熱したフライパンの中央で、ひとかけのバターの塊がすぐに溶け、ふつふつ音を立てた。

 広がるまろやかな香りをたっぷり吸い込みながら、紫村果英はこども茶碗二杯分のごはんをフライパンに加える。中央につくった空間にケチャップをしぼり、甘酸っぱさと香ばしさが漂いはじめたら、手早く混ぜてごはん全体を赤く染めていく。

 できあがったケチャップライスを皿に移して冷まし、果英はオムライスの完成形を考える。

 五歳になる双子の娘たちは、姿形はそっくりでも性格や好みが異なり、近頃は月二回のお弁当も同じものを嫌がるようになった。以来、メニューは同じでも、見え方が少し変わるよう知恵をしぼる。

 夏も近い六月中旬の気温は、想像より高くなることもある。傷みやすい食材を避けて、見栄えよくつくるのが、工夫のしどころ。

 動物の形にしようと決めて、果英はケチャップライスを整え、薄焼きたまごを焼いた。海苔で目鼻をつけた動物は、キャラ弁とまではいかないけれど、かわいくできた。

 動物のオムライス、お花の形のウインナー、隙間にプチトマトとブロッコリー。こども園で蓋を開いたときに、よろこんでくれたらと祈りながらケチャップで頬と口を描き、小さなお弁当箱におかずを詰めていく。

 夫の耕一が白いシャツに袖を通しながら、カウンターキッチンのリビング側からひょいと首を伸ばし、手元を覗き込んだ。

「お、たぬきときつねか。瑠花と萌歌、よろこびそうだね」

「くまとうさぎなんだけど」

「え、そうなの? ところで俺のは?」

「耕ちゃんのは、ご要望どおり、おにぎりにしたよ」

「おお、これこれ。この大智の顔みたいなやつ!」

 耕一は手渡したおにぎりを掴んで、ソファ横のベビーベッドで眠る大智の顔の横に、わざわざ並べてみせる。生後八ヶ月の大智の顔と、そう変わらない。

「今でこのデカさだろ? 今は坊ちゃんかぼちゃサイズだけど、大智に合わせたら、おにぎりもどんどん大きくなるな。見るたびにデカくなるもんな。俺、胃を鍛えないと」

 はしゃぐ耕一にかける言葉を、果英は迷った。

 耕一が大智と顔を合わせるのは二、三週間に一度くらいだから、成長にも気づけるのだろう。毎日見ている果英には成長ぶりが如実にはわからず、羨ましくもある。だけどそう言わないのは、耕一だって本音は間近で成長を見たいはずだからだ。

 耕一は一ヶ月の育休が終わると、勤め先の山海日報の燕川支局に異動になった。抜擢と言える人事だったものの、このタイミングで片道二時間以上かかる支局への異動は、手放しではよろこべなかった。中古とはいえ塔戸市にマンションを購入したのだし、一緒に引っ越せば、双子の保育施設探しや育休明けの果英の働き方など、暮らし全体に影響が及ぶ。耕一としては社命に逆らうわけにはいかず、転職に踏み切るつもりもない。苦渋の決断で単身赴任を選んだものの、耕一不在時の家事育児の負担は果英にのしかかった。

 上の二人に手がかからなくなってきたものの、幼い三人を果英がほぼひとりで育てようと思えばすべてがこども優先で、自分のことは、食事もお風呂もお手洗いでさえ、満足に時間を取れたことがない。寂しい思いもあるだろうけど、よくも悪くもひとりの時間を過ごせる耕一を、羨ましく、ほんの少し妬ましく感じてしまうこともある。

 言葉にすれば積もり積もった小さな悲鳴をぶつけてしまいそうで、その代わりに果英は、握ったばかりのおにぎりのあたたかさを、手のひらでたしかめた。

「具は、明太子とツナマヨとチーズおかかだよ、二つ握っておいた」

「お、宝の探し甲斐がありそうだな、ありがと」

 耕一はふつうの三個分はある大きなおにぎりのあちこちに散らばった具を、宝探しみたいにして食べるのが好きらしい。探せば必ずいいことがあるという持論と重なるらしく、おにぎりの包みを大事そうにかばんにしまう。

 果英は小さなお弁当に蓋をしてランチクロスで包み、洗面所へ向かった。

「歯、磨けた? パパ、そろそろお出かけするよ」

 一卵性双生児の瑠花と萌歌は、鏡の前で黙って並んでいると、果英にもぱっと見はどちらがどちらかわからない。

 餅菓子のようなぷっくりした頬と黒豆みたいな目、小さく見えて奥行きのある口の、どれもがそっくりだ。果英は歯ブラシを持つ手から、水色の制服スモックの下へと目を走らせた。左利きでパンツ姿の瑠花と、右利きでスカートの萌歌をたしかめてから、名前入りのハンカチを手渡す。

「こども園、パパと行きたかったら、出る準備しようか」

「るか、ぱぱといく!」

「もかも!」

 瑠花は口から泡を飛ばしながらぴょんぴょん飛び跳ね、萌歌は丁寧にうがいをして、玄関先で身支度を整える耕一にそれぞれまとわりついた。パパの服で口を拭くな、と言いながらも耕一はうれしそうだ。送りがてら燕川へ向かう耕一と手をつなぎ、肩かけの通園かばんを弾ませるようにスキップする姿に、自然と微笑んでしまう。

 こんなにしあわせなんだから、と果英は自分に言い聞かせる。

 だから、仕事にまでやり甲斐を求めるのは、贅沢なんじゃないだろうか、と。

 今月中に、職場復帰に向けたヒアリングの電話が、かかってくるはずだった。

 

 果英たちの住む塔戸市は、北関東の左手と呼ばれている。ちょうど左手のような形をしていて、指をふわっと折り曲げたら、地形図になる。

 親指にあたるのが地名のもとになった塔山。山といっても標高二百メートルほどで、てっぺんには昔、山城があったらしい。今は山全体が大学のキャンパスになっていて、中堅国公立大の塔戸大には、各地から学生が集まってくる。

 山の麓から、親指の付け根の膨らみに沿って行き着いたところ、手首の真ん中が塔戸駅だ。特急なら一時間かからずに都内に出られるアクセスのよさも、塔戸にひとが集まる理由のひとつだろう。山と駅を結ぶ弧を描く道は旧街道で、桜並木に沿って寺社や図書館、小中学校、運動施設が立ち並び、塔戸駅から中指に向かってまっすぐに延びる大通りの周辺には、大型商業施設やホテル、文化施設や官公庁などが連なる。

 果英たちの住むマンションは大通り沿い、手のひらのちょうど真ん中あたりにある。旧街道と大通りの間を縫うように広がる暁町商店街にも近く、駅との中間地点にあるこども園へも、徒歩十分ほどと便がいい。

 塔戸に住むのをあと押ししてくれたのは、かつての職場の後輩、泰美の一言だった。

「いいところですよ、塔戸。山の緑はきれいだし、街のひとは穏やかだし、食べものもおいしいです。子育てにもいい環境みたいですよ」

 隣の懸羽市の出身だという泰美は塔戸にも詳しく、都内で独り暮らしをしているけれど、家庭を持ったら塔戸に住みたいと話していた。果英たちが勤めるウェブ系企業は情報通信業界の例に漏れず残業が多い傾向があるものの、塔戸行きの電車は比較的遅くまで運行しており、長い目で見ても仕事が続けやすそうだと感じた。

 耕一が塔戸の北関東総局に配属になったのを機に塔戸に住みはじめた。けれど、耕一が単身赴任中の今は、ひとりで担うものが多過ぎて、塔戸の暮らしやすさを実感できるほどの余裕はない。

 とはいえ東北地方の温泉都市として栄える燕川は、都内の果英の勤め先へ通うには遠過ぎる。

 自分の世界を家庭だけにしぼる勇気はないし、先々の子育て費用を思えば、正社員の座を手放す気にはなれない。

 双子を授かったあとは、家庭生活でも仕事でも向き不向きを考える余裕などなく、周囲の助けを得ながらがむしゃらに乗り越えてきた。

 けれど、二度目の産育休の今、改めて考えると、自分がひどく不器用で出来損ないになったように感じる。生きる環境が少し変わっただけで役に立たない自分に、誇りや自信を感じる機会はほぼない。

 家庭と仕事のちょうどいいバランスなんて、難問中の難問に違いなかった。

 

「しふく弁当ききみみ堂」は全4回で連日公開予定