時間になり、引き継ぎを終えてバックヤードに引っ込むと、先に休憩に入っていた高坂(推定年齢四十五♀)が声をかけてきた。
「はい、ご褒美」
何か差し出されたので反射的に手を出すと、ミントのキャンディーが二つ、掌に落ちた。
「蒼空君、よく我慢したね」
「副店長が来てくれて助かりました」
「レギンスオババははじめて?」
「ああいうお客さんもいるんですね。びっくりしました」
「蒼空君は、うちに来てどのくらい?」
「先月の頭からです」
「二か月近くレギンスオババに遭ってなかったんだ。ある意味ラッキーだったね」
〔ナナミチトセ焼津イブ〕
高坂とは違う女の声がした。
「レギンスオババはまともに取り合っちゃだめ。カードのクレーム、何度目よ」
「へー、そういう人なんですか」
〔ナナミチトセ焼津イブ〕
ヤードには、高坂と蒼空、二人の姿しかない。しかし蒼空にはもう一人の声が聞こえている。
「値引きのシールでも賞味期限でも、わかっていて難癖をつける。はいはいと聞き流しておけばいいから。あとは正社員が処置してくれる」
〔ナナミチトセ焼津イブ。少年、油を売ってるんじゃないよ。ナナミチトセ焼津イブ〕
「わかってるって」
「えっ?」
「あ、いや、じゃなくって、わかりました。舌が回らなくって。喉が渇いてるからかな」
蒼空はあわてて空咳をする。
「はい」
高坂がお茶のペットボトルを差し出してきた。蒼空はやんわりと手を立てる。
「遠慮しない。全部飲んじゃっていいから」
〔ナナミチトセ焼津イブ。ぐずぐずしてたら忘れちゃうよ。ナナミチトセ焼津イブ〕
「だいじょうぶです。ロッカーにあるんで」
ババアの飲みかけを誰が飲むか。
「あら、汚れてる」
立ち去ろうとするが、高坂は離してくれない。蒼空の下半身の方に首を突き出している。
「どこかでこすったのかな」
カーキ色のパンツの腿の部分が黒くなっている。蒼空は上半身を折り、制服のエプロンの裾を引っ張って、走り書きした数字を隠した。
「脱いで」
「え?」
「すぐに洗わないと落ちなくなるよ。今、ちゃちゃっと洗ったげる。ほら、脱いで」
高坂は蒼空の手の甲をつつく。
「いや、でも、替えがないから」
〔ナナミチトセ焼津イブ〕
「手洗いのハンドドライヤーで乾かせばいいよ」
「あ、その手があったか。トイレ行くんで、ついでに洗います。飴ちゃん、ありがとうございました」
蒼空はおよび腰で後退し、なんとか高坂から逃げた。
〔ナナミチトセ焼津イブナナミチトセ焼津イブナナミチトセ焼津イブナナミチトセ焼津イブ——〕
男子トイレに向かう間も、その声はやまない。
個室に入ると、スマホを取り出した。
「待たせた。何だって?」
〔相変わらずモテモテよのう〕
「うるさい」
〔きのうは吉浦に肩をもんでもらったし〕
「うるさいって。そんなことより、名前」
〔ナナミチトセ〕
「どっちが名前だよ。ナナミ? チトセが姓?」
〔見たとおり〕
NANAMI——とスマホのメモアプリにローマ字を入力したところで、蒼空はさらに確認した。
「チトセの『チ』はCHI? TI?」
〔さあ〕
「おい」
〔少年が油を売ってるから、忘れた〕
「嘘つけ。ちゃんと見とけよ。たぶんこっちだろうな」
CHITOSEと入力し、
「セキュリティ・コードは?」
〔焼津〕
8、1、と入力したあと、
「『づ』は2?」
と確認する。
〔正解〕
「じゃあ『イブ』は有効期限で……、クリスマスイブ?」
〔ご名答〕
「よしっ。これでまたうまいものにありつけるな。サンキュー、レギンスオババ」
蒼空は中指を立て、その指先で、12/24に続き、自分のズボンの腿の汚れた部分を見ながら十六桁の数字をメモに写し取る。
「中にいる、おまえの中にいる。」は全4回で連日公開予定