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第一章

 

 日比谷純が寝室のふすまを開けて隣のリビングに入ると、すでに朝食が並んでいる。すれ違うついでにあゆみがコーヒーの入ったマグカップを渡してきて、その熱さと、落としてはならないという意識で、一気に目が覚める。

「熱い……」

「砂糖二本、ちゃんと入ってるからね。自分でかき混ぜてね」

 ティースプーンまで渡してくる。というより、押しつけてくるような圧。これくらい強引にしないと、純がいつまでも寝ぼけ眼のまま食事することになるのを、二年間の同棲で彼女はしっかりと理解してくれていた。

 最近、純が記念日に買った多機能なトースターを駆使したいのか、あゆみのつくる朝食は毎日ほぼ食パンだった。基本的に純に拒否権はない。

 同棲したては隔日置きだった食事当番がそのうち週に一度になり、やがて月に一度になり、いまでは完全にあゆみの当番になっていた。純にやる気がないわけではなかったが、情熱がいつも実力に紐づくとは限らない。やりたいこととできることは違うのだと、純は大学と職場と恋人との同棲生活のなかで実感してきた。とにかく、食事に関しては完全に頭が上がらないので、純ができることといえば、朝食ができる直前に聞こえるポットのお湯が湧く音で、しっかりとベッドから出ることくらいである。

 テーブルについて、いただきますと手を合わせる。お互いの仕事が忙しくても、趣味の映画やゲームに時間を使い過ぎて寝不足でも、朝ご飯はなるべく一緒に取る。テレビはつけない。それが二人のルールだった。同じ空間で過ごす時間が一日に少しでもあれば、お互いの立っている場所がすれ違わずに済む。

 この時間は関係を円滑に進めるための指標でもあり、いつもより時間が短ければ黄色信号、逆に長くても、どちらかが何か悩みを抱えていて、支える必要がある合図。短くもなく長くもなければ問題なし。今日も平常運転で、頑張ろう。純はそんな風に認識している。

「そういえば、コンテ、読んだ」

 わきから純のプリントアウトしたコンテの束を、あゆみが出してくる。指についたパンのカスがそのままコンテ紙の端についたが、気にしない。

 純の勤める映像制作会社内で、全社員を対象にしたCM企画コンペがあった。一分の長さでコンテを切って、採用されればディレクターと兼任で現場に立てる。基本的に社内で不定期に行われるイベントらしく、純が入社してからは初めてのことだった。何かのチャンスだと思い、普段はCG処理と映像編集に追われる純も、珍しくやる気を出してみた。コンテの提出は三日後に迫っている。

「どうだった?」

「ここの女性が男性に言うセリフ。『いま合いたい。百日目とかじゃなくて、いま合いたい』っていうところ、誤字だと思う。合うっていう漢字じゃなくて、会うのほうでしょ?」

「いや、まあそうだけど。そうじゃなくてさ、もっとこう中身の感想とかが欲しいんだよ」

「いやいや、大事な中身のひとつでしょう。誤字一つでニュアンス変わっちゃうもん」

 あゆみは本気で言っている。こういう、絶妙に天然なところは魅力の一つだが、いまは発揮されて欲しくなかった。出かけるときに自転車の鍵と間違えて乾電池を持って行ってしまうとか、そういう部分で魅せてほしい。

 あゆみのズレた指摘に気づけばムキになって、純はこう返していた。

「別に誤字ってほどでもないでしょ。合うでも通じるでしょ」

「ギリギリ通じなくはないけど、言葉が重くなるっていうか、これってそこまでのシーンでもないでしょ? 合うっていうより、やっぱり会うのほうでしょ」

「会うじゃなくても合うでいいじゃないか」

「だから合うじゃなくて会うにしちゃうと、じゃなくて会うじゃなくて合うにしちゃうと、……ってもう、訳わかんない」

 純は食い下がる。

「会うじゃなくて合うにしたけど、合うじゃなくて会うに変えるべきかどうかっていう話をしているんだよ」

「あうあうしつこい。アシカかあんたは」

 そうやって鳴くのはオットセイだ、と返して、そのままお互いに拗ねて、コンテの話は終わりになった。あゆみが先に食べ終わり、皿を下げ始める。純はいつも食べるのが遅い。今日はスマートフォン片手に『合う』の意味を調べていたから、さらに遅くなってしまった。

 遅くもなければ早くもない朝食。ちょうどいい時間だが、寸前の小さな喧嘩のせいでちょっと後味が悪い。純が切りだそうと思っていた話題が実はもう一つあったのだが、それは持ち越しになりそうだった。

 キッチンのほうからあゆみが言ってくる。

「今日、ちょっと遅くなるから」

「何か用事?」

「うん」

 こういう用事があるのだ、と説明が続くのを純は待ったが、あゆみはそこで黙ってしまった。純もしつこいと言われたばかりなので、深くは追及しないことにした。たぶん、友達と食事の予定でもあるのだろう。共通の友達は多いので、純も知っているひとかもしれない。

「皿、置いたままにしといて。一緒に洗うから」純が言った。

「ありがとう。そうする」

 純が食事をする横で、あゆみは外出の準備をはじめる。すでに出勤用のスカートを穿いていたのに、なぜか思い出したように寝室に戻り、ジーンズに穿き替えて戻ってきた。

「ねえこれ、おしりのところちょっとダボダボじゃない? 痩せたかな?」

「見てあげる」

 確認するが、途中で手を撥ねのけられた。手つきが変態だ、と批難するような視線を浴びる。

 姿見で最後に確認して、出勤用のリュックサックを抱えてあゆみは去っていく。なかにはいつも、カメラ関係の機材がぎっしり入っている。あゆみも純と同じく映像制作系の会社に勤めており、仕事はカメラマンと、撮影用のドローン操縦士を兼任している。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

「あ、トイレットペーパーもうない」

「買っとくよ」

 玄関のドアが閉まり、一人になる。『合う』の検索結果が表示されたスマートフォンをわきに置いて、純は残ったトーストにかじりつく。

 

 

 リビングを出て、廊下の先にある仕事部屋に入る。デスクトップパソコンを立ち上げている間にチャットアプリに勤怠報告のメッセージを入れ、仕事にとりかかる。午前中は昨日残ったタスクを片づけるところから。飲料メーカーのCM映像の修正で、ドリンクを飲んだ女子高生風のモデルの背中から、白くたくましい翼が広がり、その勢いで白い羽毛があたりに舞っている。この羽毛が多すぎるので、すこし減らしたいという指示だった。

 女子高生の周辺から羽毛を消している作業の間、電話が一本かかってくる。上司や同僚かと思ったら、大学時代からの友人であるひろだった。

「もしもし」

「おう純。でたか」

「何か用?」

「用がなくても電話をくれる友人を持っていることを、お前はもっと感謝するべきだと思うんだけどな」

 用がないなら切りたかった。

「別に広瀬以外にもいるよ」

「たとえば?」

「莉子と隼人」

「みんな芸大仲間じゃねえか」

 それはノーカウントだ、といわんばかりの溜息が電話の奥から聞こえてくる。いま挙げた二人と、それから広瀬、そしてあゆみの五人で、芸大時代はいつもつるんでいた。もっとも、その頃から純はあゆみと付き合っていたわけではなく、そういう関係に発展するのは一度卒業し、疎遠になりかけた後のことだ。五人が変わらず交流を続けられているのは、社会人になってからのある出来事がきっかけとなっているが、それを思い出しながら作業するほど純は器用ではない。この電話も早く切りたかった。

「それで、本当になんの用?」

「うちの工房に今度、近くの小学校の生徒たちが社会科見学で来るんだ」

「すごいじゃん」

「革の加工体験をやるんだが、わかりやすい映像資料をつくりたい」

「それを手伝えってことか」

「勘の良い友人が俺は好きだ。やってくれるよな」

 唐突で強引。普段なら面倒くさくて断るところだが、小学生相手、というのがズルい。そういう、微妙に断りきれない話題を持ってくるのも広瀬らしい。

「いつまで?」

「来週中。使いたい資料の画像や映像はもうそろえてある」

 コンペの準備と重なる。だけど向こうもそれなりに準備を終えている。できなくはない。

「後で送っておいて。長さの指定もあればそれも添えて」

「さすがだ。ありがとう」

「請求書は二割増の料金で送るから」

「……さすがだ」

 親しい仲であっても、サービスというわけにはいかない。純だって広瀬に何か仕事を頼むことがあればそうする。芸大時代の広瀬は工芸と彫刻をメインに扱っていた。いまは父から継いだ自宅兼工房で、革製品の製造や彫金、彫刻、それから布染めに、最近はガラス工芸にまで手を出そうとしている。とにかく、ハンドメイドしていくことに対して強いこだわりを持つ。広瀬の工房は純が住んでいるマンションからも、それほど遠くない。

 話しているうちに思いつき、ひとつ訊いてみることにした。

「あのさ、今日ってあゆみと食事の約束とかある?」

「あゆみと? 別にないけど。なんで」

「いや別に」

「……何かあったのか。あいつ今日は普通に出勤じゃないのか?」

「何もないって。外出の用事があるって言われたから」

「わかった。行き先までは教えてもらえなかった、とかか」

「勘の良い友人は嫌いだ」

 意趣返しをして、広瀬が笑う。まあ広瀬ではないと思っていた。残りの友人二名、莉子と隼人に会うわけでもないのだろう。そもそも誰かと会うと勝手に決めつけているが、それも正解とは限らない。いつものあゆみは丁寧すぎるくらいに用事の共有をしてくるので、今日の様子が少し気になっているだけだ。

「最近はどうなんだよ? 前は順調だって言ってたけど」

「変わらず順調だよ。いまはそうじゃないみたいな言い方するな」

 広瀬がまた笑う。

「例のあれは? プロポーズ。するって言ってた」

「……まだできてない」

「いくじなしだな。簡単じゃないのはわかるけどさ」

「うるさい」

 あゆみを除いたなかで純が一番付き合いが長いのは広瀬だった。話してみると妙な共通点があり、それが交流のきっかけとなったのを覚えている。たとえば、広瀬とは誕生日がまったく同じだった。血液型も同じB型で、好きな食べ物や苦手なものもだいたい同じ。そしてなんと、アレルギーも同じ。果物のカキと埃がダメだ。

 基本的に適当で調子の良い奴だが、純が何か相談をもちかけるとしたら彼以外にはいない。

 

 

「君が失くした「恋」の相手」は全3回で連日公開予定