舷太はシロウト・トッキューというあだ名をつけられてしまった。
翌朝、出勤早々に基地長室に呼び出された。関田武明羽田特殊救難基地長は四十七歳、舷太はベレー帽を渡される戴帽式で会話をして以来だ。花見バーベキュー大会のとき関田は走り回る小さな息子たちを追いかけまわしていて、声をかける暇がなかった。
緊張して名乗り、基地長室に入る。なぜか応接ソファに尾上隊長と和田副隊長が座っていた。
「ま、座んな」
尾上に言われたが、基地長が座るまでは立って待つ。
「君は評判通り、優秀なのに礼儀正しくて謙虚だねぇ」
関田の言葉に舷太は恐縮した。
「あまり時間もないことだから」
関田が和田に基地長室の扉を閉めさせた。
「そんな優秀な君を見越して、ひとつ、頼まれてほしい。極秘任務だ」
舷太は背筋を伸ばした。
「ついさっき、外務省から依頼が来た。小笠原村父島沖東方二百キロの太平洋上にいる米国の原子力潜水艦内で、急病人が出たそうだ。大至急、米軍硫黄島基地内の病院へ移送してほしい」
尾上がやたらウィンクしてくる。どうやら、本番経験が欲しい舷太のために、推薦してくれたようだ。
救急救命士の資格を持つ和田副隊長と、羽田航空基地から大型ジェット機ガルフV型に乗り込んだ。伊豆半島や大島がはるか彼方に見えなくなるころ、八丈島が見え始めた。やがてそれも通り過ぎると小笠原諸島上空に入る。硫黄島も見えてきた。現在は国が管理し住民はいない。自衛隊と米軍が共同で滑走路を使用しており、常時、訓練のために百人以上は島にいるそうだ。海上保安庁もここでヘリや航空機の補給を行う。
硫黄島の滑走路に着陸し、待機していた中型ヘリ、スーパーピューマ225型に乗り換える。
米海軍は海上保安庁よりはるかに装備が充実しているだろうに、なぜ原子力潜水艦からの急病人搬送が自力でできないのか、舷太は不思議に思っていた。だがガルフ機内でも和田は基地長や海上保安庁本庁、外務省とのやり取りに忙しくしている。スーパーピューマに搭乗してからはイヤーマフをつけマイク越しにしかしゃべることができない。会話はヘリ機長や副機長にも聞こえるので、無駄話ができなかった。
南東へ向けてヘリが飛び立つが硫黄島はあっという間に小さくなり、大海原に出た。雲一つない晴天のせいか、空の水色は濃く、海面は穏やかで白波ひとつ立っていない。どこを見ても青しかない世界を、自分たち人工物がかき乱してしまっているように感じる。純度の高い景色が続いた。
やがて海面にぽつりと白い船が見えてきた。哨戒中の巡視船あきつしま、海上保安庁最大級の巡視船だ。ヘリはその甲板に着船した。
舷太は無口な和田についていくのが精いっぱいだ。通常なら船内にある運用司令センターで乗組員と情報共有をするが、今回は極秘の任務ということで、和田も舷太も船長室に出迎えられた。
「いま外務省を通して米原子力潜水艦とコンタクトを取っているんだが、まだ海底にいるようだ。浮上目標地点の座標はこれ。一九三〇ごろ浮上予定ということだ」
「日没を過ぎますよ。あと七時間もあります」
和田が目を見開いた。舷太も思わず意見する。
「本当に急病人なんでしょうか」
殆ど情報が入っていないようで、船長も肩をすくめるばかりだった。
目標地点まで巡視船あきつしまの現在地から百五十キロメートル離れている。ヘリなら一時間かからない距離だ。
十八時半、再びスーパーピューマに乗り込み、出発した。まだ太陽が半分だけ水平線から出ている。計器を頼りに大海原をひたすら突き進む。時速二百キロ以上出ているはずだが、景色が全く変わらないので、のんびり飛んでいるように思える。日が完全に落ちても水平線のオレンジ色でほのかに視界がある。目標座標が近づくにつれて、空の色が濃くなっていく。空を映す大海原も暗くなっていった。風がなく白波が殆ど立っていないこともあり、黒さに拍車がかかる。ブラックホールが一面に広がっているかのようで、恐怖がじわじわと迫ってくる。
「目標海域に到達した」
周辺を旋回し、海面をヘリに装備された照明でカッと照らして原子力潜水艦の浮上を待つ。浮上し始めたら気泡や白波が立つだろうから、舷太は窓辺に双眼鏡を当てて海面を注視する。黒、しかない。機長が言う。
「一九一五に潜水艦が浮上を開始したと連絡が入ったそうだ」
「浮上まで何分かかりますか」
「水深何メートル地点にいたのかわかるような情報は秘匿だそうだ」
和田はため息ひとつで済ませ、吊り上げ装置を管理するホイストマンと準備を整えている。舷太はヘリの扉を開けて身を乗り出し、双眼鏡で海面を観察する。風が入り込んできた。プロペラやエンジン音、風が暴れる音で、会話もままならない。
ヘリ副機長が声を上げた。
「二時の方向。白波が立っています」
漆黒の海に白い筋が幾重にも広がり始めていた。
「あれだな。行こう」
ヘリの速力をあげるため、舷太はいったん扉を閉めた。ヘリは首をもたげるような前のめりの勢いで突き進む。
「見つかったか」
あきつしま船長から通信が入った。
「はい。あと十秒で到着できます」
機長が高度を下げる指示を出し、副機長が復唱する。体にGがかかり胃が浮く。舷太は唾を何度も飲み込んだ。和田が扉を再び開け放つ。
潜水艦が海面へ姿を現わしていた。鯨の背中のような曲線の船体の上に、グレーの迷彩服に長靴を履いた一人の男が慣れた様子で立ち、ヘリに手を振っている。救命胴衣を着用しているが、頭部にヘルメットをかぶるでもなく、ヘリのダウンウォッシュで乱れる金髪が暗闇に光って見えた。
和田が場所の指示を細かく出す。
「左1。前2」
ヘリは左へ一メートル移動したあと、二メートル前進する。
「はいOK。この位置キープ」
「この位置キープ」
ホイストマンと機長、副機長が復唱し合う。ホイストマンは舷太に向けてゴーサインを出した。舷太は降下ポイントを見下ろし、指さし確認する。
「降下地点よし、降下ロープよし」
カラビナとロープをつなぐ。
「結着する。ロックよし、ピンよし。カラビナ安全環よし。ロープ詰める。ソフトロックよし。振り出し準備よし」
ホイストマンが「振り出せ」の合図を出した。ヘリの足、スキッドに舷太は足をつく。
「振り出す。ロックよし、ピンよし、カラビナ安全環よし」
もう一度装備を確認後、ホイストマンが親指を立てた。
「降下準備よし!」
舷太はスキッドを蹴り、いっきに降下した。宙を切り五秒で米原子力潜水艦に着地した。すぐさまスライダーを外し、ロープから離れる。ヘリはダウンウォッシュの風を浴びせないよう、いったん上空を離脱する。金髪の米軍人はしゃがんでハッチ脇の固定梯子をつかみ、ダウンウォッシュの風に耐えていた。
「急病人はどこにいますか」
舷太は英語で尋ねた。潜水艦の緊急脱出口は閉まっていた。ハッチを開けてくれるように米兵に頼んだが、男は金髪を整えながら立ち上がる。
「僕が患者です」
舷太は目を凝らした。ヘリが離れたので、ヘルメットに着けたライトだけが頼りだった。身長が舷太と同じ百八十センチくらいの米兵は、背筋がしゃきっと伸び、血色もよい。
「どこか痛みますか」
「おなかが痛いです」
米兵は堂々と言い放った。救急救命士の和田が診る方が早いだろう。とにかくヘリに揚収しようと、エバックハーネスを出す。米兵はエバックハーネスの二つの穴に腕を入れ、尻から上をすっぽりと覆われた。
舷太は無線機でヘリを呼び戻す。海水を吸った降下ロープを手繰りよせ、エバックハーネスと結着。自身のスライダーもロープに通したとき、米兵が小型のアタッシェケースを救命胴衣の下に隠し持っていることに気が付いた。
「危険ですから、なにも持たないでください」
カラビナを外し、荷物を艦内に置いてくるように英語で頼んだ。
「僕はなにも持っていません」
「救命胴衣の下にアタッシェケースを持っていますよね」
「持っていません」
舷太は彼の懐に手を伸ばした。
「ノー!」
米兵はぴしゃりと舷太の手をはたき、途端に背中を丸めて苦しみだした。
「早く医者に。おなかが破裂しそうだ」
舷太は無線で和田に、アタッシェケースを離さないということを伝えた。和田にも米兵が大袈裟に痛がる声が聞こえたようだ。
「面倒くさいやつだな。そのまま揚収しちまおう」
ホイスト装置で二人一緒に、ヘリ内に巻き上げられた。アタッシェケースを持っているので、安全のため、通常よりも巻き上げ速度を遅くしている。米兵はさっきまで痛がっていたのに、巻き上げが開始された途端に平常に戻った。ヘリ揚収後、米兵は自らストレッチャーへ横になりに行く。
「おなかが痛いそうです。五秒くらいしか痛がっていませんが」
舷太は和田に伝えた。
「まあ、腹痛は波があるが」
米兵は素知らぬふりで目を閉じている。
「お名前は言えますか」
「ピーター・パーカー」
「ハリウッド映画の主人公と同じ名前ですね」
和田は呆れ果てた様子だ。アタッシェケースはいつのまにか“スパイダーマン”の太ももの後ろに隠れていた。
自称ピーター・パーカーをヘリに揚収した後、巡視船あきつしまで燃料を補給した。再び飛び立って硫黄島に戻った。
ヘリ駐機場には米海軍の看護師と医師、衛生兵が仰々しくストレッチャーを押して待機していた。自称ピーター・パーカーは歩いてストレッチャーに近づいてひょいと乗った。気が付けば件のアタッシェケースは衛生兵の手に渡っていた。自称ピーター・パーカーはストレッチャーに横になると笑顔で和田や舷太に親指を立てた。あまりに屈託ないのでつい微笑み返してしまったが、羽田特殊救難基地に帰投してからだんだん腹が立ってきた。
片付けもそこそこに、報告のために基地長室に入った。
「ごくろうさま。さっき米原子力潜水艦の艦長から外務省に直接お礼の電話があったそうだよ」
関田基地長自ら、コーヒーを淹れて出迎えた。和田がぼやく。
「もう八年トッキューやってますけど、こんな不可解な事案は初めてですよ」
関田は肩を揺らし、声のトーンを落とす。
「君たちが米兵を降ろしたころ、三沢基地のF-35が硫黄島滑走路に緊急着陸しているんだ。十分後の〇一一〇には本国に向けて飛び去った」
「僕らが米兵を引き渡したのが〇一〇〇です」
「たったの十分で乗り換えて本国に飛んでったか。よほど急ぎで届けねばならないブツがあったんだろう」
舷太はおずおずと手を挙げた。
「あの、報告書はありのまま書いてよろしいですか」
「もちろんだよ。市民から開示請求があったところで、海苔弁当になるだろうけどね」
黒塗りされるという比喩がすぐにはわからず、舷太は白米に覆いかぶさる海苔を思い出した。気分が悪くなる。
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