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 その日の午後、お迎えに行った果英は、同じなのはな組の母親に話しかけられた。

 朝の挨拶すら交わさない黄島さんを、果英が追いかけて行ったのを見ていたらしく、話題は黄島さんと一翔くんのことになった。ひとり、またひとりと加わり、すぐに六人ほどの輪ができた。迎えたこどもたちを園庭で遊ばせている間に、母親たちは噂話に花を咲かせる。

 クラス役員のお母さんは、保護者同士なじめるように黄島さんに何度も声をかけたものの、けんもほろろにされたという。園のバザー担当のお母さんは、当日や事前準備の相談をにべもなく断られたというし、一翔くんの乱暴を諫めてほしいとゆりな先生に相談したけれど、全然変わらないと園の対応にため息をつくひともいた。

 孤立は子育てを難しくすると聞くけれど、黄島さんの場合は、積極的になじまないよう努めているように見える。多くの保護者のように、登降園時の束の間に、こうやってこどもや子育てにまつわる情報交換をする姿も見たことがない。

「ねぇ、もしかして、一翔くん、あんまりお世話してもらってないんじゃない?」

 誰かがぽつりと言った。

 賑やかだった輪が急にしんと静まる。

 あってほしくはないことだけれど、こどもをまるでお世話しないひとが、世の中には存在する。一翔くんのあの粗野な振舞いも、誰かの気を引くためと考えれば、合点がいった。

 一翔くんがみんなを羨んでいるという黄島さんの発言にも当てはまる。

 けれど、納得はしたくない。果英は必死にそうではないと言える理由を考えて挙げ連ねた。

「考え過ぎじゃない? 一翔くん最近白い服ばかり着てくるけど、汚れてるわけじゃないし、体格もふつうだし、半袖半ズボンから見える範囲に不審な怪我とかもないよ?」

 保護者たちは、口々に情報を結びつけはじめた。

「給食に好物が出ると何回もおかわりするっていうじゃない? シチューの日なんてうちの子のも取られそうな勢いだったって。ちゃんと食べさせてもらってないのかも」

「親が忙しいときってこどもが荒れない? うちは妙に拗ねたり体調崩したり、言うこと聞かなかったりするんだ。こどもって自分に気持ちを向けてるかどうか、敏感に察するでしょう」

「黄島さん忙しそうなのにいつも身ぎれいだよね。自分のことばかりで、こどもは放ったらかしとか?」

 そんなことがあってほしくないと信じていた果英の思いが掻き消されたのは、六月最後のお弁当の日のことだった。

 夕飯を食べながら萌歌が、一翔くんのお弁当が真っ白だった、と話したのだ。

「そうなの? 先生には、いろいろなおかずを入れてくださいって言われてるけどな」

「もかもあんなおべんとうはじめてみた。だからびっくりしたの」

「るかのおべんとうもびっくりした! サンドイッチ、ハートだった!」

「もかのはほし! かわいかった!」

 凝ったお弁当は前回で懲りて、ハムやジャムのサンドイッチを抜き型で抜き、ブロッコリーやプチトマトを添えただけなのに、こどもからの評判は上々だった。

「一翔くんのもサンドイッチだったんじゃない? パンが白くて見えなかったとか?」

「ううん、しろくて、ごはんだけだった。でもいちとくん、すごくうれしそうだった」

 その白米だけのお弁当を、一翔くんがどんな思いで食べていたのかと思うと、果英は胸を痛めた。家庭にそれぞれの事情があるのはわかる。踏み込み過ぎないことも大事だ。

 だけど、縁あって同じ地域に住み、同じ年のこどもを、同じ園に預けているのだから。

 なにかできることはないかと考え続けていたせいか、職場からの電話のことなどすっかり忘れてしまっていた。

 スマホに都内の電話番号が表示されてはっとしたときにはすでに遅く、復職についてなにも考えを深めていないと血の気が引いた。

《紫村果英さんのお電話でしょうか?》

 返答する声が焦って裏返った。澄ました声が社名と部署を名乗るのにおろおろと耳を傾けていると、電話口で小さく吹き出す音がした。

《果英さん緊張し過ぎです。こちら緑原ですよー!》

「うそ、泰美?」

《お久しぶりです、今人事部にいるんですよ。リストに果英さんの名前見つけたから、電話担当、替わってもらっちゃった》

 緑原泰美はニュースサイト制作チームで一緒に働いた、戦友のような存在だった。人手と予算はいつも少なく、残業時間ばかり多いプロジェクトチーム内で比較的考えが近く、二人でチームを組んで文化系コンテンツを立ち上げたこともある。シビアなニュースの多い中、ひとびとの心の潤いを求めて、燕川に拠点を置くクレマチス歌劇団の取材にも同行した。記事も写真も自分たちでこなす低予算コンテンツながら、心血注いだ特集記事がささやかな歌劇ブームを起こしたときはうれしかった。

 大変だったし愚痴もよくこぼしたけど、やり甲斐に満ちた、充実した日々だった。今思えば、果英に向いた仕事だったのだと思う。

《果英さん、まだ先なので今のお気持ちで十分ですけど、ご復帰についてのご希望ありますか? 復職時期や勤務時間、配属先とか》

 本音を言えば、また制作職として働きたい。けれど終電続きの生活はこどもや家庭を抱えてはとてもできない。古巣のニュースサイトは果英の最初の産休中にリニューアルして編集方針も変わり、泰美は経済情報チームに配置換えになっていた。育休明けに事務方での時短勤務を希望した果英が復帰したのは、顧客情報管理部署だった。

 仕事内容もオフィスの場所も制作のときとは異なり、泰美との接点もなくなり、新たな部署で活躍するつもりだった果英は、働きはじめると小さなミスをいくつもしてしまい、周囲に迷惑をかけることも多かった。振り返ってみると、果英には恐ろしいほど向かない仕事だったのだと思う。根を詰めて取り組めばもう少しなんとかなったのかもしれない。けれど、いくら夫婦で家事や育児を分担しても、こども園からのたびたびの体調不良の呼び出しや、あっという間に訪れるお迎えの時間など物理的な問題に阻まれて、自分で納得いくほどの時間と労力を仕事に向けることは難しかった。自分の仕事だと誇りを持てるような働き方ができず、もどかしさも募った。

 あの三年間でさえ、実家の両親、ベビーシッターなどたくさんの手を借りてようやく生活が成り立っていた。二度目の産育休中の今は、耕一は単身赴任だし、両親も福岡で兄と同居しはじめ、手は借りられない。

 一翔くんのことが頭をよぎり、自分の余裕がなくなったときに、こどもたちに皺寄せがいくのではないかと胸が苦しくなった。向いている仕事を選べば家庭生活を今のように送れる自信はなく、家庭を優先してできる仕事は果英には向いていなそうだった。

「検討中、です」

《承知しました。業務上必要な配慮などあるかどうか考えといてくださいね。ご復帰希望の一ヶ月前くらいに面談しましょう。なにかあればいつでも、どんな小さなことでも相談してください》

 念を押すように加えられた一言は、やさしかった。

「ありがとう。久しぶりにかつての戦友の泰美と話せてうれしかったよ」

 くまのオムライスをたぬきと間違われてしょげ返った話を披露すると、泰美は明るく笑い飛ばしてから、声のトーンを引きしめた。

《果英さん、悩むとまわりが見えなくなるときがあるから。自分を大切にしてくださいね》

 ありがとう、と答えながら、泰美の話に上の空で相槌を打つ。部署や仕事内容が変わっても、泰美は彼女らしくてきぱき働いていて、果英にはまぶしく思えた。

 反面、環境が変わったらうまく動けなくなった自分がみじめに思えてくる。

 受験や就職など数々の競争を経て果英が辿ってきたのは、いくつも枝分かれする中から選んできた道だ。目指す未来へのおぼろげな地図を手に、努力を重ねて能力を身につけ、自分自身を磨く、一続きの道筋でもあった。それに比べると子育てや家庭生活は、固有の名前を剥ぎ取られるかわりに「お母さん」という揃いの着ぐるみを被せられて、まったく別の大陸に身ひとつで、ぽんと放り出されたような心許なさがあった。培ってきたものが通用せず、求められるスキルは異なり、右も左もわからない。

 必死に目の前のことをこなすのに精一杯で、自分のことはいつもあと回しになる。だからもしも、自分を優先したら家庭がどうなるのかと不安に苛まれる。

 家庭と仕事のちょうどいいバランスという難問は、どれほど考えても答えは見つかりそうにない。

《果英さん、聞いてます?》

「え、うん、もちろん。聞いてるよ」

 慌てて取り繕ったものの、なんの話だったのか、ほとんど覚えていない。

《じゃ、また連絡しますね》

「うん、ありがとう」

 電話を切るとすぐに大智がぐずりだした。おむつ替えと授乳を済ませる間に降園時間が近づき、慌てて支度を整えてこども園に向かう。

 泰美と話したことは日々の忙しさに埋もれていった。

 

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