「……すみません、その通りです」
不意に、山根の頬を涙が流れた。
「大変でしたね。今、どんな症状が辛いですか?」
隣の千麻莉から差し出されたハンカチで涙を拭いながら、山根は自分の体に起こっていることをすべて訴えた。
「先生。点滴の内容は」
「生理食塩水(生食)500mLに、炭酸水素ナトリウムを1/2アンプル、50%グルコースを1アンプル、オメプラゾールを1アンプル、ドンペリドンを1アンプル、混注で」
「了解です」
「山根さん。まず、点滴をさせてもらってよろしいですか? 脱水の補正、血液のpHの補正、低血糖の補正、胃粘膜病変と、嘔気に対する薬剤です」
うなだれた山根は、小さく首を縦に振るのが精一杯になった。口に出して助けを求めたことで、限界で強制稼働させられていた体が制御を失ったようだ。
「あと、採血させてもらってもよろしいでしょうか。急性腹症などの強い炎症や感染、貧血が隠れていると困るので」
本橋が説明している間に、処置セット一式が載せられたカーゴを引いて、千麻莉がソファーに戻って来た。わざわざ処置室やベッドに移動するまでもなく、ここではお茶を出す感覚でソファーで点滴をしてくれるのだと、山根を不思議な安堵感が包む。
左腕をゴムの駆血帯で縛っている千麻莉は、すでに点滴の準備を済ませ、見慣れた点滴棒に透明な薬液の入ったパックを吊していた。
「アルコールで、かぶれたりしないですか?」
「大丈夫です」
左肘の内側をアルコール綿で消毒すると、ものの数十秒で留置針を刺し、手際よく針を抜いてテープで固定してしまう。千麻莉の動作に迷いはなかった。
「痛くないですか?」
ぼんやりしていく山根の視界で、吊されたパックから伸びる管の途中では、ぽたりぽたりと薬液が落ちている。驚くことにその点滴が、血管の中をゆっくりと流れていくのを感じる。それと同時に、抗いようのない眠気が襲ってきた。
「山根さん? 点滴を刺したところ、痛くないですか?」
「……はい」
ここなら、ひと息つける。
見えない敵に怯えず、体の力を抜くことができる──。
それを最後に深い寝息を立て始めた山根は、ソファーにもたれたまま首をうなだれた。
「先生、どうします?」
「『つちや』の大将に頼んで、焼きおにぎりでも作ってもらいませんか」
「いや、晩ごはんじゃなくて。この方です」
「もちろん山根さんの分も頼みますけど、まだ食べられる状態ではないと思います」
「そうじゃなくて……」
本橋は「わかっていますよ」とばかりに笑っている。どこまで本気で言っているのか、いまだに千麻莉にも理解できないときがある。
「まずは、寝かせてあげましょう」
「じゃあ、処置室のベッドに運びますか?」
「起こすのもかわいそうですし、初診の方ですから、目の届くここにしましょう」
「了解です。検査は、外注にも出します?」
「お願いします」
「あとで伝票ください。口頭はダメですよ」
千麻莉は山根をソファーに横たえると、クッションを枕にしてタオルケットを掛けた。
それは山根にとって、久しく味わっていなかった深く安楽な眠りとなった。
*
山根がソファーで目を覚ましたのは、深夜十二時だった。
「……え?」
左腕にはまだ、点滴の管が繋がれたままだ。
「点滴、痛くなりました?」
状況を整理するまで数秒かかったが、スマホをいじっていた千麻莉から声をかけられて、山根は我に返った。
必要なだけの間接照明を残して電気を消された薄暗いPMCの中は、最初の印象とは違い、思いのほか穏やかな雰囲気だった。それはこの数ヶ月で、今が最も体調がいいからかもしれない。なにより、ここがきちんとした医療を提供してくれる、まっとうなクリニックだったことが一番の理由かもしれない。
「いえ、大丈夫です……」
「院内でやれる検査の範囲では、とくに問題ありませんでしたよ。強い炎症反応も感染の徴候も、慢性の出血による貧血傾向もありませんでした。あとの細かい項目は、朝になったら外注検査に出しますから」
「そうですか。ありがとうございました」
「トイレは、大丈夫です?」
意識を失ってから、四時間近く経っている。吊り下げられた点滴のパックが何本目なのかわからないが、言われて思い出したように膀胱が限界に達していると知らせてきた。
「……すみません。お手洗いをお借りしたいです」
「よかった。点滴が体を一周した証拠ですね」
千麻莉に点滴棒を持ってもらいながらトイレに向かったものの、山根は用を足すのが恐かった。しかし便器は真っ赤に染まらず、胸をなでおろすことになる。
「なにか食べます?」
トイレを出ると、千麻莉の笑顔に迎えられた。
それは選挙の時に自分が振りまいたものとは、まったく違う純粋なものだ。
「いえ、そこまでは」
「体調的にですか? それとも、遠慮して?」
驚くことに、山根の食欲は少しだけ戻っていた。何か食べないと体がもたないと、なんでもいいから無理やり口に放り込んでいた食事を、今は積極的に食べたいと思えるのだ。
「ありがとうございます。でもここ、クリニックですから」
「気にしないでください。下の居酒屋、まだやってますし」
そんな話をしながらソファーに戻ると、室内の電気はすべて点けられていた。そしてどこから姿を現したのやら、本橋が目の前に座っている。
「山根さん。顔色、よくなりましたね」
「ありがとうございます。ここ数ヶ月で、一番体が楽です」
点滴棒を倒してしまわないよう、山根も慎重にソファーに座った。
隣には、相変わらず千麻莉が座る。
「それはよかったです。心理的な負荷が取れない限り、その場しのぎですけど」
もう少し言葉を選べないものかと、千麻莉が顔を歪める。
ストレスを引き金とする様々な心身症状は、ストレスの根源となっている問題が解決されない限り、交感神経は過敏な状態のまま。リラックスするための副交感神経はいつまでも優位になれず、自律神経系統はその偏ったバランスを復調できないのだ。
「……かかりつけの先生からも聞いています」
「それなら、話は早いですが——」
本橋は満足そうにソファーの背にもたれ、瓶からコーラを飲んで脚を組んだ。
「——これから、どうされます? 区議会議員の山根香里さん」
ぎょっとして、山根は顔を上げた。
受診してから「山根」としか名乗っていないが、やはり顔がバレていたのだ。
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