春になった。出勤のときいつもランニングで通過する多摩川の六郷橋から、満開の桜が見えた。
舷太は散り始めた桜の木を見下ろす。ため息を飲み込み、全速力で羽田まで走った。
──どうか今日こそ、本番にあたりますように。
基地に到着した途端、一階の機材庫から、第三隊の先輩、中沢昴が飛び出してきた。中沢は潜水作業では舷太のバディを務める。
「舷太、緊急通報だ」
心臓が高鳴る。
「新潟佐渡島沖で操業中のイカ釣り漁船から化学物質が漏洩しているそうだ。乗組員十名が船内に取り残されている」
舷太はすぐさま着替え、緊急通報の内容を確認した。隊長の尾上は北陸の海を守る第九管区海上保安本部の運用司令センターから詳細を聞き取っていた。
「場所は大和堆北方だそうだ」
大和堆は日本海のど真ん中にあり、日本の排他的経済水域内にある。巡視船では到着に半日はかかる四百キロメートル沖合だ。
「該船は百三十八トン、乗組員十名のイカ釣り漁船。冷凍機が故障し、冷媒のアンモニアが船内に充満して航行不能だそうだ」
「船を曳航するか、先に乗組員を救助すべきでしょうか」
「通信室にも入れないようだ。船内の状況がよくわからない」
どの機材をどれだけ持っていくのか。無限に積載はできない。情報が少ないのにすぐに出発しなくてはならない時は、ベテランの知識と経験が頼りだ。第三隊の副隊長、和田裕太がてきぱきと指示を出す。
「ケミカル対応機材一式準備。ペリカン検知器、校正ガスキット」
舷太はガス検知器機材一式が入った灰色の大型ケースを担ぎだした。
「防爆送風機、送風管は二個積めるか。防護服バッグも」
下っ端の舷太は指示された資機材を一か所に集め、中沢が重量計算していく。
「総重量四百三十五キロ」
舷太は、特殊救難基地と隣接する、羽田海上保安航空基地に電話をかけた。
「特殊救難隊です。大和堆のイカ釣り漁船の案件で、総重量をお伝えします。四百三十五キロです」
相手は復唱したが、不思議そうだ。
「何人乗られますか。ちょっと少なめですが」
中沢に頭をつつかれた。
「おい、隊員の体重を合計に入れたか」
忘れていた。舷太は電話の相手に謝って電話を切り、計算し直す。
「えーっと……」
「隊員は一人あたり七十七キロ計算だろ。プラス二百三十一キロ」
「ありがとうございますッ」
「舞い上がってんな。深呼吸」
舷太は背筋を伸ばして深呼吸した。
「なにせ初出動なもので」
「うそだろ!?」
中沢は舷太を二度見した。
特殊救難隊の専用トラックに必要機材を詰め込み、舷太は自身の真新しい出動バッグを担いで車の三列目に乗り込んだ。尾上や中沢の出動バッグは使い古され、色あせている。棚から取り出された舷太の出動バッグは、新一年生のランドセルみたいで、頼りなく見える。
隣接する羽田海上保安航空基地の駐機場に五分で到着する。全長二十五メートルの中型ジェット機ボンバル300型が待機していた。機体に横づけされたトラックから次々と資機材が機内に運び入れられる。尾上隊長は機長と事前打ち合わせをしている。忘れ物がないか、荷台と持ち出し機材一覧を見返してよく確認し、舷太はボンバル機の中へ入った。
機内の作業デスクに現場海域の海図を広げて、作戦会議を行う。ボンバル機は羽田空港のC滑走路に入っていた。操縦室からは機長や副機長、管制官のやり取りが聞こえてくる。
いやでも鼓動が高鳴る。初出動が日本海大和堆のイカ釣り漁船。最悪の場合、充満したアンモニアに引火して、大火災を起こすかもしれない。炎と黒煙を上げる船内から乗組員を吊り上げ救助することになる。これまで特殊救難隊が対応した事案の中でも、化学物質が原因で火災を起こした船への対応が最も危険で厄介だった。
新潟空港と隣接する第九管区海上保安本部新潟航空基地へは三十分で到着した。ここで現場海域へと向かうヘリコプター、アグスタ139型に乗り換える。資機材も積み替えだ。
「舷太、お前こっちに来い」
尾上に呼ばれた。
「イカ釣り漁船の船内図が漁業組合から届いている。確認するぞ」
建屋の階段をあがった。新潟航空基地長が出迎え、執務室に手招きする。表敬訪問している暇はないのに「まあ茶でも飲んでいきなよ」と誘う。
「ついさっき、水産庁からイカ釣り漁船の件で連絡が入ってさ」
航空基地長はのんびり続けた。
「あちらの取締船がちょうど大和堆にいて、現場に急行してくれたらしい。バルブを閉めてアンモニアの流出は収まったそうだ。乗組員は全員、取締船が救助した。船は僚船が曳航するってさ」
僚船とは、漁や土木作業などの本業を行う船をサポートする船のことだ。
「なんだ。僚船がいたんですか」
尾上は拍子抜けしていた。舷太は身を乗り出す。
「しかし除染が必要でしょう。我々のような装備もあり技術もある特殊救難隊がやるべきではないですか」
「そうだな。隊員二人で充分だ」
尾上は膝を叩いて立ち上がる。
「除染機材を追加で持っていく。重量オーバーになるから、お前はここで待機してろ」
「そんな……」
結局、尾上と中沢だけが現場に向かい、該船の除染を行った。新潟航空基地に残った舷太は、ケミカル事案の専門部隊である、横浜機動防除隊との連絡、調整役を担っただけだった。翌日には新潟航空基地に戻ってきた二人と合流し、ボンバル機で羽田特殊救難基地に帰った。
尾上や中沢が現場で着用していた防護服やゴム手袋などの汚染物をひとりで片付ける。専用の長靴を水で洗い流していると、事務室で休憩していた中沢が階段を下りて来た。
「俺がやるぜ」
「いえ、中沢さんは休んでいてください。僕、なんにもしてないので」
中沢は黙って、舷太を眺め下ろしている。
「容儀点検、開始!」
基地の玄関前の広場に、鮮やかなオレンジ色の作業制服を着た六人の若者が、互いの身なりを確認し合っていた。指導教官の佐藤隊員が、身なりの点検に回っている。
「帽子から前髪が出ているぞ」
「すみません」
佐藤教官は隣の隊員の左ポケットを探る。
「革手袋は」
「あっ、あれ」
佐藤が雷を落とした。
「潜水士競技会で勝ち抜いただけで気を抜くな、ひよっこ!」
今年の新人隊員がもう選抜され、羽田基地に集められているのだ。これから四か月間の新人研修を経て、各隊に配属される。
春から梅雨にかけては、本格的な海水浴シーズンに入る七月に比べて、海難は少ない。新潟での一件以来、特殊救難隊に出動要請はかかっていない。
海難は全国のどこかで発生はしているが、各管区の巡視船や潜水士で対応できている。空からの救助は各海保航空基地に所属している機動救難士がやっていた。
舷太はため息まじりに、基地のカレンダーをめくった。海上保安庁が発行している巡視船カレンダーだ。
六月は巡視船あまぎの写真が掲載されていた。特殊救難隊員になる前、潜水士として舷太が乗っていた船だ。
「ホームシックか」
中沢が舷太の肩を叩いた。
「いや、そんなんじゃないですけど」
外からは新人隊の訓練の掛け声が聞こえてくる。彼らは基本のMSF装備(マスク、シュノーケル、フィン)で、空気をフル充填した大型空気ボンベ三十キロを背負い、腕立て伏せをしていた。
「今年の新人はなかなか優秀らしいよ。いまのところ脱落者もいないし、楽しみだな」
舷太は押し黙っていた。
「どうかした」
「いえ……相談があって」
「お前、韓国料理好き? 今日はコチュジャンの気分なんだ」
中沢はグルメで、話の流れが唐突に食べ物に変わるときがある。ようは、飲みに行こうぜ、ということだ。
羽田特殊救難基地から海老取川を挟んで西側にある東糀谷に、中沢行きつけの韓国料理屋があった。少し残業して二十時頃に店に行く。すでに中沢と尾上が出来上がっていた。
「おっせーよ、舷太。今日の主役だろ」
中沢に肘でつつかれた。舷太は尾上に頭を下げる。
「尾上さんまで来ていただいて、すみません」
「史奈ちゃんに振られたんだって?」
「振られてませんよ。なにがどうなってそんな話になるんですか」
「今日は飲んだくれようぜ」
舷太の話を真面目に聞く様子もなく、二人は春先に第三隊の懇親会として行われた花見バーベキュー大会の話を始める。羽田空港を離発着する飛行機がよく見える城南島海浜公園で、隊員たちの家族や恋人も含め、総勢五十五人が集まった。舷太も史奈を連れていった。酔っぱらった尾上は「早く結婚しろ」とうるさかった。
舷太はやってきた店員にウーロン茶を頼む。
「お前、諸先輩方が相談にのってやるというのに、ウーロン茶とはなんだ」
中沢が絡んでくる。
「腹減ってるんで、なんか食わせてください」
「食え食え。石焼ビビンバ大盛り。若いもんは食うのが仕事だからな」
尾上が店員呼び出しボタンを連打して壊した。中沢に韓国風海苔巻きのキンパを勧められたが、舷太はチヂミを食べた。アツアツの石焼ビビンバは、口に入れたとき生臭く感じた。刻み海苔のにおいだ。コチュジャンに負けていなくて驚く。
尾上が、刻み海苔と見つめ合う舷太にじっと視線を注いでいた。本題に触れる。
「で、史奈ちゃんとはどうして破局したんだ」
「だから破局してませんし、恋愛相談じゃないです」
「なんだよ、つまんねー。仕事の相談か」
皿に残っていた枝豆を咥えた中沢だが、すぐにペッと吐き出した。尾上が食べた残りかすだった。
「僕はこの五月で現場配属になって半年になりました。それなのに、いまだに実際の救難経験がないんです」
尾上は頬杖をつき、充血した目で舷太を観察している。中沢が身を乗り出した。
「あれ、お前、出動したことあっただろ」
「ないです。新潟のイカ釣り漁船の件は途中待機でしたし」
尾上が中沢の肘をつついて遮った。
「成績優秀で特殊救難隊に入ったのに、出動がないとは宝の持ち腐れだな」
中沢は思い出したように手を叩いた。
「そうだ。お前、確か全国の潜水士競技会でもぶっちぎりだったんだろ」
「新人研修もぶっちぎりじゃなかったっけ。百キロ行軍の記録は?」
山梨県大月市から羽田特殊救難基地までの百キロを踏破するレンジャー訓練だ。途中、消防署や警察署でトイレを借りると運よく差し入れにありつけるが、殆どの隊員は持参した飲料のみで百キロを歩き切る。
「自分は十二時間五分でゴールしました」
尾上と中沢はひっくり返った。
「すっげー。俺なんか肉離れで府中市で立ち往生だよ。泣いたね、あの日は。ゴールまで二十時間かかった」
「俺は高尾山でイノシシと出くわしちゃってさ。徒手空拳で倒すのに時間食って、記録は二十一時間」
尾上の話は嘘か本当か怪しい。
「十二時間ってお前、百キロ走りっぱなしだったんじゃないの」
「そうですね。基本、走ってました」
「どんな体力してんだ。息こらえの記録は」
「三分五秒です」
潜水士は二分半できればよしとされる。懸垂は、腕立て伏せは、ドルフィンは、と次々と記録を尋ねられる。舷太は半数以上の競技で特殊救難隊の記録を塗り替えた。入隊後の歓迎会では「大型新人、現る」と大袈裟に言われて少し恥ずかしかった。
中沢が突如、腹を抱えて笑い出した。
「なんだよ、中沢。ひとりで笑って」
尾上が中沢の肩を叩いた。
「いや、新人隊教育担当の佐藤さん、いるじゃないっすか」
ひよっこたちが佐藤軍曹と呼んで恐れている、特殊救難隊八年目の大ベテランの三十六歳だ。舷太も新人研修で佐藤にしごかれた。
「あの人、素人童貞らしくって」
舷太はウーロン茶を噴いてしまった。
「そんな個人情報を、いいんですか」
「あいつの素人童貞は本人がネタにしてんだ」
尾上もげらげら笑った。
「飲みに行くと風俗の話しかしないだろ。蒲田の風俗店は全制覇したとか自慢してたし」
「城南島の花見のときも、キャバクラの子を同伴で連れてこようとするもんだから、基地長が雷落としたって話ですよ。お前それでも国家公務員か、って」
尾上も中沢も声を裏返して笑った。
「佐藤さん、何度か合コンセッティングしたんですけど、しつこいのと説教臭いのでモテないんですよ」
「彼女もいたことないんだろ。プロ以外とは経験がないんだ」
「初詣のとき、今年こそ素人童貞卒業するぞってこっそり絵馬に書いてましたしね」
二人の先輩は涙を流して笑っていた。尾上が突然、真顔になる。
「で、舷太の話とどう結びつくんだ」
「舷太だって技術も体力も玄人なみなのに訓練しか経験していない。素人童貞みたいなもんじゃないっすか」
「波動の彼方にある光」は全3回で連日公開予定