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 午後三時を過ぎると、空は灰色の雲に覆われ出した。ベビーカーに大智を乗せ、大通り沿いの青やピンクの紫陽花を横目で見ながら足早にこども園に向かう。こども園の各教室の入口には、たくさんの白い紙の束が用意されていた。果英が萌歌のいるなのはな組に着くと、担任のゆりな先生が走り寄ってきた。

「萌歌ちゃんのお母さん。今日、萌歌ちゃん、お弁当を残してしまったんです」

 筆の先ですっと描いたようなゆりな先生の素朴な顔立ちに、果英はいつも端整なこけしを思い浮かべる。二十代後半らしいけれど、化粧っけがなく髪をひっつめているせいか三十代半ばの果英と同じくらいに見え、保護者たちには頼りないと囁かれている。

 ゆりな先生は教室内の萌歌に身支度を促して、果英に向き直った。

「お弁当の時間に、お友達ともめてしまったようなんです。私、そのとき近くにいなくて、ほかの子たちから聞いたんですが、萌歌ちゃんがやんちゃなお友達に強めに注意をしたのが発端のようで」

「萌歌がですか?」

 果英は思わず聞き返した。活発な瑠花と違って萌歌はいつもおとなしいのに。

「ええ。それで相手の子から反撃みたいに囃し立てられて、泣いてしまって。お弁当があまり食べられませんでした」

「そんなにひどいことを言われたんですか」

 ゆりな先生の視線が一瞬、宙をさまよった。

「あの、今日のお弁当、オムライスでしたよね。どんなに丁寧に通園かばんの底に入れていただいても、お弁当箱はこどもたちが持ち運ぶうちに傾いてしまうので……。ケチャップがあちこち飛び散って、つまりその、たぬきさんが血まみれみたいになっていまして……」

 朝の、スキップしていた二人の後ろ姿が脳裏に蘇った。くまだと訂正する気にもなれず、果英は黙り込む。萌歌も精一杯反論したけれど、声の大きな男の子には敵わなかったらしい。泣きながら教室の隅でお弁当をつついたものの、時間内に半分を食べ終えるのがやっとだったそうだ。

 目を赤く腫らした萌歌が、のろのろと通園かばんを引きずって歩いてくる。その後ろから走ってきた小柄な男の子が、萌歌を押しのけて飛び出してきた。

「おばちゃん邪魔! どいてよ!」

 突進してくる子から庇うように、果英はベビーカーの前に立った。男の子は、園庭の中ほどまで走り出ると、萌歌を振り返って、思いっきり舌を突き出した。

「ちまみれべんとうー! どうぶつぎゃくたいべんとうー!」

「一翔くん、いけません!」

 また一翔くんだ、と果英は思った。

 黄島一翔くんは、こどもからも保護者からも、あまりよい評判を聞かない子だ。悪ふざけが多く、誰かが遊んでいるおもちゃを奪ったり、お友達を押したり叩いたり、注意されても意に介さないらしい。保護者もいっぷう変わっていて、あまりまわりとかかわらないし、保護者の集まりにも出てこない。

 萌歌は口をぎゅっと引き結んで堪えているようで、心の内を思うと、果英もいたたまれなくなる。よく言い聞かせておきますと繰り返すゆりな先生に頭を下げ、隣の組の瑠花をお迎えに行って、足早にこども園をあとにした。

 今にも降り出しそうな重苦しい雨雲が、頭上に浮かんでいた。

 

 一夜明けても空は曇っていた。

 梅雨空特有のもったりとした雲の下、瑠花と萌歌は、大通り沿いに出ると紫陽花の葉裏にかたつむりを探しはじめる。萌歌の歩みが遅くなるのは、気後れしているからなのかもしれない。昨日萌歌は、お弁当を食べる準備をしている隙に、一翔くんが家族を模した紙人形をびりびりに破いたことに腹を立てて、強く注意したらしい。

 こども園に着くと、教室の一角では、早く登園した子たちがせがんだのだろう、七夕の絵本の読み聞かせがはじまっていた。昨日積んであった白い紙の束はもう、たくさんの短冊につくり変えられている。

 昨日のことが気になり、果英は萌歌を送り届けたあとも、廊下の窓から、ようすを窺った。

 萌歌は、絵本を読み終えたゆりな先生のもとへ駆け寄った。

「せんせい、もか、おりがみでたんざくつくるね」

「ありがとう。もう十分あるけど、もしつくりたかったら、白いのでつくってね」

「しろじゃないとだめ?」

「神さまは白が好きなんだって、お洗濯したタオルみたいに汚れがない、ぴかぴかの白が。お正月にお供えする鏡餅も白だし、好きな色の方がお願いを叶えてもらえそうでしょ?」

 うれしそうに頷いた萌歌の顔が、一瞬にして強張る。

 ちょうどそのとき、一翔くん親子が、教室に姿を見せたからだ。

 母親の黄島さんはいつもの黒いパンツスーツ姿で、華やかに巻いた髪を胸元でゆらし、顎をつんと上に向けて、一翔くんが靴を履き替えるのを待っている。

 一翔くんは今日もお友達や先生、保護者たちとあちこちにしかめ面を振り撒き、ゆりな先生がやさしくたしなめても、耳を貸さない。イチ! と黄島さんが鋭く叫んで腕組みすると、一翔くんは母を振り返ってへらっと笑ってみせるけれど、先生に向き直ると、べーっと舌を突き出す。萌歌は一翔くんを避けるように、お友達と教室の端へ駆けていった。

 黄島さんは笑みを見せず、一翔くんが片方の上履きを履き終えるなり、背を向けて歩き出した。途中で行き合うなのはな組の保護者には、挨拶どころか見向きもしない。声をかけられても、無視して通り過ぎていく。まわりがどれほど眉をひそめていても歯牙にもかけていない。

 果英は、こども同士がもめたことが気になっていた。よく話を交わす間柄ならお互いさまと話せても、つんけんした変わり者相手ではそうはいかないように思える。ゆりな先生は園が対応すると言っていたけれど、当事者としてきちんとかかわらねばという使命感を胸に、勇気を出して、ベビーカーを押しながらあとを追った。

 黄島さんはどこかの会社のお偉いさんらしいと聞く。振舞いに威厳があるのは、仕事できちんと地位を築いている自信の表れかもしれない。果英よりも年上のようだ。ほぼ毎日延長保育で、お父さんのお迎えも多いというから相当忙しいはずだ。身なりに生活感がないのは、よほど自分磨きに手間暇かけているからだろう。

 育児中でも、自分にそれほど時間と労力をかけられることに、果英は感嘆を覚える。

 こども園の保護者には、仕事も育児も充実させて輝いて見えるひとがたくさんいる。こどもに笑顔を向け、颯爽と仕事に向かう姿に、自分だけがうまくやれていないと思えてくる。果英があんな顔で仕事に向かっていたのは、双子を授かる前にニュースサイト制作チームにいた、身軽な頃だった。

 小走りしても、黄島さんにはなかなか追いつかなかった。

 黄島さんのハイヒールよりも果英のスニーカーの方が断然歩きやすいはずなのに、距離は一向に縮まらないまま、駅が近づいてくる。駅前の横断歩道に差しかかったとき、たまらず大きな声で呼びかけた。

「黄島さん!」

 振り返った黄島さんは、果英を一瞥すると、ぞんざいに会釈した。そのまままた前を向いて、カツカツとヒールを鳴らす。信号が点滅し、行ってしまうと思ったとき、左折してくる赤いスクーターに、横断歩道の手前で黄島さんは歩みを止めた。丸みを帯びたフォルムの赤いスクーターを見つめながら、荒い息をした果英は、黄島さんの横に並ぶ。

「あの、昨日、一翔くんとうちの子の間で、トラブルが、あったみたいで」

「どれのこと? からかった、泣かせた、おもちゃを奪った、昨日はあとなんだったかな。迷惑かけたんなら、悪かったね」

 信号を見つめたまま、少しも気持ちのこもらない黄島さんの話しぶりに挫けそうになりながら、彼女の顔を覗き込み、視線を合わせて頭を下げる。

「いえ、うちの娘が強く言い過ぎたみたいで。ごめんなさい」

 距離の近さにたじろぐように一歩遠のいた黄島さんは、奇妙なものでも見るように、果英を凝視した。果英が笑みを浮かべると、黄島さんは視線を逸らし、ベビーカーで歯固めをしゃぶる大智を見つめた。

「きっとそのあと数倍お返ししたでしょ。イチ、みんなが羨ましいんだと思う」

 黄島さんの赤い唇から大きなため息がこぼれた。

 果英が訳を尋ねようとするのを、急ぐからと遮って、黄島さんは信号が青に変わるやいなや横断歩道を足早に渡っていった。それ以上かかわるのを、避けているように感じた。

 

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