登場人物が全員死んでいるミステリー『クローズドサスペンスヘブン』でデビュー以来、チャレンジングな作品を発表し続けている五条紀夫。そんな奇才の最新作は、3つの分岐した世界で描かれるマルチバース×孤島ミステリー。読む者の選択によって物語が変わるというアクロバティックな設定だ。
書評家・渡辺祐真さんのレビューで『流血マルチバース』の読みどころをご紹介します。
■『流血マルチバース』五条紀夫 /渡辺祐真[評]
無人島で起こる凄惨な連続殺人事件、読者の「選択」によって物語が三つに分岐する
五条紀夫は、2023年に新潮ミステリー大賞の最終候補に名を連ねた『クローズドサスペンスヘブン』によって、世に姿をあらわした。その筆致は、当代の文学に巣食う定石やお約束を弄ぶかのように逆手へと翻し、読み手の胸をざわつかせる奇手・妙手に満ちている。現世ならぬ死後の世界を事件現場に選び取り、太宰治の『走れメロス』の各所で殺人事件を起こし、亡き町内会長が突如として息を吹き返す殺人事件ならぬ蘇生事件と、怪奇極まれり。
そして『流血マルチバース』である。本書を紐解くと、五条紀夫と思しきオカルト作家が読者に向かって語りかける。曰く、たまたま出会った女から妙な話を聞いたので小説に仕立ててみた、と。その上この物語ときたら、読む者の選ぶ筋道によって、三つの世界に枝分かれするというのだから、いよいよ常道ではない。訝しみつつ頁を繰ると、舞台は太平洋に孤立する無人島、その名も「龍穴島」へと向かう船上へ移り変わる。龍穴島には旧日本軍の財宝が眠るとの黒い噂があり、それを追う貿易会社の会長一派、十年前に同島で起きた噴火を生き延びた兄妹、そして同じ噴火で大火傷を負ったためシリコン製マスクで素顔を隠す男らが乗り合わせている。それぞれが思惑と過去を抱え、重苦しい海霧をかき分けるように進むその船旅は、やがて島に伝わる四首の短歌になぞらえた連続殺人事件によって凄惨な裂け目を生じさせるのであった。
勘のよい読者諸賢ならすでにお気づきのように、この舞台設定には横溝正史や江戸川乱歩を思わせる怪奇趣味が漂っている。ミステリ好きならば過去の名作に対して「あそこでこう立ち回っていれば、物語の行方も変わったのではないか」と妄想に耽ることもあるだろうが、本作はそのもしもを実際に体験させる。しかも面白いことに、その文体までもが、近代の文豪たちの筆致を巧みに模してみせる。そもそも五条紀夫の凄みは正統な近代文学の継承者たる文体と精緻な作劇にある。どこまでも異端な仕掛けを施す作家の、最も正統な小説をぜひ堪能されたい。