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第一章 決闘

 

 

 雑木林の道を、たんぶんしちは歩いていた。

 奈良公園から、旧柳生街道へ出、少し登った所から、右手へ折れた道である。

 狭い道であった。

 めったに人が入らないらしい。

 両側からかぶさった枯れ草が、道を塞いでいる。しおれ、カサカサになった草である。その草を、太い両のすねぐように、丹波文七は歩いてゆく。

 枯れ草の中に、緑色の草が、多く混じっている。もういくらもしないうちに、その淡い緑色をしたものが勢力を広げ、枯れ草をおおってしまうに違いない。

 陽当りのいい場所には、イヌノフグリの青や、タンポポの黄色が見えている。

 頭上の梢には、まだ青葉の影はない。

 赤い、堅く尖った新芽が見えるだけである。

 下の奈良公園のあたりよりも、ほんのいくらか、まだ春が遅れているようであった。

 葉でさえぎられないため、陽光が直接林の中に落ちてくる。

 軽い登りの道だった。

 丹波文七が踏み出す足の下で、枯れ葉の潰れる音が響く。

 肩幅が広く、左右から伸びた枝先が、文七の身体に触れて、後方に小さく跳ねる。

 林の底を、微風がそよいでいる。

 乾いた木の匂いを含んだ風であった。

 ふいに、空地に出た。

 道は、その空地で行き止まりになっていた。

 林に囲まれた、奇妙な空地であった。草が生えるにまかせてあるらしく、ぼうぼうと枯れた草が空地をおおっている。

 それほど広い空地ではない。

 テニスコート一面分の広さの土地を、そのまま正方形にしたくらいの空地である。

 正面の奥に、場違いのように、桜の巨木がはえていた。

 その根元の右横に、石造りの、五輪の塔が建っていた。

 文七の身長よりも高いものがひとつ。その横に、それよりもやや小ぶりのものが三つ並んでいる。

 文七は、立ち止まったまま、ひとわたり空地を見回した。

 文七の右手が持ちあがった。

 鉤形に曲げた太い人差し指で、耳のうしろあたりをこりこりと搔いた。

「おい」

 文七が言った。

 太くて、重い声である。

 後方の誰かに向かって声をかけたらしい。

「そろそろ出て来いよ」

 文七が言うと、後方で、枯れ草をあからさまに踏む音がした。

 文七に、その音が近づいてくる。

 その音が止まった。

 文七は、数歩前に出てから、後方をふりむいた。

 道の中央に、ひとりの少年が立っていた。

 先ほど、掏摸騒ぎで三人の男に追われ、二の鳥居近くで文七にぶつかった少年であった。

 上着のポケットに両手を突っ込んで、両足を軽く開いて立っていた。

 顔をやや前へ傾け、上眼づかいに、垂れた髪の下から文七を見ていた。

 鋭い眼光であった。

「わかっちまってたのかい」

 少年が言った。

「何の用だ」

 文七が訊いた。

 少年は、小さく口笛を鳴らし、顔を上げた。

「ちぇ、とぼけちゃってよ」

 端整な貌立ちの少年であった。

 鼻筋が通っていて、唇が赤い。

 美しい野生獣を見るようであった。

 猫科の肉食獣──豹の若い牡が、そこに姿を現わしたようだった。

「とぼける?」

「金だよ」

 少年の唇に、刃物のような笑みが走る。

「こいつのことか──」

 文七は、ポケットから、黒い札入れを取り出した。

 少年が、文七にぶつかった時に、文七のポケットに突っ込んでいったものである。

「それを返してもらおうか」

「返す?」

「そうだ」

「あのサングラスの男に返すんじゃないのかい」

「おれに返すんだよ」

「あんたにか」

「おっさんよ──」

 少年が言った。

「そいつはおれが身体を張って盗んだんだ。だからおれのものだ──」

 強烈な言い方であった。

「ほう──」

「三十万近くあると見たんだけどね。それをおれに返してもらおうか──」

「三十二万と二千円だ」

「もう中を見たのか」

「見たよ」

「けっ」

 少年は、ポケットに両手を入れたまま、足元の草の中に唾を吐き捨てた。

「おれのものになるのかと思ってたよ」

「身体を張って稼いだ金だぜ。それを何もしねえあんたに盗まれてたまるかよ。その金はよ、あんたに、ちょっとあずけただけなんだ。追っかけられてたんでな。それで、あとで捜し易い、身体のでかいあんたにあずけたんだよ」

「何故すぐに声をかけてこなかった」

「あんたが、わざわざ人気のない方へ歩き出したからな。できれば人のいない所で話をつけるほうがいいだろう?」

「それはそうだな」

 文七も、落ちつきはらっている。

「返せよ」

「あの時、おれが、このサイフを持って出ていったらどうするつもりだった?」

「とぼけるしかねえだろう。やばくなったら、とんずらするまでさ──」

「───」

「それでもひやひやしてたんだ。あんたが背中を向けた時にはほっとしたよ」

「そうだろうな」

「返せ」

「そうそううまい話はころがってなかったか」

「そうさ」

 少年が言った途端、文七は、手に持っていた札入れをまたポケットに入れた。

「何をするんだ」

 凶暴なものが、少年の内部に跳ねあがった。

 身体のどの部分に触れても、その瞬間に、そこから刃物が飛び出してきそうだった。

「身体を張って、こいつをおれのものにしようかと思ってね」

「なに!?」

 少年が、ポケットから両手を出していた。

 文七に向かって歩き出した。

「本気かよ」

 歩きながら少年が言う。

「まだ考えてるところだ」

 文七の眼の前で、少年が立ち止まった。

 右手を、てのひら を上に向けて差し出した。

「渡せや、おっさんよ」

「さて──」

 文七は、両手をポケットに突っ込んでいる。

 表情のない眼で、静かな少年を見ている。

 その時、いきなり少年の右足が、地を蹴って跳ねあがった。

 先ほどのヤクザの時とは違って、強烈なスピードがあった。どうやらさっきは猫をかぶっていたらしい。

 足は、真っ直ぐ、文七の股間に向かって飛んできた。

 凄いバネであった。

 天性のものが、その少年の肉体の中に潜んでいるらしい。腰、膝、足首、要所要所で生まれたバネが、きれいに爪先に乗っていた。

 その爪先は、文七の股間には入らず、だぶついたシャツの布地をこすりあげた。

 足の甲が、みごとに股の底を叩くかと見えたが、そこまで足が届かなかったのだ。

 文七が、半歩、身体を後方にひいたのである。

 少年が、大きく後方に跳んでいた。

 文七との距離を、三メートル近くとっていた。

 文七は、まだポケットに両手を突っ込んだままであった。

 少年は、その時、ようやく、文七の周囲にまとわりついている奇怪な雰囲気に気がついたようであった。

「なんだよ、あんたもやる、、のかよ──」

 少年が、腰を落として両の拳を握っていた。

 文七は、まだ草の上に無造作に立ったままである。

「おまえこそ、さっきはだいぶ遠慮してたのか」

「へへ──」

 少年は、赤い唇に獣の笑みを浮かべた。

「あんまり派手にやっちまったんじゃよ、おまわりにも追っかけられちまうからな」

「ほう」

「あの背の高い男だけだよ、変な癖のあったのはな」

 その時、文七が、ポケットから両手を抜き取った。

 右手に、黒皮の札入れが握られている。

 それを、ひょいと、少年に向かって放り投げた。

 少年が空中でそれを右手に受け取める。

「どうした?」

 少年が言った。

「四人も相手に、身体を張るつもりはおれにはないからな」

「なに!?」

 言ってから、ようやく少年も後方の気配に気がついていた。

 文七に顔を向けたまま、左の方向に走った。

 文七と距離をとってから、後方に視線を放った。

 三人の男が立っていた。

 少年に金を盗まれたサングラスの男と、もうひとりの男が、空地の入口に並んで立っていた。

 長身の島村が、ふたりの後方に立っていた。

「糞!」

 少年は、斜め右手に三人の男、斜め左手に文七を見るかたちで、雑木林を背にしていた。

 後方の雑木林と少年の間には、群生した芒が、そのまま立ち枯れている。

 後方の雑木林に逃げ込むにはやや時間がかかる。

 左手には得体の知れない男、文七が立ち塞がっており、右手には三人の男たちがいる。

 正面へ向かうのでは、林の中に逃げ込むまでに時間がかかる。

 一瞬のちゆうちよが、チヤンスを逃がすことになった。

 三人の男が、空地の中に入ってきていた。

「ガキがよ──」

 サングラスの男がつぶやいた。

「そっちの男が、サイフをあずかってたんだな」

 もうひとりの男が文七に向かって言った。

 島村は、ふたりの後方で腕を組んで成り行きを見ていた。

「あずかるにはあずかったがね、仲間というわけじゃない」

「ほう」

 サングラスの男が、口を半開きにして言った。顔をやや傾け、顎を差し出している。

「じゃあ、何なんだ」

「通りすがりでね、人混みの中で、この坊やに金をポケットに入れられただけなんだ」

「───」

「仲間じゃない」

 ぼそりと短く文七がそう言った時、いきなり少年がわめき出した。

「何言ってんだよ、おじさん、、、、よう。やれって言ったのは、おじさんじゃねえか──」

「なに!?」

 サングラスの男が、文七を見る。

おじさん、、、、がやれっていうから、おれはやったんだよ。それなのに、今さら知らないはねえよ。ここで会おうって言ったのもおじさん、、、、じゃねえか──」

 文七は舌を巻いていた。

 この少年の頭の回転の早さにである。

 利用できるものはあらゆるものを利用しようというつもりらしい。

 汚ない。

 ずるい。

 しかし、その汚なさやずるさには、むしろ壮快なものさえあった。

 

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