今の山根香里では、なにを言っても、どんな謝罪をしても、すぐに揚げ足を取られて炎上のネタにされてしまう。過去を掘り返され、ありもしないことをでっち上げられ、家族や親戚を盗撮され、自分にかかわる誰も彼もが日常を奪われてしまう。
しかしどこを歩いても誰も振り返らない、まったく別の人間になれば、話は別だ。
今まで自分たちを虐げてきた連中を、知らない誰かになって罰してやりたい。
「いいアイデアですね」
思わず山根は、千麻莉と顔を見合わせた。
本橋がなにを言おうとしているか、千麻莉にもわからないようだ。
「では、生まれ変わってみますか」
驚きから最初に声を取り戻したのは、千麻莉だった。
「な──先生! なにを言い出すんですか!」
慌てる千麻莉を、本橋は軽くなだめる。
「福留さん。あの方と同じですよ」
「そ、それとは……ちょっと、違うんじゃないですかね」
思い当たる節でもあるのか、千麻莉は言葉を濁していた。
「この絹糸町南口にPMCを開設してから、山根さんと同じように『新しい自分になりたい』と相談されたことが何度かあります。でもおもしろいことに、その方たちは皆さん、口をそろえてこう言われたんです。弱くなった自分を捨てたい、と」
残り少なくなったコーラの瓶を眺めながら、本橋はこう告げた。
「そんなこと、できるんですか?」
「生まれ変わりにも三種類ありますから、選んでいただくことになりますけど、まずは一番重くて黒いやつから説明しますね」
まるで商品セールスのように、その話ぶりはあまりにも軽い。
前のめりになった山根に応えるように、本橋は膝を組みかえた。
「離婚届が受理されたら、明人さんや翔太君も含めて、親兄弟から親族、友人などとの連絡を、一切断ち切ってください」
「えっ! 全員とですか?」
「本当に社会から姿を消して、明人さんに『山根香里の行方不明届』を出してもらいます。カードやスマホでのデジタル決済も、所在と生死を知られる『社会的な紐付け』になるのでダメです。必要な支払いは、すべて現金で行ってください。その間の住所は、身元を詮索せず住民票も必要としない『困窮者シェルター』を紹介します。どうしてもスマホが必要なときは、僕が法人契約をしているものを用意します」
「……そのあと、私はどうなるんですか?」
「それから七年間所在がわからず、家庭裁判所から失踪宣告が出れば、失踪届けを役所に提出できます。そうすると『山根香里』は戸籍から消え、法律上は死んだものと判断されます。これは、犯罪者が身を隠すときなどにも使える方法ですね」
「そんな……それじゃあ私は、二度と翔太に」
「いえ、翔太君には会えますよ。ただし、日本のどこにも存在しない女性として」
あきらかに山根は動揺していた。生まれ変わりたい、新しい自分になりたいとは思うものの、そこまで存在を完全に消してしまうのは、あまりにも恐ろしい。
「……先生、それはちょっと」
「ですよね。山根さんが『黒い選択』をしなくて、よかったです」
その言葉を聞いて、山根は胸をなでおろした。
隣に座る千麻莉の顔は「なんてことを言い出すんだ」と言わんばかりに歪んでいる。
「では次に、中級編です。病院の診療記録上、別人になってもらいます」
レベルが下がったとはいえ、かなりハードルの高い話に変わりはない。
「……個人情報を偽造する、ということですか?」
「厳密には違います。たとえば出産したことのない山根さんのお腹に帝王切開の手術痕があったら、それは本当に山根香里さんと言えるでしょうか」
逆に言えば、山根香里にはないはずの手術痕の持ち主が、いくら山根香里だと言い張っても、信じてもらえないということだ。
「帝王切開……私が?」
山根は、自らの腹部に手を当てた。
帝王切開——それは妊娠出産を経験していないと、永遠につかない傷跡だ。
「それから親不知を抜いたり、虫歯の治療を片っ端からしたりしたあとで、どこかの歯科に新しい歯型の診療記録を作っておきましょう」
「もしかして……そのとき、偽名で受診すれば」
「今の制度だと、保険証を提示しなくても十割負担さえすれば、病院の受付は患者の言うがままの情報をカルテに入力します。とくに町の開業クリニックでは、楽なものですよ」
身元のわからない行き倒れの死体=行旅死亡人においては、こういった手術痕や歯型が、その人物を特定する重要な手がかりになるという。
「これで診察記録上の『別人』が完成します。そのまま別人として十割負担で受診してもいいですし、もちろんPMCを受診してもいいです。必要なときは、話の通じる大きな病院を僕が手配します」
この話に、山根は激しく心を揺さぶられていた。
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