五階建ての雑居ビルを見上げ、山根は躊躇していた。

「ここの、二階……?」

 一階は「つちや」という看板を出した、こぢんまりとした個人経営の居酒屋だ。ラブホテルやガールズバーの多いT字路の手前で生き残っているということは、絹糸町で飲み慣れた常連客や、キャバクラの同伴などに使われ、味は保証済みということかもしれない。

「……三階が夜間保育だから、間違いないか」

 そんなタカビルの二階にある「PMC(プライベート・メディカル・コンサルタント)」という看板を、山根は半信半疑で眺めていた。

 絹糸町南薬局は昔と変わらず、大公たいこう通りの片隅で、まだ店をやっていた。店主だった人のい老婆は引退していたものの、今はその娘が跡を継いでいた。後ろで一本に束ねた黒髪にすっぴんで、眉を描くどころかそばかすを隠す気もなく、積極的に働く気配はまったく感じられない。しかしレジカウンターに肘をついてぼんやりしながらも、その視線は常に客の様子をうかがっていた。

 そんな新店主は、出勤前らしき女性たちには言葉少なく淡々と接客をしていたにもかかわらず、レジで山根の顔を見るなり「あんたは、ちゃんと受診しなよ」と、いきなり声をかけてくれたのだ。

 ──ワケありでも診てくれる、いい医者だから。

 時刻は午後八時すぎ。

 これから「出勤」するとは思えない女がひとり、わざわざ絹糸町南口の繁華街にある薬局で、胃薬や鎮痛剤を何種類も買っていたのだ。親の代から夜の世界をよく知る女店主からすれば、その姿はワケありにしか見えなかったのだろう。

 丁寧に断ろうと思った山根だが、心身共に疲れて痛んだ体は、それを許してくれなかった。とくに実家への退路が断たれてからは、胃を絞られるような痛みが続いている。

 完全に行き場をなくした山根は「ワケありでも診てくれる」という言葉に背中を押され、蛍光灯のチラつく怪しげな階段をゆっくり上って、小さなドアを開けてみることにした。

「あの……」

「こんばんは。どうされました?」

 出迎えてくれたのは、襟足の長い落ち着いた髪色のショートヘアに、目鼻の整った顔立ちの女性。大きな目が特徴だがどこか色彩に乏しく、その口調もクリニックの受付としては少し冷たい印象を受ける。

「……遅くに、すみません。さきほど南口薬局の方から、こちらを」

「あ、はいはい。連絡もらってます。看護師の福留です」

 女性の硬かった表情が、一気に溶けた。しかも驚いたことに、オフィスカジュアルというにはカジュアルすぎるパンツスタイルで、受付らしいカウンターにいたというのに、看護師だったのだ。

「初診なんですけど」

「どうぞ、こちらへ──先生、小菅こすげさんから連絡があった方です」

 薬局名ではなく店主の名前で呼ぶあたり「ワケありでも診てくれるクリニック」は、ここで間違いないだろう。

 しかし保険証やマイナンバーカードの提示を求められず、問診票さえ出されなかった。そのうえ案内されたのは待合室だとばかり思っていた、大型のテレビを囲むように置かれたL字型のソファーで、どこを見渡しても診察室らしきドアやブースがない。

 そして診察を待っている白シャツにノーネクタイの患者らしき男が立ち上がり、山根を見てなぜか出迎えてくれる。

「こんばんは。院長の本橋です──」

 穏やかだが低く通るその声は、患者ではなく医師だった。

 そして山根の顔をじっと見たあと、なぜかソファーに座ることを勧めた。

「──こちらでお話を聞かせてもらえませんか?」

「は、はぁ……」

 しかも「診察」ではなく「お話」をすると言う。入口の看板がクリニックではなくコンサルタントであったことを思い出し、山根はこの時点でなかば諦めた。

 看護師の運んで来た温かいお茶には口をつけず、できれば動悸と吐き気とめまいの薬を二週間分ほど処方してもらい、早々にこの怪しい雑居ビルの「クリニックもどき」を立ち去ろうと考えた。胃痛と頭痛は辛いが、それなら薬局やドラッグストアでも手に入る。もっともここが、処方のできる医療機関かどうかも定かではないのだが。

「それで、何があなたを壊したんですか?」

 その言葉が的を射すぎていて、山根の手に嫌な汗が滲んだ。

 症状を聞かれるでもなく、ありきたりな「今日はどうされましたか?」でもない。ここがクリニックではなくコンサルタントであったとしても、少なくとも「何にお困りですか?」と聞くのが一般的だ。

「……壊した?」

 気づけば千麻莉は、山根の隣に座っている。これが面談や相談であったとしても、看護師は通常、院長の隣や別の一角に離れているものだ。

「失礼しました。まだ、お名前をうかがってませんでしたね」

 山根は偽名を名乗ろうかとさえ思った。

 しかし酷くなる一方の胃痛と頭痛が、そんな余裕を与えてくれない。

「山根、です……」

「山根さん。南口薬局の薬剤師さん——小菅さんって言うんですけど、あの方は鼻が効くんです。『夜の薬局』を先代のお母さんから引き継いで、もうかなり経ちますからね」

 本橋は、手元にあったコーラの瓶に口をつけた。

 おおよそ、診療とも面談ともほど遠い雰囲気だ。

「南口薬局のレジに出されたいくつかの市販薬は、オーバードーズをしても死ねる類のものではないのに、山根さんの顔色が悪すぎる。つまり、真剣に体調が悪い——」

 本橋が話している間、隣で千麻莉が常に山根を眺めている。その目は興味本位ではなく、山根から発せられる身体の徴候を探しているようだった。

「──ここへ来られてから姿勢が常に少しだけ前かがみなのは、腹部をかばう姿勢の可能性が高く、持続的な腹痛を疑うのに十分です。手掌や指先の血色が悪く、口唇が乾燥していますから、脱水傾向も疑わしい。そんな状態なのに、道路をふたつほど越えたところにある禄塔病院の救急外来ではなく、ここを紹介された。ということは、もうすでにあなたの中で何かが壊れてしまったということ。この界隈では、よくあることです」

 ひと思いに話すと、本橋は再びコーラをひとくち飲んだ。

 ニュースや動画で報道されていることは、ひとことも口にしない。ということは山根を元区議会議員でもなく、麻薬犯罪を侵した義理の息子の母親でもなく、嘘か本当かさえわからないまま「ただの人間」として扱ってくれている。そして世間話でもするように今の状況を「よくあること」だと、軽く受け入れてくれるのだ。

 その姿は、張りつめていた山根の心を緩めた。

 

「Dr.グレーゾーン」は全4回で連日公開予定