「将来のこととかどれくらい考えてる? って、それとなく訊いてみようと思ってるけど。なかなかタイミングがない」
「いつもの朝の時間は?」
「切り出す前に、さっき喧嘩した」
「俺はお前とあゆみ、両方とも好きだ。だがどちらかといえばあゆみが好きだ。だから何か痴話喧嘩があって、どちらかの味方をしなくちゃいけなくなったら、俺はあゆみのほうにつく」
「お前、たまには嘘で本音を隠せ」
話しながら作業を進めていたせいで、羽毛を消し過ぎていたことに気づく。女子高生の背中には翼がたくましく生えているが、羽毛がないせいで妙に無骨で、かつ人工的に見える。解放されていることを演出したいはずなのに、逆に不自由な印象になってしまった。
「もしかしたら、あゆみはさ──」と、純が続けようとしたところで、広瀬がさえぎって言ってくる。
「悪い。予約客が来たからもう切るぞ。映像よろしくな。あとで送る」
一方的にそのまま電話を切られる。向こうからかけてきたくせに、まるでこちらのほうが用事があって電話をかけたみたいな雰囲気になっているのが、最後まで許せなかった。
再び一人になって、純は消し過ぎた羽毛を足していく。終わる頃には昼になっているだろう。今日のタスクが早めに終われば、残った時間はコンテの修正にあてる予定だった。
そして夜になればまた、この家は二人の空間になる。
夜の九時を過ぎても、純は一人のままだった。あゆみはまだ帰ってこない。仕事で遅くなることはあっても、たいてい夜の八時頃には一度連絡がある。今日はそれもなく、すでに何通か純からメッセージを送っている。露骨に心配を伝えるものではなく、こちらは仕事が終わったとか、夕飯はどうする? とか、遅くなるなら一緒に出前を取るけど、とか、そういう内容のメッセージ。いずれも返信はない。
言っていた用事が長引いているのだろうと思い、一人で夕飯を済ませ、先に風呂にも入った。コンテの修正をしながらあゆみの帰りを待ったが、いつまでも玄関ドアの開く音は聞こえてこなかった。
一一時を過ぎても連絡はなく、そこで一度電話をかけたが、やはりあゆみは出なかった。広瀬たちにも確認の電話をしようと思ったが、一緒にいるならそれを伝えてくるはずだ。彼らと一緒ではない。
それほど長い用事なのか。もしくは何か事故にあったのだろうか。事件かもしれない。帰っている途中で何かあったのではないか。とうとう、なりふりかまわず広瀬たちに電話をした。広瀬と莉子はすぐに出て、あゆみのことは知らないと告げてきた。睡眠不足らしく、莉子のほうは少し不機嫌そうだった。デザインの締め切りに追われているそうだ。
隼人は出なかった。昔から間が悪いというか、こちらの望むタイミングで望むことをしてくれない男なので、しょうがない。寝ているか飲んでいるか、あるいは残業しているかのどれかだろう。莉子以上に仕事に追い込まれているのかもしれない。アニメーターは苛酷と聞く。
芸大仲間たちに片っ端から連絡を取っていたせいで、妙な記憶がよみがえる。友人というほどでもない知りあいがかつて、付き合っていた恋人が失踪したと言って騒ぎを起こした。警察にも連絡し、結局そのあとでバイト先にできた浮気相手と引っ越していたことが明らかになった。
あゆみに限ってそれはないと信じたい。けれど、可能性がゼロであると断じる根拠もない。普段のあゆみが浮気をするような性格ではなかったとしても、自分の何かが影響を及ぼして、追い詰められたあゆみにそういう行動をさせてしまったのかもしれない。でも、これといった原因が特に思いつかない。
あるとすれば一つだけあるが、それだけは認めたくなかった。付き合うとき、自信のなかった純に、あゆみはこんな自分でもいいと言ってくれた。その言葉の効力はいまも続いているはずだと、そこだけは揺るがずに信じたい。
内向的な自分とは違い、あゆみの交友関係は純よりも広い。物事の半径が、きっと自分より寛容で大きいのだ。純よりも多くの人に手を差し伸べるし、気軽に声をかけることができる。あゆみの温かさのようなものに、まわりも惹かれて自然と集まってくる。そのなかに、純よりも魅力的な者が一人もいないとは言い切れない。
夜の二時を回る。警察に連絡しようか迷って、結局やめた。連絡はしない代わりに今日は起きていようと決める。初めはひたすら心配だけで支配されていた心が、やがて眠気も手伝って苛立ちが混ざり始めていた。無事に帰ってきたらまずどんな言葉をかけようか。寄り添うべきか、責めるべきか。
SNSとネット記事、それからテレビを点けて調べてみたが、各携帯キャリアが電波障害を起こしたり、どこかで停電になったりというニュースはなかった。スマートフォンをしまおうとしたところで、今朝から開いたままのタブが一つだけあった。『合う』という言葉の検索結果と意味が、そこに表示されていた。
合う。二つ以上のものが近寄って、一つになる。調和する。一致する。食い違いがなく、合致する。助け合う。寄り合う。息が合う。馬が合う。今朝あゆみが言っていたとおり、確かに『会う』という言葉よりも、より大切で重要な雰囲気がある。コンテもさっき、『会う』のほうに修正した。だから帰ってきてほしい。なんでもいいから、無事でいてほしい。
駅前にある総合病院から純のもとに電話がかかってきたのは、朝の九時ごろだった。
「日比谷純さんでお間違いないですか?」
こちらの氏名を確認してきたあと、相手はあゆみの受け入れを担当した看護師であると身分を明かし、彼女は意識の混濁状態にあると説明してきた。看護師はあゆみのスマートフォンを調べ、直近の着信履歴の番号を知り、純にかけてきたらしい。
「意識の混濁って、どういうことですか? いまはどうしてるんですか?」
「搬送されたときは眠っていらっしゃいましたが、さきほど目を覚まされて、若干の混乱状態にあります」
「搬送っていうのは?」
「輸送トラックの運転手の方が北條さんをお連れになりました。面識はなく、近くの伊田智山の国道沿いを裸足で歩いていたそうです」
伊田智山の国道。隣の市との境界にそびえている山で、その国道とは、つまり山中の道だ。どうしてそんな場所にあゆみが? しかも裸足と言っていた。いったい何が起きている。
「とりあえず、いまからそちらへ向かいます」
「失礼ですが、北條さんとのご関係をお伺いしても? もしくは北條さんのご両親などの連絡先はご存じでしょうか」
「私はあゆみの恋人で、現在同棲しています。あゆみの両親と、あと祖父母も県外に住んでいて、すぐには来られないはず」
「なるほど、わかりました。そうしましたら、受付でわたしの名前を出していただいて──」
看護師から受付の手順を聞いたあと、純は素早く着替えて外に飛び出した。駅の方へ向かいながら、通りを走っていたタクシーが信号で止まったところで乗り込み、そのまま病院を目指した。
途中で電話がかかってきて、出ると芸大時代の仲間の一人である隼人だった。
「すまん、仕事が詰まってて。修正めっちゃハードだったんだ。いますごくプリン食べたい。で、何か用事だったか?」
「あゆみが病院に搬送された」
「は?」
「いまから様子を見にいってくる。莉子と広瀬にも昨日電話してたから、伝えておいてほしい」
「いや、ちょ、病院て──」
タクシーが病院に到着し、電話を切る。ほぼ衝動的に飛び出していたから財布を持ってきていたかいまさら心配になったが、無意識に持ってくるくらいの理性は備えていたようだった。支払いを済ませて、そのまま受付に向かう。
電話を交わした看護師の名前と、入院中の北條あゆみの氏名を告げると、廊下奥の一〇四号室です、と案内を受けた。駆けたい衝動にかられたが、前から看護師と車いすのお年寄りがやってくるのが見えて、早足でこらえた。
病室から医師と看護師がでてくるところだった。看護師の名札を見て、電話に出ていた相手だと気づく。
「日比谷です。電話をもらってきました」
「北條さんは先ほど目を覚まされました」
医師のほうが説明してくる。
「意識の混濁とさきほどお伝えしていたようですが、すみません、訂正します。正しくは記憶の混濁です」
「記憶の混濁……」
「これから精密検査があるので、それまでの間はお話しできますが、どうかあまり刺激されないように、ご注意ください」
純が病室に入れるよう、二人がわきによける。個室になっていて、ベッドも一つだけだった。純以外には誰もいない。
窓際のベッドまで近づいていく。仕切られたカーテンの間から、寝ている彼女がわずかに見えた。記憶の混濁。昨日のことを覚えていないとか、そういうことだろうか。
カーテンを開けて、純はあゆみに顔を見せる。
「あゆみ?」
呼びかけに応じて、窓のほうを見ていたあゆみがこちらを向いた。純に反応し、少しだけ目を見開く。それから、薄く口を開けるいつもの癖。目の横に絆創膏が貼られているが、ほかに目立つような大きな傷もなく、昨日の朝、出ていったときとほとんど同じに見えた。
「あゆみ大丈夫? 何があった? いくら電話かけても──」
「あの、すみません」
あゆみが遮ってくる。すみません? なぜそんな言葉づかいをするのだろう。混乱しているうちに、やがてまた仰々しく、こちらを探るような目つきで、彼女が言ってくる。
「どちらさま、でしたでしょうか」
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