【『暁闇~永瀬暁の告白~』第一回】

 

 この手記は探梅社からの依頼ではない。

 無論、ライターどもは連日、面会に押し寄せ、俺が小説家の息子だとわかってからは有名出版社を含む編集者による執筆依頼詣でが始まったわけだが、俺はそれらのすべてを突っぱねた。

 そして、亡き父がもっとも信頼し、二人三脚で作品を刊行していた当時の担当編集者、高橋滋たか はし しげる(仮名)氏を父の死から約三〇年ぶりに頼り、自らの意思で手記を書き、「週刊梅花」に掲載してもらうことにした。

 理由? 俺の叫びを広く世の中に届けるためさ。

 だが、決して自己満足のためにじゃない。

 あんたらだって知りたくてうずうずしているんだろう? 俺のことを。

 じゃあ教えてやるよ、聞いてくれ。

 

 犯行、つまり、あの日の俺のことを知りたいか。

 動機、つまり、あの日までの俺のことを知りたいか。

 

 二〇二×年一一月三日、俺は清水義之を殺害した。

 九月末に自動車整備工場を辞めてからは昼過ぎまで寝ることが多かったが、この日は午前七時に起床した。

 いつもはシャワーですませていたが、狭い浴槽に熱い湯をはった。殺人を決行する前の心境としてはまったく矛盾する表現になってしまうが、体内に何層も重なった悪臭を放つヘドロのかたまり、悪意を取り除きたかったのだ。

 目を閉じて、体内が空っぽになったと感じるまで、湯につかった。

 風呂から上がり、新品の下着を身に着けると、まずは水を飲んだ。風呂で浄化しきれなかったヘドロを流すようなイメージを頭の中に思い浮かべた。だが、今になって思う。本当に取り去りたかったのは汚れたものではなく、それらが消えてようやくまだ残されていたことに気づく、良心や倫理観といった善、もしくは純粋な感情だったのではないか。

 この日のために購入した新品のワイシャツは青白い偽物の白を放っているように見えた。シャツに袖を通したのは七年ぶりだった。スーツとネクタイは一五年前にも着用したものだった。貧乏人は体形が変わらないのがありがたい。

 その後、コーヒーをれた。

 貧しさとインスタント品はイコールではない。それを教えてくれたのは、一〇年ほど前に食品加工会社で出会ったインドネシアからの留学生……、名を記すのはやめよう。俺との交流は、正しく生きてきたしなやかで強いあさの生地のような彼の人生に、シミを浮かび上がらせることになりかねない。

 頭文字をとってAとする。Aは二人して目の横にあざができた夜、俺を自分のボロアパートに誘ってくれた。痣の原因は忘れた。どうせ班長の機嫌が悪かったせいだろうが、コーヒーのことはよく憶えている。

 当時、自炊をほとんどしていなかった俺でさえ、必要な台所用品は他にもあるだろうとあきれてしまったのだが、Aは手動のコーヒーミルと丁寧に磨きこまれたステンレス製のドリッパー、そして、コーヒー専用のやかんを持っていた。国を出る際に、彼の妹がプレゼントしてくれたのだという。

 豆をいているあいだ、Aは妹との思い出話を聞かせてくれたが、きょうだいで築き上げる空想の王国に、国や宗教の違いは関係ないようで、Aの妹の姿は俺の頭の中で俺の弟の姿と重なった。

 ──妹は健康なのか?

 うっかり「元気」ではなく「健康」という言葉を使ってしまったことで、勘のいいAはこちらの事情を察したようだ。それを毎晩祈ってる、と言って笑い、それきり妹のことは口にしなかった。事件当日のルーティンにAから教わったコーヒーを加えたのは、何も映りそうもない人生の走馬灯に、せめて彼の姿を加えたかったからか。

 いや、ただ落ち着きたかったからだ。ここまで記した腹の据わった姿は、すべて上書きされた記憶だ。朝早く目が覚めたのも、風呂に入ったのも、特別な儀式ではなく、緊張と恐怖から生じる震えを抑えるための手段にすぎない。

 丁寧にコーヒーを淹れるAを眺めながら、いったいどんな高級品の味がするのだろう、待て、これがわくわくする気持ちか、などと自分に面喰っていると、目の前に縁がわずかに欠けたマグカップを置かれた。

 ──おいおい、ここまで凝っておいてカップはこれでいいのかよ。

 そう言って鼻先まで持ち上げたカップから、芳醇ほう じゆんな香りは漂ってこなかった。泥水をあたためたような匂い。比喩ではない。泥水を飲まされたことは何度もある。

 ──泥、いや、土の匂いがするぞ。

 褒め言葉ではなかったのに、Aは顔をほころばせた。

 ──さすが、暁くん。休憩時間にいつも本を読んでいるだけのことはあるね。僕は日本語のそういう比喩が好きで、日本文学を学びたいと思ったんだ。なるほど、大地の養分をしっかりと吸い上げた力強い香りがするね。

 これ以上学ぶ必要などないではないか。俺がAに好感を持ったのは、単にいじめられ仲間だからではなく、彼の使う日本語を美しいと感じたからだ。

 ──飲んでみて。

 促されて一口含むと、口内に苦味が広がった。コーヒー特有の酸味をまったく感じられない、底なしに深い苦味だった。味まで土だ。泥じゃない、作物を育てるための豊かな養分をたたえた土。大地の味。

 Aはそのコーヒー豆が「ロブスタ」という品種であることを教えてくれた。インドネシアではコーヒー豆の栽培が盛んで日本にも多くの種類が輸出されているという。だが、ロブスタはほとんど入っていない。日本では酸味の強いアラビカ種が人気らしい。

 ──だから、ロブスタはインドネシアの庶民が飲む安物のコーヒーなんだけど、僕はこれが一番好きなんだ。

 ──俺も好きだな。当然か、庶民だもんな。

 ──カフェインの含有量も他の種類より高いから徹夜もできる。

 ──そういうところも庶民、いや、労働者じゃないか。

 ──だよね。よし、エネルギー注入。夢の中で班長に仕返ししよう。

 後日、Aにコーヒーの礼としてパイナップル模様のマグカップを買って渡したら、帰国間際、矢の刺さったハートが半分だけ描かれた大きなマグカップをプレゼントされた。妹への土産とペアになっているのだと笑っていた。

 ハートの片割れがそれだとわからないほどかすんでしまったマグカップいっぱいに淹れたロブスタコーヒーを飲み終えた頃には、震えは完全に止まっていた。

 その後も少しAに思いを馳せたのは、前夜に読んだ物語を、Aにも渡したいと思ったからだ。俺の中に残る、たった一つの未練かもしれない。いや、Aは必ず見つけるだろう。

 Aがマグカップを届けてくれた日、俺はアパートの部屋にAを上げ、一緒にコーヒーを飲むことにした。専門店をいくつか回ってようやく見つけたロブスタだ。

 Aは部屋の奥にある本棚の前に立ち、わあ、と声を上げた。蛍光灯の光の加減のせいだろうが、目が輝いているように見えた。

 ──もっと大きな本棚を想像していたんですけど、小さくて、でも僕の好きな本ばかりが並んでる。このまま持って帰りたいくらい。でも、外国の作家ばかりですね。

 日本の作家を読まない理由を説明するには足りないと思ったのは、時間か、俺の思考を言語化する能力か。

 ──でも、江戸川乱歩え ど がわ らん ぽ横溝正史よこ みぞ せい しはある。

 Aは本棚に夢中で俺がためらったことに気づいていないようだった。どれでも好きなものを持って帰っていいぞ、と言おうとして、そういえば、と気になっていたことを先に訊ねてみることにした。

 ──帰国したら何をするんだ?

 ──お金も時間もかかるけれど、いつか出版社を自分で興すつもりです。

 想像もつかなかった答えが返ってきた。夜間大学に通っていたこともあり、Aを学生ではなく、自分と同じブルーカラーの労働者とみなしていたということか。

 Aは目を輝かせたまま続けた。

 ──日本の小説を自分で翻訳して、編集して、出版しようと思います。インドネシアの人が誰も知らない、暁くんおすすめの日本の隠れた名作を教えてください。それを僕の出版社から刊行する第一作目の本にします。

 俺は少し迷ったが、本棚に手を伸ばすのではなく、ふすま紙が黄ばんだ押し入れの戸を開け、プラスチックケースから薄っぺらい単行本を取り出した。新品のままを入れていたのに、呼吸のとまった昔の本だと一目でわかる佇まいと化していた。

 ──文庫化もされず、とっくに絶版になった作品だ。

 自虐的に言ってみたが、Aははしゃいだ様子で本を受け取り、表紙に目を落とした。

 ──『人間ピラミッド』、長瀬あかつき、りょう?

 ──あきらと読むんだ。

 ──まるで、暁くんのペンネームみたいですね。

 俺はただ笑って返した。Aに父親だと打ち明けたら、飛び上がって喜び、長瀬暁良の話を聞きたがり、その最期を純粋な心で受け止め、当時誰も流さなかった全員分の涙を一人で請け負ってくれていたはずだ。そして、誰も涙を流さなかったことに悲しみもする。

 だからこそ、Aの好みそうなテイストの作品ではなく、これを選んだ。身の上話をしなくともAはこの作品を大切に訳してくれるだろうと信じてもいた。

 ましてや……。

『麻薬常用者が夢かうつつかわからないまま、人ごみであふれるスクランブル交差点のど真ん中で喚きちらしているような文章』

 命を削り、魂を吹き込みながら書いた文章に対して、このような侮蔑的な受け止め方をするわけがない。一文ずつに敬意を払って向き合ってくれるはずだ、と。

『人間ピラミッド』は日本じゃ今頃になって騒がれているみたいだが、インドネシアじゃ五年前から大ベストセラーだ。

 俺はマグカップを洗った手を清潔なタオルでしっかり拭い、押し入れのケースの中からAに渡したのと同じ単行本ではなく、経年劣化とは違う形でぼろぼろになった文芸誌を取り出した。

 両手のひらに載せただけでぱらりと開いたページを、文字に沿って右手の人差し指でなぞると、右耳の奥で父の声が響いた。

 ──奪うな、奪うな、奪うな。

 迷いはすべて吹っ切れた。

 用意していたものは新品の白いハンカチに包み、ジャケットの内ポケットに隠し入れておくことにした。カバンに入れ、本番前に身に着けてもよかったのだが、校門で持ち物検査があることを危惧した。結局、そんなものはなかったが、心臓の上にナイフを忍ばせていたことで、一世一代の覚悟を保ち続けることができたのかもしれない。

 

「暁星」は全3回で連日公開予定