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 ずんぐりとした、武骨な岩のように、その男は畳の上に正座をしていた。
 正座をして、文七ぶんしちを見ている。
 四十年配の男であった。
 額がややはげあがっている。
 神社によくある狛犬を、そのまま人間にして、そこに座らせたようであった。
 眼が丸く、顔の造りがごつい。
 いずみ宗一郎そういちろうであった。
 文七を見つめている宗一郎の眼の中には、一ケ月半以上も前、奈良公園の裏手の山で会った時の鋭さがない。
 ひどく優しい眼で文七を見ていた。
 私服を着ていた。
 着古した和服であった。
 いつも、日常に和服を着ているらしかった。
 その和服がよく似合っていた。
 つい先ほど、文七はひとりで奈良にあるこの泉宗一郎の家を訪れた。
 小さな家であった。
 竹宮流の名を継いでいるから、ささやかな道場くらいはあるのかと思っていたが、それらしい建物は見当らなかった。
 宗一郎は、やってきた文七を、家の中にあげ、いまいるこの部屋まで案内してきたのである。
 文七も、畳の上に正座をしていた。
 文七の左手が庭であった。
 ツツジや、沈丁花の灌木と、数本の欅があり、その中に一本だけ梅の古木があった。
 ツツジの花が咲いている。
 さっきから、一匹の同じカラスアゲハが、しきりとその赤い花の周囲を舞っている。
 ふたりは、無言であった。
 文七と、宗一郎の前に、茶の入った湯呑みが出ている。
 いったん座ってから、気がついたように宗一郎が立ちあがって、入れてきたお茶である。
 文七は、一度、その湯呑みを唇に運んだだけであった。
 宗一郎は、一度も、茶を飲んでいない。
 野試合をした時よりも、宗一郎は緊張しているらしかった。
 その緊張がひしひしと伝わってくる。
 武骨な宗一郎が、緊張し、優しい眼で文七を見ているのである。
 宗一郎の肉体から、何かが抜け落ちてしまっていた。
 ぎりぎりと体内に練りあげた闘気、鉄の意志──宗一郎が、己れの肉に纏っていた、そういったものが、今はない。
 不思議なほどに、ない。
「よく来てくれました、丹波くん──」
 ぼそりと、宗一郎が言った。
「いえ」
 低く文七が答えた。
 またしばらく沈黙があり、
「電車──新幹線ですか」
 宗一郎が訊いた。
「そうです。東京から大阪へ出、そこから奈良まで電車で──」
「そうですか」
 また沈黙があった。
 宗一郎は、ようやく、湯呑みの茶を自分の唇に運び、飲んだ。
 夢見るような視線を、遠くに放っていた。
「あれは──」
 宗一郎が言った。
「あれは、いい試合だった」
 ぽつりと言った。
 言ってから文七を見た。文七はうなずいた。
「きみは強い……」
 宗一郎がつぶやいた。
 ふいにそう言われて、文七は、どう答えていいのかわからなかった。
 宗一郎の次の言葉を待った。
「きみと拳を合わせた瞬間に、勝てないと思った。やはり勝てなかったわけだが、負けても、奇妙にくやしさがなかった──」
 文七を見ながら宗一郎が言う。
「信じるかね」
 短く言った。
 文七は、宗一郎の言葉に、どう答えていいのかわからなかった。
 黙っていた。
「わたしも、自分が信じられなかった。わたしだって、自分が倒した相手がやってきて、おまえに負けてくやしくないと言ったらば、とても信じられないだろう」
 文七は無言でうなずいた。
「何故かと、わたしは、考えた。そうして、わかったのだよ」
「何がですか」
「わたしの負けた相手がきみだったからだ」
「───」
「きみが本当に強く、本当にわたしが負けたからだよ。これでも、武術家のはしくれで、自分の闘った相手のことは、少しはわかる。どのように鍛練をしてきたのか、どれだけ己れの肉体をいじめぬいてきたのか、それがわかった。そういう相手に負けたのだ──」
 言ってから、宗一郎は、深く息を吐いた。
 宗一郎の緊張が、ゆっくりと溶け出してゆく。
「そういう男に負けたのだ。しかも、きみは手を抜かなかった。徹底的に、わたしの息の根を止めにきた──」
「───」
「それでいいのさ。わたしも、過去に、闘った相手をそのようにしてきたのだから。やっと自分の番になったというだけのことだ──」
 文七は、やはり黙っていた。
 宗一郎にかけてやる言葉が見つからないのである。
「この次にやったらとか、あそこであの技が入っていたらとか、そういったもしの入る余地のない闘いだった。あえて言うなら、三十代の頃に、きみと思う存分にやりあってみたかったという、そのことくらいだ──」
「その頃であれば、違う結果が出ていたかもしれません」
 文七は言った。
 本音であった。
 自分は、あの時、この泉宗一郎に勝つには勝ったが、それはすれすれの勝利であったと思っている。
 宗一郎の言うように、自分が本当に強かったからだとは思ってない。
 股間に向かって、地の底から宗一郎の踵が跳ねあがってきた時には、震えさえ疾ったのである。
「わたしにそういう気をつかってもらわなくともいいのだよ。その頃であろうと、結果は同じだったはずだ」
「───」
「丹波くん、ひとつ訊いていいかね」
 宗一郎が言った。
「はい」
「武術家にとって、一番恐い敵は何だと思うかね?」
「敵?」
 文七は、宗一郎の顔を見た。
 宗一郎が、どのような答えを求めているのか、その問いの意味を推し量りかねた。
 その文七の眼差まなざしを、宗一郎は、小さな微笑で受けた。
「それは、己れ自身の肉体だよ。その肉体に必ずおとずれる老いだ」
「───」
「どんなに鍛練をつもうと、どんなに修業をしようと、必ず老いはやってくる。その老いが、どのような名人も、ただの人にしてしまう。理論や講釈や、型だけを知っている老人を、いったい武術家と呼べるかね」
「───」
「どのような技を覚えようと、力をつけようと、やがて、それは去ってゆくものだ。何も残るものはない。型だけの武術、実戦のない武術を残そうと、それにはどれほどの意味もない。きみには、その意味がわかるだろう」
「はい」
「武術とは、所詮、いかに人を殺すかという技術のことだ。そういう技術をこの身に持ったとして、いったい、この世で何の役にたつのかね──」
「───」
「きみには、わかってもらえると思うが、そういう技術を身につけてしまったわたしの肉体が、わたしはうとましかった。習い覚えた技術を、思う存分に使ってみたいと、歯を軋らせて眠った晩が、何度もあった。この技術を、使わずに老い、技術そのものがこの肉体から去ってゆく日のことを思うとたまらなかった。絵や、音楽や、詩であれば、まだそれが形としてこの世に残るからいい。だが、我々武術家のそれは残らない。残らないどころか、一度も使わずに、この肉体から去っていってしまう──」
 文七には、宗一郎の言う意味がわかった。
 それは、文七自身が、過去にくぐってきたものであり、今もくぐりつつあるものだったからである。
「その技術を使ってみたくてね。自分から闘いを挑んだこともあったし、君のように野試合を挑んできた人間と闘ったこともあったよ。その闘いのことごとくに自分は勝ってきた。とるに足らぬ相手だったからね。習い覚えた技を、思うさま使うというようなものではなかった──」
「ええ」
「そんな時に、きみから、野試合の申し込みが来たのだよ。わたしは嬉しかった。興奮したよ。わたしの技がさびれてしまうぎりぎりの時に、きみは間にあったのだ──」
「───」
「そして、きみに負けた。それも、本当に負けたのだよ。本当に負けたらば、その日からもう武術家ではない。ただの負けならば、また精進をし、次には勝とうと努力もするが、本当に負けた時には、もう、そういう気持にはなれないのだよ」
「わかるような気がします」
「老いて武術家をやめるのではなく、きみに負けて、武術家をやめるのであれば、わたしも納得がゆく。いい時に負けた──」
 宗一郎は、少し饒舌になっているようであった。