「仲間割れかよ」
言いながら、サングラスの男が、懐から金属光を放つものを引き抜いた。
登山ナイフであった。
少年が、じりっと後に退がった。
並んでいた男が、やはり懐からナイフを引き抜いた。
島村だけが動かない。
「その金を返しやがれ」
サングラスの男が言った。
「今さら返したって、無事にすましちゃくれねえんだろう」
後方へ退がりながら、少年が、札入れをシャツのポケットに入れた。
いくら多少の体術を心得ていても、人は、刃物の光沢には、本能的に恐怖する。少年も例外ではなかった。
男たちが近づく前に、少年は上着を脱いでいた。その上着を、左の拳に巻きつける。
少年の額に細かい汗の粒が浮いていた。
唇には、まだ、あの強烈な笑みがへばりついている。
「しょんべんをちびりそうな面ァしてるぜ」
サングラスの男が言った。
少年は、深く腰を落とし、踵をあげる姿勢になった。足を前後に軽く開いて、拳を、顔の前にそろえた。
ボクシングの構えに似ていた。
しかし、ボクシングではない。
右手が、顎の高さで前に突き出されている。指先は、ごく自然に開いていた。
上着を巻いた左手を、顔をかばうように、右手と顔との宙に浮かせていた。
右手も左手も、静止しているわけではない。ある空間の範囲内を、相手の攻撃をうかがうように動いている。
足も、止まってはいなかった。
膝で、上下の動きのリズムをとりながら左右に動いている。
我流に近いが、空手の心得があるらしい。
「おれは帰ってもいいのかい」
文七が言った。
文七は草の上に立ったまま動かない。分厚い肉の壁のようだった。
「駄目だ」
島村が言った。
「あんたの相手はおれがする」
島村が、細い眼の奥から、鋭い眼光を文七に送ってきた。
組んでいた腕をほどいて、島村が文七に向かって歩き出した。
それが合図であったように、ふたりの男が、少年に襲いかかっていた。
サングラスの男の方が、先に動いた。
大きく踏み込んで、右手に持ったナイフを突き出してきた。
その刃ごと、少年は、男の右手首を、上着を巻いた左手で、上から叩いていた。
その時にはもう、横にいた別の男が、ナイフを腹に溜めて、身体ごと少年にぶつかってきた。
「けやっ」
少年は、左手を振って、それをよけた。
振った左手に巻いた上着の中に、刃先が潜り込んでいた。
「くうっ」
うめいて、少年は、その男の胴に、蹴りを放った。
「おれは関係ないんだよ」
少年の動きを眼の隅で見ながら、文七は、まだ同じことを言っていた。
「もう関係あるさ」
島村が、歩きながら、手に、黒い皮手袋をはめた。
はめ終えた途端に、残った距離をいっきに縮めて襲ってきた。
ボクサーの動きであった。
右のストレートであった。
ぱん、
と、肉と肉がぶつかる音がした。
文七が、左へ身体を流し、右の掌で、男の拳を受けたのである。
分厚い、岩のような掌であった。
常人が、手をふたつ重ねたぐらいの厚みがあった。
それに、でかい。
受けた時には、島村の右拳をその右掌の中に握っていた。
左手が、ストレートを出してきた島村の右腕の肘を捕えていた。
文七の右掌の中で、
ぺきん!
という、枯れ枝を折るような乾いた音がした。
異様な音であった。
その音が、その場にいた全員の動きを止めていた。
鳥肌の立つような不気味な音だった。
島村の細い眼が、丸くなっていた。
両眼で、自分の右手首を見ていた。
島村の右手の、手首から先が消えていた。
ちぎれたのではない。
きれいな丸い線を描いて、内側に折れ曲がっているのである。
拳が、指をそろえた形で伸びていた。
そのそろえた掌が、腕の腹に、ぴったり平行に重なっていたのである。
グロテスクな、どこか冗談のような光景であった。
それが冗談ではないことが、すぐにわかった。
島村が、悲鳴をあげたからである。
「ひい」
女のような声であった。
“い”の音が伸び、高い音に変化する。
肺の空気が失くなるまで、島村はその“い”の悲鳴をあげ続けた。
声が、消えた。
肺の空気がなくなったのである。
その最初の悲鳴は、恐怖の悲鳴であった。
喉をならして空気を吸い込んでから、ようやく、島村は、痛みの絶叫を放ち始めた。
それまでの落ち着いた島村からは想像もできない、恥も外聞もない絶叫であった。
人の声ではなかった。
動物の声であった。
「ながっ!」
とも、
「ぬごっ!」
とも聴こえた。
うご、とも、ごごご、とも発音した。
何かの意味のある言葉を発したいのだがそれができないらしい。
突然のショックと、激痛で、精神の一部がどこか欠落してしまったかのようであった。
膝をついて、草の中に転がった。
転げ回った。
白眼をむいていた。
「何をしやがった!」
サングラスの男が言った。
「こ、こ」
もうひとりの男は、何を言いたいのか、鳥のような声をあげるばかりだった。
「帰れ」
と、文七がそう言った。
しかし、ふたりの男には、その意味が届かなかったらしい。
少年も、口を半開きにしたまま、転げ回っている島村を見ていた。
サングラスの男は、ナイフを握りしめたまま、
くひっ
くひっ
と、喉を鳴らしていた。
もうひとりの男は、肩を大きく上下させ荒く呼吸をしているだけである。
「帰んな」
そう言って、文七が、前に歩を進めた。
その動きに吸い込まれるように、ふたりが動いていた。
勝負は、一瞬であった。
最初に突っかけてきたサングラスの男の左の頰に、岩に似た文七の右拳がめり込んでいた。
サングラスが飛んだ。
その右拳をひきながら、文七は、右肘を前に突き出した。
自分から飛び込んだように、男の顔面がその肘にぶちあたっていた。
男は、そのまま前のめりに草の中に倒れ込んだ。
枯れた草が、男の顔面や、ことによったら開いたままの眼球を傷つけたかもしれなかったが、男は、完全に意識を失っていた。
文七の拳と肘が、ふたりの男の意識を、肉体の外へはじき飛ばしていたのである。
サングラスの男は、すでに、草の上に仰向けに倒れていた。
サングラスは、どこに飛んだのか見えなくなっていた。
ふたりとも、まだ丁寧にナイフを握っていた。
少年は、驚嘆の眼で文七を見ていた。
戦慄していた。
文七は、眠そうな視線を少年にむけて放った。
「おい──」
文七が拳を開いて、少年に声をかけた。
「おれとやらんでよかったな」
ぼそりと低く言って、背を向けた。
小径に向かって、草の上を歩き出した。
少年は、文七の背を睨んだまま、動かなかった。
いや、動けないらしかった。
「す──」
と、少年は言った。
言葉が出て来ないらしい。
「凄え」
感動した声でつぶやいた。
「凄え! 凄えよ、あんた!」
喉につかえていたものがはずれたように、声が飛び出してきた。
文七の背を追って走り出していた。
2
水面に、灯りが映っている。
外燈と、ホテルの灯りである。
──夕刻。
風は凪ぎ、水面に空の色が映っている。
西の空は、まだ明るさを残していた。
天頂で、透明な青が、濃い群青に変わりかけている。
陽は、とうに没して、光は、もう天へと抜けている。
東の空に、黄色い満月が浮いていた。
ひとつ、ふたつと、星が、出ていた。
地上に風はないが、高い空の上には風があるらしく、しきりに星がまたたいている。
猿沢の池──。
周囲には、ホテルや旅館が林立し、古典の書物でこの池に馴じんできた人間にとっては、当時の面影を偲ぶものは、ほとんどない。
俗化された観光地のたたずまいが、そこにあるだけである。
丹波文七は、その池の岸に立って、水面に映る空を見つめていた。
上着のポケットに手を突っ込んでいる。
文七は、さっきから三十分近くも、そうやって池を見つめていた。三十分前には、まだ明るかった街が、今は暗く夜の中に沈みかけている。
時間は、夕刻から、はっきり夜へ移ろうとしていた。
すぐ横手の、興福寺の下の坂道を、観光客が、土産物屋を覗きながら歩いている。
そこから、この猿沢の池まで下りてくる者も何人かおり、池の周囲には、ぽつりぽつりと人影がある。
丹波文七の右横、数メートルの所に、あの少年が立っていた。
「餓狼伝1」は全4回で連日公開予定