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 誓は十五時、東京駅の新幹線改札口で客人を待った。元日のいま、帰省する人や旅客で混雑している。改札口の前にある柱に寄りかかりながら、スマホにいれた動画の一部を見る。

 向島春刀をとらえた、大阪府警の監視拠点での映像だった。昨年九月、天王寺にある本家吉竹組の門前にタクシーがつける。向島はタクシーから降り、右腕だけで白いワイシャツの上に鼠色の光沢あるジャケットを羽織った。ネクタイは黒で、ヤクザの彼にしては珍しく地味ないでたちだった。いつもの色付きの眼鏡もかけていない。若い衆に促され巨大な観音扉の向こうに消える。

 これが向島春刀をとらえた最後の姿だ。誰かのクルマの後部座席に乗れば内偵カメラには映らずガレージから出られるが、東京に戻っている様子もなく、曳舟の組事務所にも顔を出さなくなった。

仲野なか のさんですか」

 離婚前の苗字で呼ばれ、誓は顔をあげた。結婚生活は三年ほどだった。専業主婦だったこともあり、誓はいまだに『仲野』という苗字に反応してしまうことがある。

 改札口から出てきた男はスーツ姿でサムソナイトのスーツケースを転がしている。微笑んでいるのに目が据わっていた。

「いまは桜庭さんに戻られたんでしたっけ。大阪府警の今仲秀太いま なか しゆう たです」

 男は桜の代紋の入った名刺を出した。大阪府警本部、捜査第四課暴力団対策室の係長で警部補だった。

「警視庁でいまさら私を『仲野』と間違えて呼ぶ人はひとりもいませんよ」

 誓はきつい調子で答えた。これから吉竹組の分裂抗争を防ぐため大阪府警とは協力し合わなくてはならないが、牽制球をくらったように感じたのだ。

「失敬、向島一家に関する資料をくまなく読ませていただいて、『仲野誓』という署名捺印を多く目にしたもんで。しかし大変でしたね、元旦那はんもマル暴刑事やったのに闇落ちして懲戒免職とは」

 わざわざ口に出して言う。地下二階の駐車場へ降りた。誓は運転席に座る。今仲はトランクにスーツケースを押し込み、助手席に座った。柔道家らしいカリフラワー耳をしている。胸板も厚い。髪はクセ毛かパーマか、波打っていた。横顔には凄みがあり、チャラい雰囲気はない。

「昨年のうちに警視庁さんからも府警に出向していただいて、助かってますわ。東京の様子がようわかります」

「今仲さんもつつみ隠さず府警のことを教えてくださいね」

「我々府警は、桜庭さんの出向を待っておったんですよ。なにせ伝説のマル暴刑事、桜庭いさお元室長のお嬢さんですやろ」

 父は大阪府警のマル暴刑事だった。長らく吉竹組を担当しており、暴力団対策室長を最後に定年退職した。

「それやのにヤローの登場で我々がどれだけガッカリしたことか」

「今仲さんは警視庁に出向する側、私とこうして会うことができて、よかったですね」

「そりゃーもうこうして助手席からそのみずみずしいお顔を拝められて幸せ。ってそれ自分で言うんかーい」

 今仲のノリツッコミは東京で聞くと寒い。ミナミの雑踏ならば多少は面白いか。

「誓ちゃんはなして府警でなくて警視庁に入ったんです?」

「いきなり誓ちゃん呼ばわりですか」

 誓のことをこう呼ぶのは、藪哲子だけだ。彼女は女性マル暴刑事の大先輩であり相棒でもある。気心が知れているし頼りになるが、何でも見通すから厄介なところがある。

「区別さしてください。私にとって『桜庭さん』は桜庭功元室長その人しかおりません」

「その若さで、父の部下だったわけでもないでしょう」

 父は二〇〇八年に定年退職している。

「吉竹組系の暴力団員が万引きしよって、その窓口になったことがあったんです。ちなみに僕は二〇〇七年入庁」

「卒配、交番で修業していたときの話ですか」

「交番脇につけて面パトから降りて来はったときの桜庭室長、ほんま見惚れました。あの佇まいをそのまま受け継いどる。横顔もお父さんにそっくりやないですか」

 こいつは絶対に父を知らないと確信する。

「で、誓ちゃんの話でっせ。府警でなくて警視庁に入られたのはなんでです?」

「父が亡くなったあと、母と東京に越したんです。高校もこっちで卒業しました。もう大阪に自宅もありませんでしたし」

「そうやったね。お父さん、定年した翌年に病気で亡くなられた。早すぎますわ」

 ようやく仕事の話になった。

「午前中、僕も本家の特定抗争指定とガサ入れに立ち会いました。押収物の精査はこれからですが、向島春刀の痕跡は一切ナシ。どこに消えてまったんかのう、向島春刀は」

 今仲が助手席のリクライニングを少し倒し、腕を組んだ。すでに桜田通りに入っている。警視庁本部は目と鼻の先だが、霞が関の地理がよくわかっていないのかもしれない。

「吉竹組分裂抗争のど真ん中に向島春刀がいるのは間違いありませんからね。本家吉竹組についたのか。はたまた関東吉竹組の側にいったのか。立ち位置によっちゃ、向島一家は攻撃される側にも、する側にもなるわけや」

 警視庁本部庁舎が見えてきた。

「警視庁に到着しましたら、改めて情報を整理しましょう」

「誓ちゃ~ん。地元は八尾やろ。僕とは関西弁でいきませんか。僕はこれから抗争が終わるまで、警視庁にぼっちですよ。一人くらい関西弁がおらんと心細い」

 警視庁本部の地下駐車場に入る。

「着きました」

 今仲は盛大にズッコケてみせた。

 

 誓は庶務係に覆面パトカーのカギを返し、予約していた小会議室のカギを受け取って廊下に出た。スーツケースに腰かけた今仲が手持ち無沙汰な様子で待っている。顔見知りがいるわけでもなし、勝手がわからない庁舎で、今仲は不安がもろに顔に出ていた。普段は、有名建築家が手掛けた豪華な大阪府警本部庁舎を闊歩しているのだろう。三十代中盤で日本最大の暴力団の担当なのだから、今仲は府警マル暴のエースに違いなかった。

「部屋、取ってありますので」

「大部屋ではできない話でっか」

 いちいち意味ありげだ。誓はフロアの奥にある小会議室のカギを開けて、明かりをつけた。缶コーヒーを二つ買い、喫煙所からアルミの灰皿をひとつ拝借して、小会議室に戻った。

「ここは禁煙やろ」

「後で窓を開ければ大丈夫ですよ」

 トートバッグから消臭スプレーを出した。

「準備がええのう。助かりますわ」

 今仲はジャケットの内ポケットからセブンスターを出して口にくわえた。誓は赤マルだ。

「早速ですが、これまでの抗争の経緯を情報共有しましょう。まずは吉竹組がなぜ分裂したか、ですが」

 今仲は煙を吐きながら頷いた。

「五代目の跡目がもめ事のきっかけやな」

「四代目体制のとき吉竹組は安定していた」

 誓はノートパソコンを開き、組織図を開いてみせた。四代目は豊原裕久という辣腕が令和元年までトップを務めた。豊原を筆頭に、若頭、総本部長までのナンバー3の名前と彼らが地元で持っている組の名前、拠点が記されている。若頭補佐は七人いた。向島春刀の名前もある。

 他、若中までの三十八名が直系組長で、それぞれが全国各地に組を持っている。これを二次団体と呼ぶ。二次団体の構成員も自分の組を持っており、これが三次団体にあたる。舎弟関係にある人物とその組も含めると全国四十七都道府県に息のかかった組があり、全国統一を成し遂げた唯一の暴力団だった。だが三年前、豊原が病死すると、跡目争いが起こった。

 次期組長候補と目されていたのは若頭の泉勝だった。病床の豊原が書いたとする遺書には若頭補佐の一人だった矢島勇を跡目にするようにとあった。矢島は和歌山を拠点とする矢島総業の会長だ。

 遺書の真偽性が議論にあがると矢島の跡目に反対した幹部が次々と不可解な自殺や失踪を遂げた。最終的には泉までもが和歌山ナンバーのダンプカーに突っ込まれて瀕死の重傷を負った。

 泉が死線をさまよっている間に、矢島勇が襲名披露を行い、五代目の名乗りを上げた。

「ここまではありがちなヤクザの跡目争いだが、こっからの矢島のやり方が異例やったな」

「そうですね。この後の出来事で中堅どころからも反目が出始めた」

 矢島勇には一卵性双生児の弟、進がいる。二人は和歌山城に近い虎伏神社の神主の息子として育った。顔は同じながら、性格はまるで違う。勇は狡猾な頭脳派で、大学生時代にはねずみ講で学生相手に詐欺を働き逮捕されている。

 弟の進は中卒だが腕っぷしが強く、二十歳のときに大工の親分を殺害して勇と共に死体を遺棄して、服役している。出所後、「二人は一心同体」と共に出身地の和歌山に戻り、虎伏神社の神主として大幣おお ぬさを振るった。運送業をシノギとする小さな暴力団組織を譲り受けて矢島総業とし、土木建築業にも進出して関西国際空港建設や阪神・淡路大震災の復興事業などに食い込み成長していった。やがては吉竹組の直参となり、二年前、力ずくでそのトップに躍り出たのだ。

「勇が吉竹組の五代目組長になった直後に、双子は二人で一心同体だからと、進までもが吉竹組の組長の名乗りをあげた」

「組長が二人おる任侠団体など前代未聞や。進の襲名披露はボイコットが続出、空っぽの座布団が目立ったという話や」

 さすが大阪府警は内情をより具体的に知っている。勇の盃を持っている直参は多いが、進の分まで持っている者は少数派らしい。つまり進は“名乗っているだけの組長”だ。

「その上、組長二人やから上納金も二人分として、矢島の双子は倍額要求し始めた」

 子分たちの不満が募る中、反旗を翻そうとした幹部数人が立て続けに失踪したり、自殺体で発見されたりすると、みな沈黙した。

「矢島勇の組織運営能力、進の実行能力に屈するよりほかなかったんやろ。恐怖政治や」

 だがこの状態が長く続くはずもなく、入院していた泉は病院内でクーデターを画策していた。さすがの矢島兄弟も、面会謝絶の病院の中までは手出しができなかったようだ。

「二年前に関東吉竹組の発足が宣言され、三分の一が双子に盃を返し、関東吉竹組に合流した」

 誓は関東吉竹組の組織図を見せた。

「関東吉竹組の構成員は二千三百人です」

「本家吉竹組は八千ちょっと」

「関東吉竹組は劣勢ですが、中立の向島一家を引き入れれば、資金や人員ともに本家と五分で戦える算段があったのだろうと思います」

 向島一家は八十人と多くはないが、総長の向島春刀が旧吉竹組きっての武闘派だ。

「十四人衆のひとりやったらしいからな」

 決死十四人衆は、四代目豊原体制の平成初期に東日本を制覇するため結成された暗殺・拷問集団と言われている。大阪府警も警察庁もその存在を確認していないし、認めていない。全く尻尾をつかめなかったからだ。極道の超エリート集団ともいえるが、かつては人を殺せば凶器を持って出頭してくるのが任侠と言われていた極道の常識を破った、厄介な集団だ。

「結成時期は暴力団対策法ができたころやな」

「法律で規制するなら地下に潜ってやることをやる、という四代目豊原の意思表示だったのかもしれませんね」

 誓は向島の背中に入った刺青の画像を今仲に見せた。

月岡芳年つき おか よし としの浮世絵、直助権兵衛なお すけ ごん べ えが描かれています。江戸時代の凶悪殺人犯で、被害者の顔面を剥いでいる場面です」

 他の十四人衆にもそれぞれに月岡芳年らが描いた英名二十八衆句えい めい に じゆう はつ しゆう くという残酷な絵の刺青が入っていると言われている。向島はこの絵柄の通り、人の顔面を生きたまま剥いで拷問死させてきたという噂がある。

「向島はあんたのお父さんが一度、逮捕しとったな。若くして腕をなくした向島を、桜庭さんは晩年まで気にしとったいう話や。通じるものでもあったんかの。個人的に会っとったようやが」

「そうでしたか」

 誓は全く知らなかった。だがいまは、どうして大阪府警の刑事が東京のヤクザと頻繁に会っていたのか、理由はわかる。今仲には絶対に言えないが。

 話を吉竹組の分裂抗争に戻す。

「関東吉竹組を旗揚げした泉組長は、向島一家が喉から手が出るほど欲しかったはず」

 もともと博徒集団だが、賭博場を開くことが法規制されると、バカラ賭博へ移行、それも規制されたいまはネットカジノでもうけているという話だ。

「だが向島は和解のため、泉組長に謝罪の手紙を書かせようとしたらしいな」

 今仲がうなる。

「僕はね、向島は一本筋を通す男やと思うんや。旧吉竹組の若頭補佐とはいえ、向島の拠点はこっちやから、警視庁さんの内偵資料を読ませてもらっての感想ですけど」

「私もそう向島を分析しています」

「泉組長に謝罪を要求しておったということは、向島は心情的に本家、つまりは矢島の双子についとったんやろか」

 誓はうなるにとどめた。筋を通す男が、全く筋を通さずに日本最大の暴力団のトップの座にのし上がった矢島の双子の方に寄った動きをしていたのは、奇妙なことだった。

「関東の泉とはもともと仲が悪かったんか。もしくは矢島の双子に恩義でもあったんか」

「なにか弱みを握られていた可能性もありますね」

「向島がなんで左腕をなくしたか、誓ちゃんは知っとる?」

 誓は首を横に振り、画像を見せた。

「これは向島を捉えた最も古い映像を切り取ったものです。当時十三歳、吉竹組のガサ入れ抗議のため本家の門前に並んでいます」

「中坊でか。まだ腕があるな」

「向島は十三歳ですでに天王寺の吉竹組に出入りしていた。彼は関西育ちではないかと思うのですが」

「ガサ入れ時には傘下団体から腕っぷしが強いのを呼ぶ。どこから来たかは限定できん。僕は向島が関西弁をしゃべっとるのを聞いたことがないで。関東育ちやないんか」

「関西弁をしゃべらないから関西人ではないとは断定できないでしょう」

 誓は、吉竹組系列の暴力団事務所から押収したアルバムにあった向島の写真をいくつか見せた。

「次に古いのが二十歳のころ。初代向島のボディガードをしています。このときすでに左腕がないようです」

「つまり、十三歳から二十歳の間に腕を失った?」

「肘から下の切断は重傷です。二十歳のときにボディガードができるほどに回復していることを考えるに、十八歳ごろまでに腕を失ったとみるのが自然かと思います」

「十代で腕を切断するほどの喧嘩や抗争に参加していたとは思えんな。事故かなにかで失ったんちゃうか」

「本人は、人生最高の失敗を犯したときのものだ、と言っていました」

 誓が腕について直球で訊いたときのことだ。向島は苦笑いしていた。

「人生最高の失敗」

 今仲は食い気味に繰り返した。

「誰かのためだったのではないでしょうか。あの人のことだから、誰かの命と引き換えだったとか」

「あの人」

 今仲はいやらしい目をしていた。

「なんですか」

「いや。別に」

 今仲は椅子に座り直した。

「で、去年の夏に勃発した代理戦争やな。シノギを巡り、本家吉竹組系坂崎さか ざき興業と、関東吉竹組系八王子双竜そう りゆう会がもめて死者を出す抗争に発展した。発端は、警視庁マル暴刑事、仲野賢治けん じ警部補銃撃事件」

 誓の元夫だ。

「だがこいつは闇落ちしておったんやな。車椅子になってもなお、妻だった誓ちゃんから捜査情報を抜いて八王子双竜会に流しておった。あんたはアジトを突き止めたが八王子双竜会の輩に取っ捕まって……」

 今仲が上目遣いに誓を見た。この話を振っても大丈夫か、気遣っているようだ。誓は全裸にされチェーンソーでバラバラにされるところだった。刃物による深い傷が右乳房に残っている。

 誓は八王子双竜会の若頭補佐だった男の画像を見せた。三十代中盤の金貸しだ。

「渡世名は海竜将かい りゆう しよう。この男が私を拉致し暴行した主犯です。警察が踏み込んだ際に逃亡し、四か月経ったいまも足取り不明です」

 今仲がじっと海竜の画像を見つめる。

「去年の代理戦争で行方不明になったのは、関東吉竹組系の海竜と、独立系の向島の二人っちゅうわけやな」

「ええ。海竜は関東吉竹組の助けで潜伏中か、もしくは本家吉竹組につかまって消されたか、そのどちらかだと思っています」

「まあ、これは雑魚やろ。僕はやっぱり向島の動きが気になる」

 今仲が誓を凝視した。

「誓ちゃん。正直に、腹割って話そ」

「腹を割って話していますが」

「ほならカードを切らしてもらいますよ」

 今仲は缶コーヒーを口にしたが、空っぽだと気づき、ごみ箱に乱暴に放り投げた。

「あんた、向島の女やろ」

 

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