東内駅近くのファミリーレストランから大善支社まで三十分程度で戻り、駐車場に車を止めたところで裏口から入るよう指示されていたことを思い出す。社員証をリーダーにかざしてロックを外し、鉄製の重たい扉を開ける。社屋は五階建てで、ビル自体が大帝ハウスの所有物であった。自席のある二階を目指して階段を上ろうとしたとき、清掃業者の女性とすれ違う。名前はわからなかったが、泰介のフロアにもよく顔を出す女性だった。どんな役割の人であっても、絶対に挨拶は欠かすまい。泰介は自らに課していた習慣に則り小さく頭を下げた。
「お疲れ様です」
いつも挨拶をしっかりとは返してくれない女性であったが、それでも会釈程度のレスポンスはあった。それなのにこのときは、まるで泰介のことを認識できなかったかのように完全なる無視を決め込まれた。心持ち早歩きで通路の奥へと消えてしまう。米粒程度の不快感はあったが、平生からあのような態度だったはずだと思い直し二階の扉を開ける。
「戻りました」
誰であろうとも、オフィスに戻ってきた同僚にはきっちりお帰りなさいと挨拶をしよう。泰介が大善支社の営業部長に就任したその日から徹底していたルールであった。ショールームや取引先、あるいは一階の応接スペースに出ているのか、離席している社員も何名かはいた。それでもざっと見渡す限り二階には二十人以上の社員がいたのだが、この場にいるほぼ全員が、泰介の挨拶を無視した。あるいはお辞儀のつもりなのか、既成事実を作るように曖昧な頷きのようなものを見せた社員も数名いることにはいたが、お帰りなさいと口にした者は一人もいなかった。
さすがにおかしい。
そうは感じたが、よもや自分に対しての敵愾心、嫌悪感からとは思えない。見れば電話対応をしている社員も多い。本当にトラブルが──それこそ支社長が軽くパニックになるほどのものが──発生しているのだと解釈する。ただ事ではない。どことなくオフィス全体に淀んだ空気が垂れ込めている。明らかに今朝とは別の空間であった。
「野井、ちょっと例の鈴下方面の施工予定図を用意してくれ。支社長が進捗を気にしてたから、話を聞きに行くついでに報告してくる」
「あ、わかりました」
野井は鈴下方面を担当している部下に資料を用意するよう指示を出す。何やら泰介に対して思うところのある様子であったが、上司に指示されれば断ることはできない。野井の部下は整理されていない自席をがさがさとまさぐり始める。しかし資料が一向に出てこない。多少だらしのないところがあるという噂は聞いていた社員だったが、よもや大事な資料を紛失するはずがない。当人と、そして彼の上司である野井を信じて待っていたが、野井の部下はやがて青い顔を上げた。
「すみません……ちょっと」
「なくしたのか?」と野井は愕然とする。
「いや、ちゃんと机の上のここに、箱に入れて保管してたん……ですけど」
泰介は舌打ちこそ我慢できたが、ため息は我慢できなかった。野井がもう一度ちゃんと捜せと言うと、またがさがさと紙の山を漁り始めるのだが、手つきの自信のなさからして資料が出土される期待は薄かった。さすがにこの失態は看過できない。
紛失してしまった資料はどう補填するべきか、そしてどんな言葉をかければ反省を促すことができるのだろうかと内心頭を抱えていると、開いた扉から大声が響いた。
「山縣」
血相を変えて飛び込んできたのは支社長であった。
あ、支社長。先ほど戻ってきたので、今から伺おうと思ってたんです。ちょっと鈴下の件についてのご報告があったんですけど、資料を紛失してしまったようでして──瞬間的に頭に描いた一連の台詞は、結局一言たりとも口にすることができなかった。
「早く来い」
有無を言わさず、五階にある支社長室へと連れられる。見たこともないほど顔を真っ赤に染めあげた支社長は、もうすでに五十件以上問い合わせが来てるとだけ言い、ソファにどっかりと座ってテーブルの上のタブレット端末を叩いた。
「……これはお前、どういうことだ」
それは、泰介の台詞だった。泰介にはいったい何の問い合わせが五十件以上来ているのかすらわからない。画面を見る前からどういうことだと尋ねられても答えられるわけがない。
本当に直情的な人だなと呆れながらも、これ以上支社長の機嫌を損ねればただただ面倒ごとが増えるだけであった。不承不承タブレット端末を掴み上げる。商談に用いるので営業部員は基本的な操作を理解しているはずなのだが、客と対面する機会の乏しい部長職はなかなかタブレットに触ることがない。どう操作したものだろうと画面を覗き込むと、何もタップしないうちから大見出しに息が止まった。
【速報】死体写真投稿者の詳細判明! 本名山縣泰介、大帝ハウス勤務、大善市在住
空気が凍る。
何だ、これは。
表示されていたのは「たび男速報」という通俗的なまとめサイトであったのだが、疎い泰介にはそれがどのような機関が運営している、どれほど影響力のあるサイトなのかがわからない。一種のニュースサイトであるのだろうと予測はついたが、それ以上のことはわからない。
恐る恐る画面をスライドさせると、目の前に現れたのは泰介自身の顔──会社のホームページに掲載されている写真だった。支社の営業部長の挨拶を掲載するのが慣例だったのでスタジオで撮影した写真であったのだが、なぜその写真がここで出てくるのかは、やはり理解できない。意味がわからないまま更に画面をスライドさせると、腹部から血を流して倒れている女性の写真が続く。ショッキングな写真には違いなかったが、混乱が先行してグロテスクさが頭に入ってこない。何だこれは、が頭の中で繰り返される。文脈も読み取れないまま万葉町第二公園という文字が目に入り、確かに写っているのが泰介もよく利用している近所の公園であるとわかる。しかしだから何だというのだ。何なんだ、これは。
たいすけ、ゴルフ仲間が欲しい今日この頃、イライラする、現在はアカウント削除済み。
あらゆる情報が泰介を驚かせるが、驚かせるだけで意味のある像を描いてくれない。ああ、そういうことなのかなと、どこかで腑に落ちることを期待するのだが、一向に全容が把握できない。
「お前は……何を考えてるんだ」
支社長の問いかけに、何も答えることができない。
「お前のTwitterなんだろ」
奇妙な日本語だったが、そこでようやくこのサイトで取り上げられている「たいすけ@taisuke0701」という存在が、Twitterのアカウントというものなのだなと合点がいく。なるほど、先ほど車内にて野井から聞いたTwitterの話はここに紐づいてくるのか。「たいすけ@taisuke0701」が問題のある発信──どうやら人殺しをほのめかしているようだ──を行ってしまい、それが同名である泰介のものであると誤認されている。それがネットでちょっとした騒動に発展しているのだ。
朧気ながら問題の骨格が掴めてくれば、反論の糸口も見えてきた。
「もちろん、私じゃないですよ」
なんだ、そうだったのか。そうだよな。信じてたよ。
直情径行な人だが、話のわからない人間ではないはずだった。赤ら顔に浮いた汗をハンカチで拭って、そうだと思ってたんだ、カッとなってすまん。そんな言葉が聞けると思っていたのだが、支社長の充血した瞳は変わらず泰介のことを憎々しげに捉え続けていた。
「そんな言い訳……通用するわけないだろ」
「……言い訳?」
「どうすんだ……この大馬鹿が」
なぜ支社長がここまで頑なにTwitterアカウントの持ち主が泰介であると妄信しているのか、泰介には理解できなかった。確かにゴルフは好きだった。今や泰介のライフワークと言ってもいい。中学では短距離走、高校ではラグビー、大学時代はトライアスロン──学生時代から様々なスポーツに挑戦してきたが、会社員になってからはもっぱらゴルフだった。少なくとも月に三度はラウンドする。問題となっている万葉町第二公園の近くに居を構えているのは確かだし、アカウントの末尾についている数字と泰介の誕生日である七月一日が一致しているのも、事実と言えば事実だった。
ただ、だからといってどうして殺人犯と勘違いされなければならない。
「とりあえず、今日はもう帰れ」
「……はい?」
「自宅待機だ」支社長はそれ以上のコミュニケーションを拒否するように、むっくりとソファから立ち上がって背を向ける。「野次馬が何組か、表のエントランスに来ては帰ってを繰り返してる。山縣は体調不良で帰ったと説明するから、とにかくすぐに帰ってくれ。ここにも、本社にも、お前の件で大量の電話がかかってきてるんだ」
「……何で私が帰らなくちゃいけないんですか」さすがに苛立ちを隠せなくなってくるが、感情的にならぬようどうにか自分を律し、冷静に言葉を積み上げていく。「無実なんですから、無実だと説明すればいいだけの話です。誤魔化すような真似をするほうが却って世間に与える心証は悪くなる。ここはしっかりと──」
そこまで口にしたところで、支社長室の電話が鳴った。
しかし部屋の主である支社長は電話のほうを振り返ろうともしない。電話に近いのはお前なのだから、お前がとれという意味だろうか。泰介は小さな咳払いで喉を整え左手を伸ばす。電話はとらなくていいという支社長の声が響いたのは、泰介が受話器を耳に当てた後だった。
「はい、大帝ハウス大善支社です」
三秒ほどの静寂。ちりちりというノイズは聞こえているので電話は繋がっているはずなのだが、何も発声がない。もしもしと泰介が口にしたところで一言、男の声が響く。
「人殺し」
反論しようと思ったときには、すでに電話は切れていた。
イタズラ電話だ。
言いようのない怒りが脳内でぱちぱちと弾けた。当て逃げか、あるいは通りすがりに意味もなく生卵をぶつけられたような心地であった。見えない通話相手の顔が浮かんでくるような気がして、しばらく受話器を睨みつける。何の生産性もない電話だ。まだしも、山縣泰介を出せ、説明をしろ、会社から公式発表を出せというような要求があるのならわかる。同時にこちらにも反論の余地が生まれる。しかしこの幼稚な嫌がらせはなんだ。
「自宅待機だ」
支社長は繰り返した。
「詳細は調査中。当人は体調不良で本日は帰宅しました──これで乗り切る。今日は帰れ」
とんでもない面倒ごとを持ち込みやがって。
納得などできるはずがなく、捨て台詞に噛みつきたい気持ちもあった。いったいこちらが何をしたというのか。どんな面倒ごとを持ち込んだというのか。しかし支社長が考えを改めるとは思えず、本社の上役に抗議をしたとしても結果が変わるとは思えなかった。
諦めた泰介が二階に戻ると、フロア全体に緊張の糸が張り詰める。自分たちの上司が嫌疑をかけられており悔しいというよりは、身近に殺人鬼がいたことが判明して戦慄しているといった表情だった。戸建て住宅部門、集合住宅部門、店舗部門、エネルギーインフラ部門。フロアの端から端まで視線を移動させてみるが、全員が呪いにかかるのを恐れるように俯き、口を開こうとしない。
なぜ一緒に仕事をしてきた人間のあり方よりも、根拠不明の流言を信用するのか。泰介は誤った情報にいとも簡単に毒されてしまった部下たちの不明に愕然としながらも、言うべきことは言う必要があると判断して大きな声を出した。
「何か、おかしなことを書いてるネット記事があるらしい」
全員の動きがわずかに鈍化するが、泰介と目を合わせようとする者はいない。
「もちろんわかってくれているとは思うが、すべて事実無根で、デタラメな情報だ。今日は一時帰宅するが、土曜日──明日も通常どおり出社する。イタズラ電話の対応で迷惑をかけるが、基本的にはいつもどおりの業務を頼む。携帯は持っておくから、確認をとるべきことがあったら遠慮なく連絡をくれ」
幸いにして野井はまだ状況を把握しかねている様子だった。何があったんですかと尋ねる野井に、泰介のスマホでもTwitterの検索はできるのかを尋ねてみる。泰介よりはいくらかデジタル方面に明るい野井は、アカウントがないと公式アプリの閲覧は面倒なので、すでにインストールされている別のアプリでリアルタイム検索をしてみたらどうかと勧めてくる。検索ボックスに調べたい言葉を入力して、リアルタイムのボタンを押せばTwitterでの呟きが手軽に確認できますよ、と。
言われるがまま自身の名前を打ち込み、リアルタイムのボタンを押した瞬間に血の気が引く。
リアルタイム検索:キーワード「山縣泰介」
12月16日13時44分 過去6時間で12652件のツイート
五十件以上の問い合わせが来ているという支社長の言葉から、漠然と百から二百人程度の人間が騒いでいるのだろうと予想していた。ツイートという言葉の持つ意味合いがもう一つ正確にはわからなかったが、それでも何やらとても多いことだけは直感できる。一万二千件以上のツイートという表示に、気管がきゅっと狭まる。
画面を覗き見していた野井が思わず、え、と零す。
「すごいことになってるのか?」
野井は泰介の質問には答えなかった。「……何が、あったんですか?」
課員のためにも、そして自分自身のためにも、今はこれ以上オフィスに留まるべきではない。悟った泰介は一時帰宅の準備を始めた。幸いにしてこの日、シーケン以外にアポはなかった。自宅で作業するために月末の会議資料をクリアファイルに挟み、ACアダプタのコンセントを抜いてノートPCを鞄に入れる。泰介宛に届いていたいくつかの郵便物もひとまず鞄に詰め込むのだが、そこに見慣れぬ封書が交じっている。
長3サイズの茶封筒──差出人の名前がない。
おそらくどこぞの無益な広告だろうとは思いながらも、家で確認してから捨てればいい話だと割り切って詰め込む。現状、唯一まともにコミュニケーションがとれる社員である野井に対し、進行中の案件について他の課の分も含めて思いつく限りの方針を言づける。どんな状況に陥ろうとも、泰介にとって自らの職務を中途半端な形で放置することは許されぬ所業であった。ひとまず大丈夫だろうと判断してからも手帳のタスク一覧を確認し、机の上を完璧な状態に整頓してからオフィスを出る。
正面のエントランスを避けて裏口から外に出たところで、どっと吹きすさんだ冬の風に体が縮む。こんなにも冷え込んでいただろうか。コートの前をきつく閉じ、いつも使っているバス停へと歩き出す。
地方都市ながら大善駅前はそれなりに栄えていたが、やや離れた位置にある支社の周辺は静かな住宅街であった(だからこそ、ハウスメーカーである大帝ハウスの支社が建っていた)。昼下がりということもあって誰にすれ違うこともなくバス停まで辿り着いたとき、ようやく泰介の中でファミリーレストランでの一件と、先ほど知らされたネット上での騒動が繋がった。
若者たちはやたらと泰介の様子を窺い、あまつさえ写真まで撮ろうとしていた。あれは、そういうことだったのだ。理解が追いつくと、しかし気味の悪さも加速していく。つまるところ、たまたまファミリーレストランに居合わせた若者が知り得るレベルで、自身に纏わる誤報は広がっているということになる。
ちょうどバスがやってくる。大善駅方面から走ってきたバスの中には、想像していたよりたっぷりと人が詰まっていた。どうという感慨もなくステップの一段目に右足を乗せたのだが、目の前の席で若者がスマートフォンをいじっている光景が目に飛び込んでくると動きが止まってしまう。悪い予感が脳内を満たし、左足を持ち上げることに躊躇いが生じる。どうぞぉ、という間延びした運転手の声がスピーカー越しに響くと、訝しく思ったのか若者がスマートフォンから顔を上げて泰介のほうを見る。
「すみません、忘れ物を……思い出しました」
乗車を辞退し、ため息をつきながら通りを曲がるバスを見送る。
怯えていたわけではなかったが、万に一つでも車内で騒がれるような事態は避けたかった。自宅まではバスなら五分、歩いても三十分程度の道のりだった。敢えてリスクを背負い込む必要はない。白い息を吐きながら歩き、三人ほどとすれ違うもいずれの人物からもこれというリアクションはなかった。しかし大通りを曲がっていよいよ我が家だと思ったところで、思わず息が止まる。泰介は慌てて足を止め、塀の陰に身を隠した。
家の前に、野次馬がいる。
十代後半から二十代前半といったところだろうか。五人ほどの若者が泰介の家を指差し、話題の観光スポットを見つけたといった様子ではしゃいでいた。なかにはカメラを回している若者もおり、テレビのレポーター気取りで何かをカメラに向かって語りかけている。勤務先と顔がネット上で晒されてしまっていることはわかっていたが、自宅まで割り出されていたのは予想外であった。
当たり前だが大帝ハウス大善支社営業部長の家は、大帝ハウスが施工を担当していた。来年でちょうど築二十年になる。決して新しいとは言えないが、プロが長年の知識、経験、その粋を集めて建てた家が、貧相であるはずがなかった。広々とした庭にはゴルフ練習用のネットが設えられてあり、駐車スペースには納車されて間もないベンツのGLEが鎮座する。そしてそのすべてが、どうやら野次馬たちを無意味に興奮させているようだった。
インターホンを乱暴に連打し、挙げ句、郵便受けにイタズラをしようとしているのが確認できた。何が面白いのか泰介にはまったく理解できなかったのだが、彼らのうちの一人は一本の長ネギを取り出すと、それを強引に郵便受けに突っ込んでみせた。そして人生で一番面白い光景を目撃したとばかりに大声で笑い出す。
事態は最悪であったが、妻も娘も家にいない時間帯だったことは不幸中の幸いであった。妻はパートに、娘は学校に行っている──そうだ、家族にも連絡を入れないと。果たして、貰い事故としか言いようのないこの奇怪な状況をどのように説明すればいいものか。頭を痛めながらも、目下対処すべきは迷惑な野次馬たちであった。
どうしようかと考え始めてから、警察を呼んでしまおうというシンプルな解決策に辿り着くまで、さほど時間はかからなかった。
泰介はスマートフォンを取り出し、一一〇を入力する。しかし発信ボタンを押す直前で、わずかな迷いが生まれた。もしも、ネット上の愚かな人間たちと同様に、警察も泰介のことを何かしらの事件の犯人だと思い込んでいたとしたらどうする。弱気に曇り空を仰ぎかけるが、泰介はすぐに邪念を払った。日本の警察がそこまで間抜けであるはずがない。
二人組の警官はおよそ五分後に現れると、本棚の埃を払うよりも簡単に野次馬たちを退散させてみせた──というより、制服姿の警官を見た瞬間に野次馬たちが自発的に逃げ出した。
警官は塀の陰にいた泰介の姿を確認すると、早足で歩み寄りながら口を開いた。
「山縣泰介さんだね」
どう甘く見積もっても三十は越えていないだろうという若い警官がやや高圧的な態度で声をかけてきたことが引っかかり、用意していた感謝の言葉が声にする直前で消えてしまう。ひとまず、はいとだけ答えたところで、若い警官は畳みかけた。
「ネットのあれ、わかるよね。山縣さんのアカウント」
「……はい?」
「ちょっと家の中を見せてもらいたいから、念のため開けてもらえる? 山縣さんのアカウントの件で、たくさんの通報が来てるのよ」
悪夢を見ているかのようだった。強烈な失望の念が、泰介の意識とは無関係に力ない笑みへと変換されていく。
若い警官が暴走しているだけなのかと思いきや、後ろで控えているいくらか年かさの警官も同様に泰介に対して疑念の眼差しを向けていた。警察組織として、俺のことを疑っているのだ。デマを鵜呑みにする姿勢に憤りの気持ちはあったが、熱くなってしまえば状況は悪くなるばかりであった。泰介は意識的に気持ちを落ち着けてから、努めて人当たりのよい笑みを浮かべてみせた。
「勘弁してください。あれは私のアカウントじゃありません。すべて濡れ衣で、私は被害者です」
二人の警官は相談するように一瞬だけ視線を交わす。「じゃあ、なんだ。お家は、開けてもらえないんだ?」
一切の敬意が感じられない物言いにさすがに血圧が上昇し始める。
「開けるわけ、ないでしょ。それよりもネットで噂になってる記事を削除して、デマを正してくださいよ。家にあんなイタズラまでされて困ってるんです。被害者を守るのが、そちらさんの使命ではないんですか?」
「山縣さん。記事の削除とかはね──」それまで黙っていた年かさの警官が、まるでマッサージ店で性行為を強要した人間を諭すような口調で告げる。「うちじゃやってないの」
話にならなかった。ふつふつと煮え始めた怒りをどうにか抑え込み、泰介は静かに首を横に振った。異星人と会話しているような気分に嫌気が差し、元来た道を戻ることにする。
「山縣さん、どこ行くの」
「……仕事するんですよ。駅前の喫茶店で」
「お家帰らないの?」
「……おかしな連中がまた来るかもしれないのに、近づけるわけがないじゃないですか。できればおかしなのが寄りつかないよう、見張っておいてもらえないですかね」
返事を待たずに背を向けると、近隣の住民が二、三組ほど泰介と警官の問答を観察していたことに気づく。さすがに笑顔で事情を一から説明する余裕はなく、怒りと屈辱を胸に下を向いたまま歩き出す。ある程度歩いたところで振り返ってみると、腕を組んだ二人の警官は未だ泰介の行く先を注視していた。すぐにでも取って返し、いくら何でも非礼が過ぎるのではないかと言ってやりたい思いを堪え、早歩きで大帝ハウスへと戻る道を進む。
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