序 章

 

 その男は、群衆の中でも、奇妙に人眼を引いた。

 しかし、派手な服装をしているわけではなく、並はずれた美男子というわけでもない。むしろ逆である。鼻が潰れていて、唇が厚い。眉も眼も造りが大ぶりである。

 だが、この男を醜男ぶおとこと呼ぶのは、少し可哀そうだろう。愛敬こそないが、それなりに、バランスのとれた顔だちをしているからである。

 一見は、どこにでも居そうな男であった。

 前から歩いてくる人間の何人かが、ほんの一瞬、その男に視線を止めて通り過ぎてゆくという、その程度の目立ち方である。

 身体が大きい。

 背が高い男であった。

 群衆よりは頭半分ほど高い。

 身長は、一八〇センチくらいと見えるが、しかし、その程度の身長の者なら、人眼をひくほどではない。

 その男が、他人の眼をいくらかなりともひいているというのは、身長や、身体の大きさのためではなかった。何か、不思議なものを、その身体の周囲にまとっているのである。その雰囲気が、他人の眼をひきつけているらしい。

 男は、ゆったりとした綿のズボンに、綿のシャツを着ていた。洗いざらしの、なりのシャツである。

 その上に、前を開いた、革のジャンパーを無造作にひっかけている。

 身にまとっているものは、いずれもやや大ぶりである。身体をあまり締めつけないように、その大きさを選んでいるようであった。着ているもの全体が、どことなく薄汚れている。どこがどうという汚れではなかった。服全体に染みついた、生活の垢のようなものだ。

 どことなくだらしがないような印象さえあるが、それが、奇妙にこの男に合っている。それも、この男の周囲に漂っている雰囲気のせいらしかった。その雰囲気は、どうやら、男のまとっている服の内側から漂っているものらしい。

 人の肉体の持っている温度、臭い──その肉の気配のようなものが、服の布地を透して外に漂い出てきているのである。

 何気なく歩いているようであったが、その動きに無駄がない。

 三十歳は越えているらしいが、どのくらい越えているかとなると、見当がつかない。見た眼は三十五、六歳くらいなのだが、身体の動きに二十代のリズムがあるのである。

 ──三月。

 場所は、奈良の春日大社、二の鳥居へ向かう道の途中である。

 奈良公園内のその道は、人で溢れていた。

 大学や高校が春休みのせいか、若者の姿が多かった。

 観光バスで来たらしい老人の団体が、前から歩いてくる。カメラを首から下げている外人の姿もある。ジーンズ姿の若い人間の数がかなり多い。

 冬と違って、彼等の着ている服の色もカラフルになっている。

 ペパーミントグリーン、黄色、オレンジ、青、ピンク──様々な色が歩いている。

 やや傾いた午後の陽光が注ぎ、地面に、木の間から洩れた光の斑模様ができている。

 二の鳥居をくぐる手前の右側に、檜皮ひわだぶき、しらの単層切り妻造りの建物──くるまやどりがある。

 その素木にも、風が吹く度に梢の影が揺れていた。

 風はさわやかだった。

 刃物を潜ませたような冷たさは、もう、その風にはない。

 ここまで届いてくる間に、そこらから集めてきた、匂いが風に溶けている。

 鹿の匂いや、車の排気ガスの臭いも混じっているかわりに、若草山あたりから運んできたらしい草の匂いも微かに混じっている。

 二の鳥居をくぐると、参道の両側に種々の石燈が立ち並んでいる。

 大部分は、庶民が寄進したもので、その数はおよそ一七八〇ほどあるという。

 ──と。

 前方に小さなざわめきがあった。

 そのざわめきが、近づいてくる。

 誰かが追われているらしい。

「待ちやがれ」

「このガキが」

 声があがり、男の前方の人混みが左右に散った。

 そこから、ジーパン姿の男が、駆け出してきた。

 ジーパン姿の男は、肘と手を使って、人を左右によけながら後方を振り向いた。

 追ってくる者を確認しようとしたらしい。

 まだ若い男であった。

 後方を振り向いても、足の速度は同じであった。

 立ち止まった男の腹に、どん、とその若い男がぶつかった。

「おっと──」

 若い男が声をあげて、下から男の顔を見あげた。

 どきりとするような美貌であった。その顔が、刃物のような鮮烈な微笑を浮かべていた。

 十七歳くらいの(そう呼んでもかまわなければ)まだ少年、、であった。

 襟のカットが大きい、ジャンパー風の上着を着ていた。しかし、眼が合っていたのはほんの一瞬である。

 すぐに走り出した。

 追手は三人であった。

「そのガキはだ!」

 追手のひとりが叫んだ。

 少年の方が不利であった。

 人という障害物を左右に分けながら走っているからである。後から追うものは、その少年が分けた後から走ってくるのだ。

 十メートルほど先で、少年は追手につかまった。

 追手が掏摸だと声をかけたため、通行人が少年の逃げるのを邪魔したらしい。

 いきなりぶん殴った。

 上着をひるがえして、少年は転がった。

「何すんだよう」

 少年が言った。

「金を返してもらおうか──」

「金?」

「とぼけるな、てめえがあそこでった金のことだ」

 少年を殴った男が言った。

 顔が赤らんでいる。

 怒りもあるだろうが、顔が赤いのはそのためばかりではないらしい。酒が入っているのである。

 三人共、堅気の風体ではない。

 少年を殴った男は、サングラスをかけている。地元の地回りのような男たちらしかった。

「金なんか知らねえよ──」

 地面に尻を突き、後方に右手を突いて、少年は下から男たちを睨みあげた。

 唇から、血がひと筋、こぼれていた。

 左手の甲で、唇をぬぐう。

 甲についた血に視線を落としてから、また男たちを睨んだ。スニーカーをはいた足をひき寄せて、起きあがろうとした。

「糞ガキ!」

 サングラスの男が、爪先で少年の顔を蹴りに行った。

 のけぞるようにして、少年がそれをかわした。

 少年の顎の先をかすめて男の爪先が走り抜ける。

「ちっ」

 宙を蹴った足の勢いで男の身体が前に泳ぐ。

 少年は、膝を突いて立ちあがった。

 べっ

 と、赤い唾を地面に吐き捨てる。

「危ねえなあ──」

 あの、刃物のような笑みが、唇に浮いていた。したたかな笑みであった。

 通行人の何割かが、立ち止まり、少年たちを遠まきにして成り行きを見守っていた。

「金を出すんだよ、坊や──」

 三人の男のうち、一番背の高い男が言った。

 低い落ちついた声であった。

 前に出る。

「知らねえって言ってるだろ」

 少年が、半歩後方に退がった。

「坊や。おれは、坊やが金を持って逃げるのをちゃんと見てるんだぜ」

「たいした目じゃないね、おじさん」

「可愛くねえガキだ」

 背の高い男がつぶやいた。

 眼が細い。

 口調が静かなだけに不気味なものがある。

 つつつ、と、男の身体が前に動いた。

 流れるような動きだった。

 少年が後方に退がった。

 その退がる動きよりも、さらに男の動きは早かった。

 何らかの体術を心得ていなければできない動きである。

 少年の鼻先に向けて、男の左拳が走った。

 ボクシングの構えに似た姿勢で、少年が、頭を沈めてそれをかわす。

 曲げた両肘を顔の左右に上げ、頭部をかばっている。

 その少年の動きを読んでいたように、男の右拳が繰り出されていた。下方からアッパーぎみに突きあげられたカウンターである。

 両腕で頰をかばった少年の頭が、両腕の間からがくんと上にのけぞって飛び出した。

 男のパンチに顎を突きあげられたのである。

 後ろにのけぞった頭を追って、肩が、腕が、背が伸びて、少年は尻餅をついた。

 その少年の頭部に向けて、横から男の右足が叩きつけてきた。

 少年は、逃げずに、逆に、その足に向かって飛びついていた。男の方に深く入り込む形になった。

 少年は、両手で、男の右脚を抱えた。

 潜り込んでいるため、打撃の威力は半減している。

 男のパンチは洗練されていたが、蹴りはそれほどではない。

 男の脚を抱えたまま、少年は立ちあがる。

 男が、バランスを崩しながら、少年の顔にパンチを入れてくる。鼻頭に当った。バランスを崩しているため、それほど強烈なダメージはない。

 少年は、男の軸足に、自分の右足をからめ、男の右脚を持ちあげたままぐいと前に出た。

 男が仰向けに倒れた。

 その時、残ったふたりの男が、同時に少年に襲いかかった。

 少年は、ひとりの男に、横からしがみつかれていた。サングラスの男が、少年の腹に膝をめり込ませた。

 少年が、腹を折って呻く。

 警官がふたり駆けつけたのはその時であった。

 誰かが通報したのか、けい中に、偶然この現場にぶつかったのかはわからない。

「やめなさい!」

「どうしたんだ」

 ふたりの警官が、叫びながら止めに入った。

「ケンカか?」

 ようやく離れた少年と男たちに向かって、警官が言った。

「違うぜ。このガキがおれから銭を盗んだんだよ」

 サングラスの男が言った。

「銭?」

 警官が訊いた。

「金だよ。このガキがったんだ」

「本当か?」

 警官が少年に向かって言った。

 少年は首を振った。

「知らないよ、おれ、金なんか盗っていないよ」

 少年の表情が、あきれるほど一変していた。

 美しいしたたかそうな表情が消え、眼に怯えの色がある。

「じゃ、なんで逃げたんだ」

「いきなりおれのことガキなんて怒鳴りつけてさ、追っかけてくるからだよ。誰だって逃げるよ。ヤクザみたいな人にあんなこと言われりゃさ」

「このガキが」

「ほら」

 少年が、警官の陰に隠れるような動きをする。

 少年の鼻から、血がひと筋、伸びてきた。

「その坊やが盗むのを、ちゃんとおれは見たんでな」

 背の高い男が、前に出てきた。

「その坊やの着ている上着のポケットを調べてみろ」

「なかったらどうするんだよ」

「調べてみろ」

 その男が言った時、少年が、上着を脱ぎ捨てた。地面に放り投げる。

「見てみろよ。自分でよく捜せばいいじゃないか──」

 サングラスの男が、上着をひろいあげて、もみくちゃにした。ポケットの中に手を入れずに上から布をわしづかみにする。

 しかし、何も見つけ出すことはできなかった。

「糞っ!」

 上着を地面に叩きつける。

「おれの上着だぜ──」

 少年が上着を拾いあげる。

「盗まれたのは──」

 警察が言う。

っちゃいないってば」

 少年が声をかける。

「サイフだよ──」

 サングラスの男が言った。

「おれはサイフなんか持ってないよ」

 ジーンズのポケットに手を入れて、中の袋を外に引き出した。

 ジーンズの中から、シャツの裾まで引きずり出してみせた。

 人垣の頭越しに、そこまでの成り行きを見ていた男は、一八〇センチ余りの上背のある身体を回して、背を向けた。

 さきほどまでと同じリズムで歩き出してゆく。

 少年が、ちらっと、人垣の間に見え隠れするその背に、視線を走らせた。

「てめえ、捨てたな」

 サングラスの男が言った。

「捨てるも何も、盗っちゃいないよ。捨てたんなら、そこらにサイフが落ちてるだろう?」

「誰かに渡しやがったな」

「知らないよ」

「ガキ!」

 少年と男たちの会話を静かにさせようとしていた警官が、焦れたように言った。

「いったん、交番まで来ていただきましょうか──」

「交番だと?」

 サングラスの男が言う。

「そこで、ゆっくり双方の話をうかがわせていただきます」

「冗談じゃねえな」

「金を掏られたからと、のこのこ交番に行ってられるほどヒマじゃねえんだ」

「しかし、この場所では──」

 警官が言う。

「どなたか、現場を見た方はいませんか」

 もうひとりの警官が、群衆に声をかける。

 答えはなかった。

「行こうぜ」

 背の高い男が、サングラスの男の肩に手を置いた。

「行く?」

「ああ、行こうぜ」

「島村、おめえ──」

「行こう」

 背の高い男──島村は、サングラスの男の背を押した。

「サイフは?」

 警官が声をかける。

「落としたらしいんでな、捜しに行くんだよ」

 言ってから、島村と呼ばれた長身の男は、凄い眼で少年を睨んだ。

「きちんと捜せよ、おっさん」

 少年が言った。

 島村は答えなかった。

 ただ、同じ眼でしばらく少年を見ていた。

 やがて、背を向けた。

 

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