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 少年が、文七の後を追ってきてから、もう四時間近くなる。歩きながら、しきりに話しかけてくる少年を無視するようにここまで来たのだが、少年は文七から離れようとはしない。

「いつまでついてくる気だ」

 水面に映る灯りを見つめたまま、文七は言った。

 少年が顔をあげた。

 やはり、上着のポケットに手を突っ込んでいる。

 上着の左肩のあたりが切れていた。

 サングラスの男のナイフで切られたものである。

 少年は、ポケットから手を出して、数歩、文七の方に歩み寄った。

 左手首に、ナイフの浅い傷跡がある。

 上着を左腕に巻いて、ナイフを受けた時に、そこを傷つけられたのだ。上着の肩の切れ目も、その時につけられたものであった。

「やっと声をかけてくれたじゃねぇか、おっさんよ──」

 まだ、文七から三メートルほどの距離をとったところで立ち止まった。

「どこまでついてくる?」

 文七が低く言う。

「どこまでって──」

「金は、ない。それをあてにしてるんなら別のを捜すんだな」

「ちぇっ、金を持ってるつらかどうかは、見ればわかるんだよ──」

「おれはどうなんだ」

「持ってるつらしてると、自分で思ってんのかい、おっさん──」

 まるでもの怖じというものを知らない性格らしい。

 文七の厚い唇に初めて、小さく苦笑めいたものが沸いた。

「思ってない」

「そうだろう」

「だから他をあたってみるんだな」

「他じゃ、駄目なんだ」

「どうしてだ」

「おれは強くなりたいんだよ」

「───」

「弟子にしてくれよ──」

「弟子だと?」

 文七は思わず少年の方を見た。

 弟子などという言葉が、この少年の口から洩れるとは思ってもいなかったのだ。

「空手かなんか、やってるんだろう。おれにそれを教えてくれよ」

「教える?」

「これをだよ」

 少年が、右拳を握って、前に突き出した。

 その突き出し方が、それなりに型になっている。

 空手ダコが、拳にできていた。

「おまえ、少しは心得があるな」

「ああ」

 少年がうなずいた。

「ならってたのか」

「少しね」

「ならばそこで強くしてもらえ」

「けっ、駄目だよ、あんな道場──」

「───」

「能書きばかりたれやがってよ。ルールだのすんめだの、まどろっこしいことばかり言いやがる」

「そうか」

「なまいきなのが道場破りに来ても、相手もしないで追い返すんだ」

「道場破りか──」

 文七はつぶやいた。

「そんなのがまだいるんだな」

「いるさ。自分で道場破りとは言わねえけどさ、見学させて下さいなんて、最初はしおらしい顔で来るんだよ。もちろん、はじめから見学だけして帰るつもりなんかねえのさ。そのうちに、ひとつ教えて下さいなんて言い出すんだ──」

「ほう」

「上の者がいる時はたいていはやらないんだけどね、上の者がいない時に、一度そんなやつが来てね、おれが相手をしたことがあったんだよ」

「───」

「本気でぶん殴り合ったよ。そいつとね。そいつは、まだ大学生らしかったけどね。実力はもちろん、おれなんかよりは上さ。だけどようするにケンカってのは度胸だろう。こっちの方の分が悪かったけど、向こうの方がびびってやがった。殴られてもいいから、相手を殴りたくてさ。三回やられるうちに、一回はこっちの手が当ってるんだ。それで、絶対にまいったを言わない。技もへったくれもないよ。血だらけでぶん殴り合ってる時に、先輩が帰ってきてさ、説教たれやがるのさ──」

「───」

「ケンカに道場を使うな。ちゃんとしたルールでやれってさ」

「ルールか──」

「寸止めなんて、ルールじゃねえよ」

 普通、空手の試合の場合、実際に拳や蹴りを相手の肉体に当てないように行われる。

 相手の肉体に触れる寸前で、攻撃を止めるのである。それを見て、審判が勝ち負けを判断して裁定を下すのだ。

 空手の攻撃が危険すぎるために作られた、空手独特のルールである。それを、少年は寸止めと言っているのだった。

 ボクシングや剣道など、他の格闘技では、実際に相手の身体に打撃を当てる。ただ、その打撃のショックを柔らかくするために、ロープや、竹刀や、防具が使用されているのである。

「しかし、最近じゃ、実際に当てる流派もかなりあるはずだ」

「そりゃあ、あるさ」

「何故そこへ行かない」

「───」

 少年は黙った。

「そこへ行け」

「冗談じゃねえよ」

「───」

「学生証を持って来いだの、親の許可はどうだの、どこに住んでるだの、ややこしいことばかり言いやがる。確かに、試合じゃ、当てるのをやらせてくれるけどよ、かんじんのケンカをやらせてくれねえんだ」

「おまえ、このあたりの人間じゃないだろう?」

 文七は言った。

 少年の言葉は、完全に関東あたりのものである。

「そうさ。おっさんと同じ風来坊、、、だよ」

風来坊、、、か──」

「───」

「親は?」

「知るかい。そんなの」

「まだ高校生じゃないのかい」

「やめたよ」

「やめた?」

「入学したその日に、なまいきな野郎がいてよ、そいつをぶちのめして停学をくらったんだ。中学の時からワルだったからな、おれは。その日から高校にゃ行ってねえよ」

ワルか──」

「おっさん、おれに説教しようってわけじゃねえだろうな」

「そんなガラじゃない」

「お互い様だもんな」

 にっと、少年が笑った。

 大人びているようでもあり、子供っぽいようでもある少年の言い方に、また文七は小さく苦笑した。

 空を見あげた。

 すっかり暗くなっていた。

 冷たい風が出始めている。

 文七は歩き出した。

 その後に、少年が続く。

 静かな池のほとりから、雑踏の中に出た。

 奈良駅の方向に向かってゆく。

 少年が、後方からついてくるのを承知しているように、文七は、後方に声をかけた。

「何故、おれの弟子になりたい?」

「強いからだよ」

 少年が、大きな文七の背に答えた。

「おれは強いが──」

 さらりと文七が言ってのける。

 気負いも、何もない、あたりまえのことをそのまま口にしたようであった。

「──だが、おれより強いやつは、まだいくらでもいるぞ」

「信じられねえな」

「本当だ」

「だけどよ、ヤクザをあっという間にのし、、ちまったじゃねえか」

「ボクシングの心得がある者もひとりいたがね。所詮は素人さ。時間がかかり過ぎたくらいだよ」

「いや、のし、、たって今おれは言ったけどさ、そののし、、た時間が長いとか短いとか、そうじゃないんだよ。そういうことはもちろんあるけどね。うまく言えねえんだけどさ──」

「なんだ」

「おっさんは、強いだけじゃない」

「ほう」

本気、、だろ。本気、、でやったじゃねえか!」

「本気?」

「あれだけ強ければよ、あんなヤクザ三人、ほどほどにあしらうことだってできたろう。おっさんはそれをしなかったじゃねえか──」

「あれか」

「おれは、そこに痺れちまったんだよ」

「おれは、おれに刃物を向けてくるような人間には、いつだって本気さ──」

 文七の表情に、苦いものが微かに浮かび、すぐにまた消えた。

 何かを思い出したらしかった。

「しかし、それでも手加減はしている」

「───」

「わからんか」

 文七は言った。

 文七には、むろん、自分の言った意味はわかっている。しかし、それは少年には通じにくいことかもしれなかった。

 少年は少し黙り、そして、言った。

「つまりよ──」

 いつの間にか、少年は、文七の左横に並んでいる。

「──ぶち殺さないため、、、、、、、、に手加減はしたけれども、ぶちのめすため、、、、、、、、には手加減しなかったってことだろう」

「まあ、そんなとこだな」

 文七はつぶやいた。

 文七の言った言葉の意味を、少年は、それなりにかなり明確に理解したらしい。

「しかしな、ワルはともかく、ぬすつとは困る」

「───」

「ヤクザとはっきりわかるような人間から金を盗むようなガキと一緒にいると、ロクなことがない」

「おっさんだってよ、ポケットに金を入れられたのを承知で、とんずらしたじゃねえか──」

「おれは、人から金を盗もうとは思っちゃいないがね、向こうから転がり込んできたものを、交番に届けに行くほどお上品でもないんだよ──」

「盗むも何も、おれがあずけといた金を、自分のものにしようとしたんじゃねえか」

「盗人のうわまえをはねるのは別さ──」

「けっ」

 少年が唾を吐いた。

 前から歩いてきたジーンズ姿の女が、アスファルトの上に落ちたその唾を、顔をしかめてまたいだ。

「金はどうした?」

「置いてきたよ」

「ほう」

「いきがって歩いているような人間からかっぱらうのはいいがよ、のびて転がってるような連中から、金はとれねえよ──」

「意外に上品なところがあるんだな」

 文七が言うと、

「へへ──」

 少年が、頭を搔いてにやついた。

「どうした」

「これさ──」

 少年がポケットに右手を突っ込んで、何かを取り出した。

 指先に、数枚の一万円札が挟まっていた。

「おまえやったのか──」

 文七が言った。

「おまえって、おっさんもかよ──」

「ささやかな額だがな」

 文七も、ポケットからごつい右手をひき抜いた。

 やはり、指先に数枚の一万円札をつまんでいた。少年より量が多い。

「おれよりたちが悪い」

 少年が言った。

「無関係のおれに、刃物を向けたからな」

「けど、金を抜きとったのは、奴らがナイフを出す前だろう」

「そうだったかな」

 文七がとぼける。

「やっぱりたちが悪い」

「悪いか」

「悪いな」

「まあ、しかたがないだろう」

「───」

「今夜は、うまいものを喰って、たっぷり寝ておかにゃならんからな。これは宿代さ。今度、奴等に会った時に、持ち合わせがあったら返しておけばいい──」

 冗談とも本気ともつかない言い方を、文七はした。

 どこか、底のつかめない男であった。

 文七の眼は、遠くを見ていた。

 

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