中にいる!
栢原蒼空と間宵己代子の同棲生活も半年になろうとしている。
二人の巣はマンションとは名ばかりの四畳半の一室だ。同じベッドで目覚め、一緒にシャワーを浴び、一つのマグカップでコーヒーを分かち合う。蒼空が自転車にまたがると、己代子が耳元で鼻歌を奏で、スーパーでレジを打つ彼からもひとときも離れない。
しかし己代子の姿を見た者はいない。蒼空はいつも一人でレジに向かっているし、売り場のどこにも、彼を見守っているような女はいない。
昼食は温かい蕎麦と親子丼のセットがいいな、カーキ色のジャケットの爺さんがワンカップと缶詰を万引きしたぞ、今度の休みはモールのシネコンでIMAXだ、などと己代子は仕事中でもうるさく話しかけてくる。目の前の客の声が聞きづらくなるほどの音量でだ。しかし、場違いきわまりない己代子の発言を訝る者はいない。
己代子の声は蒼空にしか聞こえていない。
幻聴ではない。イマジナリーフレンドでもない。解離性同一性障害で、もう一つの人格が語りかけているのでもない。
栢原蒼空の体内に間宵己代子という赤の他人が入り込んでいるのだ。
「魚や野菜を食べたら、そこについていた虫が体の中に入って、そのまま居続けることがあるだろう? 寄生虫。それの上位互換なんだよ、間宵己代子は。人の体から栄養分をくすねるだけでなく、宿主の体や心を思いのままに操る。共生を超えて支配してしまうんだよ。ハリガネムシやトキソプラズマのように」
まったくそのとおりなのに、医師も看護師も放射線技師も作業療法士も養護施設で先生を名乗っている男も掃除のおばちゃんも、この説明に納得してくれなかった。だから一から語って聞かせた。
「間宵己代子は、元は普通の人間だった。昭和十八年生まれの婆さんだ。二人も殺しといて普通もないもんなんだがな。
夫の異常な性的嗜好を腹に据えかねて殺害、それを隠蔽するために無関係の主婦を殺し、二人が駆け落ちしたように見せかけるために偽の書き置きを作り、二人の死体は自宅の床下深くに埋め、自分はというと、最愛の夫に裏切られたことで狂ってしまった憐れな女を十何年も演じ続けたというから、全然普通じゃない。とばっちりで殺された主婦の家庭は、残された家族が離散、小学生だった娘は心を病み、すさんだ思春期を送り、バカな男につかまったあげく自殺してしまったから、殺したのは実質三人だな。いや、彼女の秘密を探ろうとして命を落とした学生や、地下墓地の入口を見つけてしまったもので火炙りにされてしまった子もいたから、関与した事案は五件? 確実に死刑だな。間宵己代子というのは、世界悪女列伝に載るような極悪人さ。
けれど普通でないのは、平気で他人の命を踏み台にできる精神構造であって、見た目はいたって普通、エイリアンやプレデターのような怪物ではなく、俺やあんたなんかと同じ形態をしたヒトという生物だった。そうでなくなったのは、死んでからだ。そう、己代子は階段から落ちて死んだんだ、十何年か前に。
ところが己代子の体の一部は灰とならずにこの世に残った。
やつには和香菜という孫がいた。その子は重い視力障害をもっていたもんで、死んだ己代子の角膜が移植されることになったんだけど、すると移植後、和香菜の体に驚くべき変化が生じた。目が見えるようになっただけでなく、頭が一万倍よくなったんだ。漢字ばかりか英語も読み書きできるようになり、喋っては大人を言い負かす。小学校にあがる前の子がだぞ。幼児教室には通わせておらず、親も何も教えていないのにだ。
己代子が乗り移ったんだ。角膜に宿っていた己代子の成分というか遺伝子というか、そういうものが孫娘の体に入り込み、増殖し、全身に回り、本体を乗っ取った。
普通はさ、移植を受ける側が主体で、移植される臓器や組織はパーツにすぎないんだけど、この孫と祖母の間では正反対のことが起きていたんだ。角膜という体の一部しか残っていなかった己代子が、和香菜の体を養分として再生したってわけ。
頭が超絶よくなるのなら、乗っ取られても悪くない気がしないでもないけど、心も上書きされるんだからな。開学以来の秀才ともてはやされようが、当人はそれを嬉しく思わない。思えない。思う心を己代子に奪われているんだ。そんな状態で生きている意味があるか? ただ体を貸しているだけ。貸しているという意識さえない。侵入されたほうからしたら、『庇を貸して母屋を取られる』わけだ。
おい、何だよおまえ、その顔は。俺はな、施設育ちだけど、普通に学があるんだぞ。捨てられた子だからと周りからなめられないよう、体だけでなく、頭も鍛えたからな。
あ? それとも、その薄ら笑いは、移植で人から人へ遺伝物質が移動して成長するなんてありえないと? それでも医者? 遺伝子の水平伝播を知らないのか? 高等生物ではありえない? そういう決めつけは、科学者としてどうよ。真実の扉を閉ざす自殺行為だぞ。正しかったのはガリレオでありテスラだぞ。脳の中にアミロイドβというタンパク質が蓄積されることで脳細胞が死んでしまい、アルツハイマーという病を引き起こすのなら、別の特有のタンパク質、すなわち他人の遺伝物質がたまることで、脳細胞を殺す代わりに細胞を乗っ取ることだってあるだろう。オカルトと笑ってたら時代に取り残されるぞ。アメリカ政府だってUFOの存在を認めてるし。ちっとは情報をアップデートしろよ。
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