「二年前にこのサービスを知った入居者が猛烈に推したそうです。大家さんを含め、他の人たちは急な話に驚いたものの、見学に行くうちに『面白そう』と前向きな気持ちになり、全員一致で契約に。そのとき料金負担についてはいろんな意見が出て、最終的に入居者四人と大家さんとで五分割することに落ち着きました。名義上は大家さんが契約者で、今のように入居者がひとり減っている場合は、その分も払っています。なかなかよいバランスだと私、個人的に思いました。みんなで飼う犬なので、ひとりだけ払わないとか、金額が異なるとかはありません。ただ大家さんはやはり大家さんであってこの家の責任者。リーダーシップを握ってしかるべきです。そういうバランスが取れています」
「はあ、でもそれは皆さんが決められたことで、あとから入居する人に求められても……」
「おっしゃるとおり。合意した人しか入居できませんよね。ただですね、さっきも言いましたようにここは割安の物件です。それに加えて光熱費も安く設定されています」
「光熱費?」
「シェアハウスの一般的な話ですが、物件によって電気ガス水道代が定額料金のところと、個人払いのところがありまして、こちらは前者の定額です。ネット回線代やトイレットペーパー、洗剤などの消耗品も毎月の共益費に含まれています。お得ですよ。もちろん自分の好きなものを使ってもかまいませんし」
「つまり、備え付けのものなら自由に使えると? 台所もお風呂場も?」
「はい」
さっき見たばかりのシャンプーやトリートメントがよぎる。それはありがたいと、思ったことが顔に出る笙子だ。
「ですので、割安な賃貸料金に割安な共益費が加算され、そこに番犬のレンタル料金が乗っかるわけですが、そうなっても今の門脇さんのアパート代+諸経費と、大して変わらないはずです」
手品を見ているような思いだった。犬に興味はないどころか、犬のための出費など冗談じゃないと思っている。そんな余裕はない。無駄なお金など十円だって使いたくない。
でも、トントン? 今のアパート代と変わらない? いや、だからといって犬への興味が湧かないのは同じだ。もっと言ってしまえばあの黒い犬と、ひとつ屋根の下に暮らすのは気が進まない。パスしたい。でも。
途中まで送ってくれた菅原の車から降りての帰り道、芽依の方から話しかけてくれた。
「お母さん、ナンシーのこと名前と合ってないって言ったでしょ。私も前に、学校の子にそう言われたんだよね」
「え?」
「芽依なんて名前可愛すぎる、ぜんぜん似合ってない、おかしいって」
身体が強ばる。アパートに向かう路地を、ティッシュペーパーや洗剤の入ったエコバッグをぶら下げて、娘と並んで歩いていた笙子は立ち止まらずにいられない。
「誰が、そんなこと言ったの。ひとり? それとも何人も?」
「いいの。平気。何人いても気にしてないから」
笙子に合わせて芽依の足も止まる。視線を外してそっぽを向く。平気なはずがない。気にしていないふりを装うために、いつしか表情が硬くなり、活気も失われたのではないか。
芽依は学校でどんな時間を過ごしているのだろう。過ごさなくては、いけなくなっているのだろう。今までも考えないではなかった。苦しい思いをしているのではと案じてはいた。でも触れるのが恐くて見ないふりをしていた、のかもしれない。具体的な話を聞いて目の奥が熱くなる。胸が痛い。
「お母さん、ナンシーって町の名前なんだって」
「町?」
「フランスって国にある町の名前。そこから取ったんだって。大家さんが言ってた。可愛い名前でしょう、ぴったりって」
芽依はそう言って、笙子を促すようにして歩き出した。
「いいよね、ナンシー。強くてかっこよくて可愛いの。早くまた会いたいな。私のことを忘れちゃう前に。ううん。きっと忘れない。すごく賢いんだって。私より頭がいいかも。今度会ったら触らせてくれるかな。……あっ」
明るい声を出していた芽依が急に話を止める。その理由に察しがついた。芽依は思い出したのだ。今日のはただの見学であり、入居する可能性がなければ二度とあそこには行かない。犬にはもう会えない。
しおれた花のように、小さな頭がうなだれる。
「芽依、考えてみようか。私たち、あそこに住めるかな。やっていけるかな」
しおれた花が水を吸い込むように頭が持ち上がる。すがるような目が笙子に向けられる。
「いろいろちゃんと考えなきゃね。でも、試しにやってみるってのはいいかもしれないよ。選べる余地があるって、それだけで幸せなことだし」
お母さんは誰かと一緒に住むなんて嫌。人付き合いが苦手なのでやっていく自信なんて欠片もない。それらの本音を今は飲み込む。他に何がしてあげられるだろう。意地悪なクラスメイトに囲まれ、ひたすら耐え忍んでいる娘に。
「余地?」
「芽依の名前もね、たくさんの候補の中から選んだんだ。芽依は五月生まれでしょう? 新緑の季節にぴったりの、爽やかでみずみずしくて、芽吹いたばかりの葉っぱみたいに明るい名前がいいと思った。芽依はほんとうに可愛い赤ちゃんだったから」
今でも、と付け加えると、照れ笑いを返してくれた。素直で優しい子だ。なんの楽しみもなく無味乾燥な日々を送っているなどと言ってはこの子に失礼。一緒にいて自分は温かな気持ちになれる。寂しさが和らぐ。あとはこの子自身の心に明るい光が差してくれればどんなにいいか。
祈るだけではダメだ。自分のひ弱なメンタルを奮い立たせなくては。挑戦する余地が今ならまだあるらしい。
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