちからここまでは車で約三時間かかる。途中でわれに返ってばからしくなり、引き返したとしてもおかしくない。

 窓側の奥の席にいることと、黒いドット柄のワンピースを着ていることはメールで伝えていた。約束の時間を十分過ぎて、やっぱり来なかったかと嘆息して席を立とうとしたそのとき、「遅くなってすみません」と声をかけられた。

 顔を上げるとひどく恐縮したようすの男性が立っていた。教室の隅でひっそり過ごしていたおとなしい男子中学生が、悪い魔女に四十男のすがたに変えられてしまった。とっさにそんな想像が頭に浮かんだ。

「こんなみっともないおじさんでごめんなさい」

 私と同じぐらいの身長に見えるからだをさらに縮こめる。清潔感があって、着ているギンガムチェックのシャツが好みで、なんの期待もしていなかった状況ではそれだけで充分だった。

「いえ、年齢なら私もほとんど変わらないので」

 相手の緊張を解こうとにっこり笑んで言った。

 彼は口数が少なく会話は弾みそうになかったので、長居せずに店を出た。あらかじめ目星をつけておいたラブホテルに入り、まごついている彼を背にタッチパネルを押して部屋を決め、エレベーターに乗った。部屋に入ってマスクを外す。エアコンの効いた空気がマスクで蒸れていた顔に触れて、解放感でくらくらした。

 濃厚接触、というすっかり馴染んだ言葉が頭をよぎる。もしも彼が無自覚の感染者だったら。この部屋のどこかにウイルスが潜んでいたら。ぜったいに感染したくないし、和樹にうつすわけにはいかない。感染経路もどこまで隠し通せるものなのか。だけど、いつ割れるかわからない薄氷の上を歩くようなリスクを冒していることを意識すると、後ろめたさと同時に胸がすくような思いがして、これからの数時間への期待で身震いした。

 シャワーを浴びた彼がホテルのガウンを着て出てきた。

「おいで」

 ベッドに腰かけて待っていた私は、となりをぽんぽんと叩く。彼はぎこちない動作で座った。

「緊張してる?」

「あ、はい」

「じゃあリラックスしてもらおうかな」

 ベッドの枕もとに置いてあった備品のアイマスクを彼の目にかぶせて視界を奪った。バッグから化粧ポーチを出して、ベビーパウダーを取る。さらさらと彼のからだに振りかけていく。指の腹がわずかに接するように彼の肌に触れる。ベビーパウダーに皮膚の水分や油分が吸い取られ、摩擦がほとんどなくなり、皮膚が過敏になっているはずだ。

 指さきが脇腹に触れると彼は「あっ」とかすかな声を上げた。

「ふふ、女の子みたいでかわいい」

 内ももをなぞり上げ、鼠径部に指を滑らす。女に性的に触れられた経験のないからだだと思うと、私までぞくぞくした。こらえているらしく控えめだった声はじょじょに大きくなり、やがて身をよじりながらあられもなくあえぎ続けるようになった。

 全身にまぶしたパウダーの上に汗の玉がびっしり浮いているのを見て手を止め、彼のアイマスクを外した。目は切なげに潤んでいる。

 私はシャツワンピースのボタンを外し、するりと脱いだ。

「下着、脱がせて」

 彼の手を取って背へ誘導する。だが、ブラのホックに手間取ってなかなか外せない。

「いいよ、やっぱり自分で脱ぐから」

 笑ってホックを外し、ブラを取ってショーツも脱ぐ。

 はあ、と彼は半開きの口から吐息を洩らした。こんなに熱を帯びた目で見られるのはいつ以来だろう。

「ごめんね、中年太りの体型で」照れくさくなってつい自虐する。

「いえ、きれいです」

「ねえ触って」

 彼の手を取って自分のからだへ導く。

 

 夕方までホテルの部屋で過ごしたあと、近くにあるタイ料理店に入った。

 ひさびさの外食だった。さっきまで裸で抱きあっていたのに、いまは卓上に置かれたアクリルの衝立で隔てられて座っているのが奇妙に感じる。

「さっきまでホテルでしてたことと同じぐらい、外食するのに罪悪感ない? コロナ禍の前は日常的にしてたのに。パラダイムシフトっていうの? 社会の価値観ってこんなにあっさり一気に変わるんだね」

「そうですね」

「まあ、いくらパラダイムシフトっていっても、不倫が肯定される時代は私が生きてるあいだは来そうにないけど」

 妙な高揚感があってぺらぺらと話していたが、メニューを見ている彼が困ったような表情を浮かべていることに気づいた。

「どうかした?」

「僕、タイ料理ってはじめてで」

「ほんと?」

 いまどきそんなひとっているんだと驚いた。

「わからないので注文おまかせしていいですか」

 私は渡されたメニューをざっと見て店員を呼び、ヤムウンセンとガイヤーンとパッタイなどをてきとうに頼んだ。

 このひとに知らないものをいっぱい食べさせよう。パッタイについてきたナンプラーや唐辛子などの調味料セットを不思議そうに手に取る彼を見ながら、そう決意した。使い途のなかった母性がはけ口を見つけて疼いていた。

 彼は両膝をぴったりくっつけて椅子に座っていた。そういえば和樹は電車に乗る際に脚を開いて座りがちで、私はよく「もっと閉じてよ、まわりに迷惑だから」と小声で注意していた。そのたび「男は骨格的に座ると自然に脚が開くから、しょうがないんだよ」と言い訳されるが、たぶんそんなことはないのだ。

 帰宅してから彼の住んでいるまちをGoogleマップで眺めた。飲食店は定食屋やラーメン屋や居酒屋や喫茶店がぽつりぽつりとあるだけで、駅前でも片手で足りる程度の数の店しかない。確かにこの土地にずっと住んでいるなら、限られたものしか食べたことがなくてもしかたがない。メキシコ料理、ベトナム料理、南インド料理、トルコ料理、ロシア料理。毎回会う日が決まると店選びに力を入れた。Yははじめて見る料理を不思議そうに見つつ、どれもちゃんと食べてくれた。

 

 シットアップベンチに向かう。傾斜をきつくしてから仰向けに乗り、左右交互にひねりを入れた腹筋をする。ツイストシットアップ。腹直筋、腹斜筋。十五回を三セットこなしたら、傾斜をゆるめ、頭の位置を上下逆にして寝る。ベンチの頭側の縁を摑み、足を天井に向かって上げて腰を浮かし、そしてゆっくり下ろしていく。ドラゴンフラッグ。筋力不足でからだが一直線にならずに背がすぐベンチについてしまい、正しいドラゴンフラッグとは言いがたいけれど。これも十五回を三セット。

 インターバルを取っていると、換気のためどこかから入ってくる空気がひんやりと汗を冷やす。それを心地よいと感じたことに罪悪感を覚え、インターバルを切り上げて足を天井に伸ばした。

 

 

『窮屈で自由な私の容れもの』は全4回で連日公開予定