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原点O   ──Origin

 早朝に横浜の港を発った船は、紀伊半島串本港にて燃料を補給すると、一路、太平洋に浮かぶ無人島、龍穴島へと、緩やかに舵を切った。五月一日、夜十時のことである。

 空は厚い雲に覆われていて、星一つ見えず、海面には月影すら射していない。その代わり、船のデッキには、舞台照明を思わせる人工的な光が煌々と灯っていた。その光が、かえって闇の深さを際立たせている。

 デッキ中央には軽食と酒が並べられたテーブルがあり、その周りには複数の男女が集まって、わざとらしく笑い声などを散らしていた。船旅の始まりを祝うという名目の、ささやかな船上パーティである。しかし、誰一人として心から打ち解けた様子はなく、互いの視線は、牽制し合うように交差しては、気まずげに逸らされるばかりであった。

 そんな中に、場違いな青年がいた。個人所有のクルーザーとはいえ、豪奢な調度と内装が設えられた場において、その青年は素朴な佇まいをしていたのである。

 長袖の白いTシャツにデニムパンツという最低限の実用性しかない服装、それに加えて、所在なげな眼つきと、潮風に紛れて消え入りそうな影の薄さが、彼の印象を、いっそう貧相に見せていた。

 青年の名は、菊田耕一。齢は二十四、横浜市内の中小企業に勤める、どこにでもいる若き会社員である。髪は軽く伸び、目鼻立ちもごく平均的で、どうといって取り柄のない青年であるが、しかし、この菊田耕一こそが、のちに起こる血みどろな事件、難解かつ苛烈な物語の、主人公なのであった。

 菊田耕一はデッキの隅に身を寄せて、居心地の悪い間を埋めるように、飲みなれないワインを一滴ずつ口に運んでいた。繰り返すが、明らかに場違い。そんな彼が、この集まりに参加したのには、他の参加者には伏せているが、とある事情があった。

「耕一お兄さん、なにか食べ物を持ってきましょうか?」

「いや、僕はお腹が減っていないから平気だよ。紗枝は、食べたいものを食べな」

 傍らに立つ、紗枝という名の女性に向けて、菊田耕一は愛想笑いを浮かべた。

 耕一にとって、この菊田紗枝の存在が、船旅に参加する事情であった。紗枝は五つ年下の妹である。一つに束ねた黒髪と端整な顔立ちは優美な印象を与えるが、生成りのカーディガンという地味な服装のせいもあってか、耕一と同様に消え入りそうな気配の持ち主でもあった。二人はよく似ている。紛れもなく血を分けた兄妹である。

 ところが、彼女の耕一に対する口調や振る舞いには、他人行儀な隔たりがあった。

 それもそのはず、紗枝には幼いころの記憶がない。十年前の五月にも訪れたことがある龍穴島で、耕一と紗枝は噴火に巻き込まれ、その際に彼女は記憶を失ってしまったのである。彼女にとって耕一は、距離のある同居人のような存在なのであろう。

 二人とも大学には進学せず、すでに紗枝も働いている。いまでこそ一緒に暮らしてはいるが、近い将来、彼女の記憶が戻らぬまま、赤の他人として離ればなれに生きていくものと、耕一は諦めていた。そんな折、二人宛てに奇妙な手紙が届いたのであった。

 

 ──龍穴島に眠る旧日本軍の財宝を求め、探索を決行する運びと相成りました。

     つきましては、奇縁浅からぬあなた方にも、ご同行いただきたく存じます。

 

 財宝探索の誘いであった。差出人は「猪又左衛門」となっていた。

 日程などの詳細と共に明記されていた先方の連絡先を調べてみたところ、猪又左衛門なる人物は、繊維や化学品を扱う貿易会社の会長であった。なんらかの手違いではあるまいかと疑って、その貿易会社、猪又商事に問い合わせてみると、野宮と名乗る担当の女性から、確かに招待状を送付したとの返答を得た。

 正式な招待なのは確かである。しかし、猪又という人物とは面識がない。それにもかかわらず、かつて耕一と紗枝が龍穴島で噴火に遭った事実を、その手紙の主は知っているようであった。気味が悪い。ましてや招かれたのは、財宝探索という、浮世離れした催しである。菊田耕一は手紙の背後に得体の知れぬ気配を感じた。それと同時に、願ってもない好機が眼の前に差し出されたとも思った。

 かねてより耕一は、紗枝を龍穴島に連れていけば、記憶を取り戻せるかも知れぬと考えていた。医師の診断では、彼女の症状は心的外傷による解離性健忘。すなわち、強烈なショックによって防衛的に記憶を手放してしまったのである。十年前のあの日、龍穴島の山が火を噴いたその瞬間、耕一と紗枝は別々の場所にいたために、彼女が何を見て、何を恐れたか、いまもって不明である。ならば、再びかの地を踏み、当時の出来事を辿りさえすれば、なにかを思い出す糸口を掴めるのではないかと、耕一は睨んでいたのである。

 もっとも、龍穴島は太平洋に浮かぶ無人の島である。定期航路などあるはずもなく、渡航するには個人で船を調達するほかない。そのような金銭的余裕を、耕一は持ち合わせていなかった。そこへきて、龍穴島への招待状である。

 彼がいかなる判断を下したかは言うまでもあるまい。訝しみながらも、一縷の望みを託し、耕一は妹の紗枝と共に、財宝探索に加わることにしたのであった。

 それにしても、と菊田耕一は思う。他の参加者たちは、互いを探り合いながらも、顔見知りの様子である。それに、この船に乗り慣れたふうでもある。ますます不可解さが頭をもたげる。なぜ自分と紗枝は財宝探索に招待されたのであろうか──。

 そんなことを考えているところへ、一人の女性がワインボトルを持って現れた。

「お代わりはいかが?」

 と、ボトルを掲げるその女性は、野宮喜代子であった。歳は三十代半ば、髪を夜会巻きに結いあげて、隙のない装いをしている。彼女は先程から、テーブルを整え、酒を注ぎ回ってはいるが、それは心からの配慮ではなく、職務としての所作であろう。喜代子は猪又左衛門の秘書にして、招待状を手配した担当者でもある。会長の側近という自負が、隠す気もない高慢さとなって、声にも目元にも滲んでいた。しかもその服装ときたら、無人島の探索を翌日に控えているというのに、威圧的な黄色のパンツスーツである。

「あ、僕は、もう、結構です。ありがとうございます」

 耕一が軽く手を振ると、喜代子はつまらなそうに口を尖らせた。

「じゃあ、紗枝ちゃんはいかが?」

「あ、わたしも、結構です」

「遠慮はかえって失礼よ」

「いえ、まだ、二十歳未満ですから……」

 そのときである。ズガーンッ、ズガーンッと、轟音が空気を引き裂いた。

 いったい何が起こったのか。一同がギョッとして音のしたほうに眼をやると、デッキ最後部に、海に向かって水平二連式の猟銃を構える男性の姿があった。猪又吾郎である。なるほど、先程の轟音は銃声にほかならぬ。吾郎が発砲したのである。

 猪又吾郎は、すでに四十歳を超えているであろうに、落ち着きがなく、粗野で暴力的な風体をしている。それに対して、彼の傍らに立つ三十前後の男性、猪又宗助は、いかにも気弱そうで、銃声に怯えて全身を震わせていた。

「ご、吾郎さん、こんなところで撃つなんてマズいですよ」

「なにビビってんだよ。鳥おどし用の空砲だ。出航には祝砲が付き物だろ?」

「いや、それでも……」

「なんだ宗助、俺に文句でもあるのか?」

 その短いやり取りだけで、二人の関係性は察せられた。

 吾郎と宗助、その姓が示すとおり二人は猪又家の一族である。左衛門会長の弟の孫、すなわち大甥にあたる。歳の離れた従兄弟という間柄によって、吾郎が兄貴分、宗助が子分のような立場にあった。わざわざ揃いのハンティングベストを羽織っているところを見るに、日頃から行動を共にしているようである。

 その一幕を横目に、眼鏡をかけた男性が、空のグラスを喜代子に差し出した。

「喜代子くん、もう一杯頼むよ」

 古川泰司、近代史を専門とする学者である。齢は秘書の喜代子と同じく三十代半ばといったところか。臙脂のポロシャツとトレッキングブーツという気取らぬ出で立ちをしてはいるが、眼鏡の奥に覗く眼には、達観にも似た、年齢以上の冷静さが潜んでいた。どことなく軽薄で狡猾な、狐めいた雰囲気をまとった男性である。

 注がれたワインを片手に、その狐は、デッキ最後部を眺めて嘆息を洩らした。

「まったく。吾郎さんは、またあんな物騒なものを持ってきたのか」

 その愚痴に喜代子も眉をひそめて、

「珍しいシカがいるらしくて、それを狩るそうよ」

「チェーホフの銃にならなければ良いがね」

「また泰司先生のご高説? チェーホフの銃って?」

「劇作家アントン・チェーホフが論じた創作技法だよ。物語に必然性のない道具を登場させてはならない。仮に銃が登場したならば、それは撃たれなければならない」

「誰かが撃ち殺されるかもしれないとでも言っているみたい」

「僕たちの探索を物語と見立てるならね」

「学者ジョークは面白くないわ」

 かすかに機嫌を損ねた喜代子を前にして、泰司は唇の端で笑い、グラスをあおいだ。

 その嘲りの態度に異を唱えたのは、喜代子ではなく、妹の紗枝であった。

「あの、人が撃たれるなんて話は、冗談でも、聞きたくないです」

 研究者としての矜持を持つであろう泰司にしてみれば、紗枝など単なる無知な子供。そんな子供から意見されたのが面白くなかったのか、彼は嘲笑の色を濃くした。

「この世界を物語に例えずとも、あらゆる可能性はゼロではないだろう? あの銃が絶対に人を撃たないという保証はないじゃないか……」

 そこまで言って、なにかを泰司は思いついたらしく、「ああ、そうだ」という言葉を挟んでから、ワインで喉を湿らせた。傍らの喜代子が、また始まった、とでも言いたげに顔をしかめながらも、口をつぐんで次の言葉を待つ。耕一と紗枝も、彼女に倣って、黙って泰司のことを見据えた。

 泰司は期待に応えるように再び語りだした。

 

「流血マルチバース」は全4回で連日公開予定