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「ご存じだったんですね……辞職しましたけど」

「いえ。福留さんから教えてもらいました」

 千麻莉を見たあと、山根は黙って視線を落とした。

 体調もよくなったのだから、これ以上ここに留まる理由はなくなった。当たり前だが、またあの日常に戻らなければならない──そう考えると、仮病を使ってでもここから離れたくないという、子供じみた考えさえ湧き上がってくる。

 見上げた点滴のパックは、もうすぐ空になろうとしていた。

「看護師さんも、本当にありがとうございました。私が寝ている間」

 隣の千麻莉が、山根の言葉をさえぎった。

「山根さん。治療はこれからです」

「でも、もう点滴は」

PMCうちへ来るまでに何があったか、教えてもらえませんか」

 千麻莉に同意するようにうなずく本橋を見て、山根は動揺する。

 果たして自分は今、これほど澄んだ瞳をしているだろうか。

「なんで、初めて会った……むしろ『いま面倒なことになっている』とわかっている人間に……そこまで、よくしてくださるんですか?」

「僕、どこにも行き場がない人を診るのが趣味なんです」

 千麻莉の突き刺さるような険しい視線に気づき、本橋は言い直した。

「別の表現をすると、どこにも行き場がない人を診るのが好きだ、ということです」

 やり取りが滑稽こっけいで、それでいて人情味にあふれる本橋と千麻莉に、山根は好感を抱き始めていた。ここは繁華街の怪しい雑居ビルにありながら、まっとうな医療だけでなく、居心地のいい空間まで提供してくれる。姿の見えない人間たちに攻撃され、両親からも距離を置かれた山根には、このふたりになら本当の気持ちを吐き出してもいいような気がしてならない。

 いや、どうしても話を聞いて欲しかった。

「ご存じかもしれませんが、私には息子がいまして──」

 翔太の話に留まらず、山根はこれまでの経緯を、明人と結婚する前まで遡って話した。

 本当の母親になりたい、母親であろうとしたからこそ、育休や子育て支援に本気になったのは事実だ。しかしそれは自分こそが翔太の母親であるという自己顕示欲や、単なる自己満足ではないかという後ろめたさが、常につきまとった。どこまでが本心で、どこまでが偽善なのか——考えれば考えるだけ、その境界線は曖昧になっていたのだ。

「なるほど。それで納得できました」

 本橋は、妙に満足そうな顔をしている。

「それなのに、私は……せっかく手に入れた大切な家族、大切な子どもなのに……私は」

 

「なにもかも捨てて、消えてしまいたいと思っている」

 山根の背中を嫌な汗が伝う。

「え……」

「間違っていたら、申し訳ありません。でも、違います?」

 それは決して認めてはならない、山根の脆弱な一部。大切な我が子を守りたいなら、親が抱いてはならない負の感情だ。自分も辛いが、子どもはもっと辛い思いをしている。そこから山根は逃れられるが、翔太は逃れられない。だから自分がどれだけ辛くても、それだけは考えないよう、常に目を背けてきたというのに——。

「ち、違います。私は翔太を守りたいんです。あの子は私の」

「なんとしてでも翔太君を守りたいという気持ちは、間違いなく山根さんの本心です。でも、なにもかも捨てて消えてしまいたいという相反あいはんする気持ちも、山根さんの本心ではありませんか、という意味です」

「先生、私は……」

「感情の善悪なんて、どうでもいいんです。そう思ったこと自体を、否定する必要はありません」

 なにも言えなくなった山根を前にして、本橋はコーラをひとくち飲み、その瓶をテーブルに置いた。

「少し、不思議だったんですよ。強いストレスを受ければ、あらゆる心身症状が出てもおかしくはありません。でも、山根さんは多すぎです。緊張型頭痛、不眠、過敏性かびんせいちょう症候群しょうこうぐんの腹痛と下痢、ストレス性胃炎による胃痛と嘔気に嘔吐、動悸、めまい、挙げ句に血尿——もしかして最近、じんま疹も出ていませんか?」

 沈黙が答えだった。

 本橋にはなにも隠せないと、山根は覚悟する。

「マスコミや無神経な動画配信者、ネットでの炎上、ご家族や親御さんにまで及ぶ二次被害は、尋常ではないストレスを与えてきたことだと思います。でも、山根さんは悪くない。むしろ犠牲者です。そう思いませんか?」

「犠牲者だなんて……これは私が親として、ちゃんとしていなかったから」

「だから翔太君のためなら、どんなことでもしてやりたい。それなのに」

「そうですよ──」

 本橋に誘導されるまま、山根は腹の奥底から言葉を吐き出した。

「──それなのに、不特定多数の人間から誹謗中傷を書き込まれて、消えないデジタルタトゥーを残されて、家族から親戚まで丸ごと世間からサンドバッグにされて、翔太のことに向き合う時間すら満足に与えてもらえないんです」

「自分のことで精一杯でも、仕方ない状況だとは思いませんか?」

「私だって、人間です。離婚もしたし、区議会議員も辞職したんですから、正直に言えば何もかも捨てて逃げ出したいですよ。でも、それをやったら私は」

 言葉に詰まった山根をなだめるように、本橋は優しく告げた。

「逃げたいけど、逃げられない。誹謗中傷に加えてそんな相反する感情があるからこそ、今の尋常ではない心身症状やストレス反応に現れているんだと思います」

 山根は視線をテーブルに落としたまま、うなだれた。

「私は、どうすればいいんですか……どうすれば世間のバッシングに耐えながら、翔太の母親でいられますか?」

「このままでは、どちらも難しいでしょうね」

 本橋の低く通る声が、山根の脆くなった心を揺さぶる。

「私、こんなに弱かったのかと思うと……情けなくて」

 感情の防波堤が決壊しないよう、背伸びをして踏ん張るのにも疲れた。

 その頬を、一筋の涙が伝う。

「先生……新しい自分になりたいです」

 

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