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「可能性といえば、面白い話がある。撃たれるか撃たれないかは、あ、いいや、コイントスに例えたほうが良いかな、コインを投げて表と裏のどちらが出るかは、観測によって結果が確定するんだ。こういう言い方だと当たり前のことのように思えるけれど、これは物理学において、とても不思議な現象なんだよ」

 彼は、グラスの中の残り少ないワインを揺らし、ニヤリと笑った。

「このグラスは量子で満たされている。グラスの中だけじゃない、万物は量子で構成されている。空気も光も、僕たちの肉体も、すべては量子の塊に過ぎないんだ。この量子なんだけれどね、原子よりも小さくて、もちろん肉眼では見えない。ただし、実験でその動きを測ってみたところ、明確な形を持たない、揺らぐ波のような状態で存在していることが明らかになった。ところがだ、今度は電子顕微鏡でその姿自体を観測してみると、なんと、ただの直線的に動く粒だったんだ。ちなみに、このときに再び動きを測ると、その測定結果さえも直線的な状態を示す。つまり量子は、あらゆる可能性を保持した曖昧な状態で存在しているのに、人が観測した途端に、一つの状態に収束してしまうんだ」

 興が乗ってきた泰司は、グラスを手近なカウンターに置き、両手を広げた。

「ここで先程のコイントスの話に戻る。量子をコインに例えると、表と裏が重なりあった状態、つまり二分の一の確率を保持したまま存在していると言える。ただし人が観測すると、表と裏のどちらかに結果が確定してしまう。しかしね、人による観測の有無が、量子の特性に影響を与えるのは不自然だ。そこで考えだされたのが──」

 泰司がひときわ声を張ったとき、それを遮るように、別の声が割って入った。

「多世界解釈ですね」

 ひどく掠れたダミ声である。その声の主は、音もなく一階のキャビンから上がってきたらしく、知らぬ間に耕一たちの背後に立っていた。

 パーティの席はしんと静まり返る。一同は声の主に視線を注いだ。少し離れたところにいる吾郎と宗助さえも、口を閉ざすのも忘れて、一心に見つめている。セミのような特徴的な声のせいでもあるが、しかしそれより、声の主の風貌が、あまりに異様であったからである。服は上下黒で、珍しくはない。問題は首から上。おお、その顔、その顔は凍ったように微動だにせぬ。それは明らかに作り物の顔。白い、シリコン製と思しき覆面で、頭全体が包まれていたのであった。口と鼻、眼の周囲には小さく孔があいているが、そんな程度では表情は読み取れず、不気味な、なんともいえぬ、妖気を誘う佇まいである。

 彼だけは横浜の港ではなく、つい先程、串本港で合流したために、まだ誰もまともに相対していない。一同が、その覆面姿を拝んだのは、いまが初めてなのであった。

 なおも冷たい沈黙が流れている。足元から這い上がってくる戦慄に怯えて、誰もが声を出せずにいる。しかし、当の覆面男はどこ吹く風で、飄々と言葉を継いだ。

「……多世界解釈。コインを投げて表が出た世界と裏が出た世界、二つの並行世界が存在すると仮定する。これなら、二分の一の可能性は保持されたままですね」

 噛み砕いて表すと、観測者の行動によって、世界は分岐するという話である。

 お株を奪われた泰司は、忌々しげに、苦笑いを浮かべた。

「ご名答。あなたの言うとおりです。ところで、あなたは何者ですか?」

 その問いに答えたのは、覆面男ではなく、彼の後方に控えていた猪又左衛門であった。

「彼の名はイッコウ。わしが、龍穴島のガイド役として、雇ったのだ」

 紹介された覆面男イッコウは、一同に対して、軽く頭を下げた。

「イッコウです。宜しくお願いします」

 簡素な挨拶を見届けた左衛門会長が、デッキ中央のテーブルへと、緩慢に歩きだす。それを合図に、一同は我に返って、慌てて一礼した。

 この猪又商事の会長、猪又左衛門こそ、彼らが乗る船のオーナーにして、財宝探索を企画した張本人であった。やる気に満ちているのか、その装いは、裾の締まったニッカズボンにネルのシャツという、まるで探検家のそれ。しかし、物凄い威厳を放っている。彼は戦前の生まれで、すでに百歳に迫るというのに、杖も使わず、背筋はピンと伸び、そして、鬱蒼と蓄えられた髭と鋭い眼光が、探検ゴッコに興じるただの老人ではなく、巨大な組織の頂点に立つ存在であるということを、ありありと物語っていた。

 猪又左衛門は、希代の成功者である。その華々しき道の始まりは、戦後まもないころに遡る。彼は横浜野毛地区のヤミ市にて第一歩を踏み出した。密かに米兵などを通じて衣料品や日用品を輸入し、それらを売りさばいて財を成したのである。その際の知見を活かして猪又商事を立ち上げたのが昭和二十五年、折しも世間は朝鮮戦争による特需に沸いていた。その時流が追い風となり、同社は瞬く間に発展した。いやいや、発展の理由は時流だけにあらず。左衛門自身に備わっていた冷徹な才覚が、とある不幸によって、否応なく引きずりだされたのである。それは、創業から数年後のことであった。左衛門の妻と息子が船舶事故に遭って、二人とも命を落としてしまった。その憂いを晴らすかのように、左衛門は鬼神の如く仕事に打ち込み、業績を押し上げたのである。猪又商事は、商社の中では歴史が浅い。ましてや一族経営である。それにもかかわらず、いまでは並みいる競合他社を押しのけて、年商四千億を超す一大企業に成長したのであった。

 それはさておき、テーブルの脇に立った左衛門会長は、空のグラスを手に取った。

「さっき銃声が聞こえたが、撃ったのは、吾郎だな?」

 その威圧的な低声を背景に、喜代子がグラスへワインを注ぎ入れる。一方、名指しされた吾郎は、猟銃を握り締めたまま、床の一点を見つめて細く唸った。

「しゅ、祝砲ですよ……」

「ほどほどにしとけよ」

「分かりましたよ。そんなことより、大おじ、あの格好はなんですか?」

 吾郎は顎を振ってイッコウを示した。白い覆面で顔を隠した姿に不安を隠せぬ様子である。その気持ちは他の参加者たちも同様であった。五月の初めとはいえ、南方の海の上ともなれば、夜になろうと熱気を帯びている。そんな中、あのような通気性が悪いであろう覆面で頭全体を覆うとは、尋常の神経とは思えぬ。菊田耕一も、言葉こそ発しはしなかったが、疑問の答えを求めて、左衛門会長に視点を定めた。

 左衛門会長は、短い逡巡ののちに口を開いた。

「彼の姿、それは──」

 と、そこまで言ったとき、その続きをイッコウ自身が引き取る。

「火傷の痕を隠しているのです。私は龍穴島の土地の一部を受け継いでいまして、価値のない荒地ですが、隣接地との境界を維持するため、定期的に島に渡って保守管理をしています。そしてある日、噴火に巻き込まれました。ご存じかと思いますが、龍穴島は十年前から何度も噴火しています。私は、その際の熱泥を浴び、それで……」

 イッコウはゆるりと覆面に手をかけ、それを顎のあたりまでめくった。仄かに赤い、ドロドロと溶けたような肌が、そこにはあった。

 

「流血マルチバース」は全4回で連日公開予定