母子家庭のせいなのか。母子家庭でも明るい親子はいるだろうから、つまりは母である自分のせいなのか。思い当たることはいろいろある。芽依の服のほとんどは中古品で、靴はくたびれきっている。美容院には行かずにおうちカット。ファンシーグッズは百均がせいぜいで、おしゃれに敏感な女の子たちと話は合わないだろう。習い事はもとより、外食やレジャーも皆無に等しい。
なんの楽しみもなく無味乾燥な日々を送っている自分の、ひな形を見るようだ。自分にもおしゃべりしたりご飯を食べたりするような友だちはいない。昔はいたけれど連絡を取らなくなって久しい。娘も同じでいいとは思っていない。せめても家の中が明るくなるようにと、会話の弾むような話題を探したり、賑やかなバラエティ番組を一緒に見たりと心がけてはいるものの、笑い声はテレビから聞こえてくるだけで会話は続かない。娘も母に気を遣っているにちがいない。互いにきっと無理をしている。
だからといって他に、どうすればいいのだろう。
悶々としていたところ、娘は今、無邪気に白い歯をのぞかせている。
「お嬢ちゃん、よかったらこれから見に行ってみる? どんな犬なのかわかるよ」
「ほんと? 私も見ることができる?」
「案内するのがおじさんの仕事だからね。近くだからすぐだよ。門脇さん、よろしかったら見学してみませんか。候補のアパートのひとつくらいの感じで」
とんでもないと、またしても思ったけれど、断りの言葉は喉の奥に押し込んだ。母親の顔色をうかがう娘の目から、キラキラが消えてしまう方が惜しい。
「いきなりうかがって大丈夫ですか?」
「聞いてみますね。お待ちください」
菅原はスマホを手に慣れた様子で指先を動かした。先方はすぐに出てきたらしい。あっという間に話が決まるのを笙子は硬い顔で見守り、そのすぐとなりで芽依はとろけるような笑みを浮かべていた。
不動産店舗から車で乗り付け、後部座席に買物の袋を置いたまま外に出た。生ものは買っていないのでしばらくは大丈夫だろう。
初めて訪れたシェアハウスは住宅街の中に建つ大きめの一軒家だった。入り口の看板に「ひろさきハウス」とある。大家さんの名前が広崎だそうだ。車の到着に気がついたのか、チャイムを鳴らす前に玄関ドアが開いて女性が出てきた。七十代とおぼしき年配の人だ。短い白髪に銀縁の眼鏡、上半身をすっぽりくるんだエプロン姿。下はスリムなズボンを穿いている。
「いらっしゃいませ。大家の広崎です」
にこやかに迎えてもらい、玄関で靴からスリッパに履き替え廊下を歩く。これまでのアパートの見学とはぜんぜんちがう。親戚の家に遊びに来たような感覚だ。
大家さんがドアを開けて室内に入ったので、あとに続いてリビングらしき部屋に足を踏み入れる。そのとたん、黒い塊が目に飛び込んできた。犬だ。
「すごい、ドーベルマン!」
芽依の声が遠くに聞こえるほど、笙子は硬直した。二十畳近くありそうな広いリビングだったので、犬がいるのは数メートル先だ。離れているし、動かずじっとしているので安全なのだろうが威圧感が半端ない。引き締まった体躯は攻撃力の高さをうかがわせ、鋭い眼光は肉食獣の猛々しさに満ちている。
立ちすくむ笙子におかまいなしに、大家さんは犬に歩み寄り「お客さんよ」と話しかけた。つられたように芽依が前に出たのでとっさに腕を掴んで押しとどめる。
「危ない。じっとしてなさい」
「でも」
「いいから、動かないで」
母娘のやりとりを聞いて、大家さんは鷹揚に微笑んだ。
「そうよ。お母さんの言う通り。いきなりではなく少しずつね。でないと驚かせてしまうから。あなた、もしかして犬に詳しいのかしら。ドーベルマンってすぐ言ったでしょう? 耳が垂れて尻尾もあるのに、よくわかったわね」
「最近はそういうドーベルマンが増えてるって本で読みました」
「まあ、素晴らしい。ナンシーも嬉しいみたい。尻尾を揺らしている」
「ナンシーっていうんですか」
「三歳の女の子よ。あなたのお名前は?」
「芽依です。門脇芽依」
はきはき答える娘の声を久しぶりに聞く。すっかり忘れていたが、幼稚園の頃の芽依はもっと活発で、恥ずかしがり屋ながらもアスレチック遊具が大好き。遠足の山歩きも夢中になっていた。遊具のてっぺんで万歳していた姿や、藪の中に分け入る背中を思い出す。
「ナンシー、芽依ちゃんですって。可愛らしいわね」
「こんにちは。初めまして」
大家さんの紹介を受けて芽依は腰をかがめた。犬の目線にあわせて話しかけると、長細い鼻面が芽依に向けられ、ほんのかすかに「グルルルル」と喉の鳴る音がする。それがどういう意味なのか笙子には見当も付かないが、大家さんは満足げに目を細め、菅原はおどけた雰囲気で身体を揺らした。
シェアハウスについてはほとんど知識がなかったので、大家さんに案内されて室内を見てまわると、すべてが物珍しく驚きの連続だった。見学の間、犬はケージに入れられ、そちらが気になってたまらない芽依も大人たちの後ろについて来た。
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